アシカと残り香

とじしろわだち

アシカと残り香

じゃあ必要ないんじゃない、とユキちゃんが言った。冷たい声だった。僕より少しだけ背が高くて、丸みのあるショートヘアで、紺色の制服がよく似合う落ち着いた感じの女の子だから、僕は合わせてしまった目を逸らすことができなかった。でも、直視するには耐えがたいものがあった。眩しすぎるんだ。その、日焼けとか知らなそうな白い肌。

「こんなにしたままほっとくなんて、どんな神経してるの」

 声が首筋に刺さる。ユキちゃんは足元に転がっていたアシカのぬいぐるみを拾いあげた。そして、お腹の、前ひれの近くから飛び出てしまった白い綿を、細い指で撫でた。一昨日できた傷跡だった。いつもの通り腿の上に置いて勉強をしていたら、突然大きな虫が部屋に入ってきて、そいつをどうにかしようと躍起になっている最中に、誤ってペンの先が刺さってしまったのだ。それなのに、直すこともしないでいたのだ。縫い直そうと思えば、スムーズにとはいかないだろうけど、できないこともないというのに。

ユキちゃんが怒るのは当然のことだった。ぬいぐるみのほつれをただごとにしていないのは、間違いなくユキちゃんの道徳心からだ。僕がこのぬいぐるみを大事にしていることは、初めて彼女を家に招き入れたときに伝えていた。

僕が六歳になった誕生日。その日はたまたま土曜日で、せっかくだから僕の好きな水族館にでも行こうと、おじいちゃんが提案してくれたのだった。アシカのぬいぐるみは、そのときおじいちゃんが買ってくれたものだった。なんでも、僕がアシカのショーに釘付けになっていたかららしい。

値段で言えば全然かわいいものではない。それでも与えてくれたのは、きっとそれ以外のわけがあったのだろうとは思う。だって、七歳の誕生日のときには、おじいちゃんはなくなってしまっていたから。

そんな話を聴いていたから、ユキちゃんはユキちゃんで、何かしらの思い入れがあったのだろう。

「へえ、じゃあこのアシカには思い出が詰まってるんだ」

 ユキちゃんはアシカを抱きながら笑っていた。

「うん。なんかおじいちゃん、そのときすっごい張り切ってたらしくってさ。奮発してくれたみたいなんだ。

 もう、ありがとうは言えないんだけどね」

「じゃあ、一生大事にして、伝え続けなきゃだね」

 こんな会話もした。僕は「うん」って返した。でも、軽薄だった。返事に込めた意識より、ユキちゃんと話を弾ませられて嬉しいという気持ちの方が勝っていた。

 その軽薄さが、今、彼女に涙を溢させている。 

「じゃあこんなの、もういらないじゃない。中学生の、男子のくせに。ばっかみたい」

彼女は持っていたボロアシカを、床に座っている僕に投げつける。胸の真ん中に当たった。ぼん、と軽い音がした。僕の膝の上にボロアシカが落ちる。お腹の色、褪せてたんだなと、仰向けアシカを見て思う。

「『縫ったほうがいいかな』とか、私に聞かないでよ。なんだよぉ」

彼女はへなへなと膝をついた。絵に描いたような女の子座りだった。その姿は実際よりもずいぶん小さく見えた。白い壁に囲まれた部屋は、本棚がひとつと、ベッドと机くらいしかないから、四畳半のくせに余白が多すぎて。

 彼女の怒りとかなしみが、いっぺんに空気を歪ませていくのを僕は確かに感じ取っていた。

「大事なんじゃ、ないの。好きなものくらい守り通しなよ」

彼女は顔を俯けたまま、鼻をすすって泣いていた。肩の上下が激しい。彼女の周りの空気は、どうやら高熱を帯びているらしかった。陽炎。背景はどこもかしこもすっかり歪んでしまって、彼女だけがくっきりと、この狭く白い世界にいるみたいに見えた。

「ごめん」

僕は、どうして何もできないんだろう。仰向けボロアシカを、跨ぐことすらできなかった。せっかく、家に遊びに来てもらったのに、機嫌を悪くさせて、しかも泣かせてしまうなんて最低だと思う。すっからかんの白壁に、すすり泣く声がぶつかって、反響して。

「謝るの、私にじゃなくない?」

彼女は顔を上げる。目は真っ赤に充血していて、眼光は、なんだか飢えた肉食獣のそれのようで、彼女の背中を黒煙が覆っているように見えた気がした。僕はすっかり萎縮してしまって、息を呑む音でしか返事ができなかった。

「恥ずかしいやつ」

彼女は、薄いカーペットをとっても弱い力で殴った。市松模様の、白じゃなくて紺の部分を。空気の歪みも変な煙も、ぱっと、午後十時に消える街灯みたいになくなって。そこで初めて、彼女が、ユキちゃんが白樺の枝みたいな頼りない腕をしているって、知った。



 あっけなく、終わった。二ヶ月くらいだった。恋は甘酸っぱいとか、失恋は苦いとかいうけど、僕の場合は、なんだか土臭いだけ。噛めば、じゃりじゃりするような気もする。

もう別れてから一ヶ月経つのに、まだまだ鮮明に、あの日のことを思い出せてしまう。

「おい拓斗、元気か?」

クラスメイトの谷中に背中を叩かれる。いつもと違って、今日は朝から机に伏していたからだろう。顔を横に向けると、谷中はいつも通りのニコニコ笑顔だった。

「元気に見えるかこれがー」

「お前、昨日張り切りすぎたか?誰だ、誰そーぞーしたんだ?」

谷中は手を上下に振ってみせた。

「うるさーい」

再び顔を伏せる。答えなんか返すわけないだろ、と代わりにため息を吐いた。あー、と声を出しながら。

なんだか最近、身体がずっとふわふわしている。誰かが話す声も、ペンを握るという行為も、座っているときですらなんだか落ち着かない。地に足がついていない、というか、大きく息を吸ってしまったら熱気球のように膨らんで、宙に浮いてしまいそうになる。そんな感覚が体に纏わりついていた。頭はずっとぼんやりとしていて、胸には微かな痛みが、切れかけの蛍光灯が不規則な点滅を繰り返すみたいに、現れては消えてを繰り返していた。寝ても覚めても変わらなかった。

思えば、ユキちゃんと別れてからな気がする。

「ユ、キ、ちゃん、か?」

谷中が耳元で囁いた。

「あぁ!?」

僕は身体を起こした。どうして、あの子の名前が。そう言いたくなったのをぐっと堪えた。喉に鈍痛が走る。

「うわっ、びっくりしたー」

谷中の大きな手が、僕の頭を撫でる。ペットをあしらうみたいに。

「何すんだよっ」

谷中の手を払い除けようと、彼の手首を叩く。これもなんだか、飼い主から撫でられるのを拒みつつも逃れられないペットのような気もする。何回か叩いたけれど、結局、谷中の手は僕の頭の上に落ち着いてしまった。

「てか、なんであの子なんだよ」

撫でられながら、一応訊いてみた。谷中には、ユキちゃんと付き合っていたことは教えていなかったはずだ。適当を言っているのかもしれない。

「そりゃ、だって」

谷中の手が前髪を押し潰す。毛先が目に当たってかゆかった。

「お前、じろじろ見すぎなんだよ、いつも!」

谷中の指が、こめかみを鋭く押した。

「いって!」

「見たくなるのは分かる!確かにかわいい!そんでもって綺麗!肌白い!あと、明るい性格してんのもいいよなー。でもよお前、さすがに見すぎだ。ストーカーだぞ」

「そ、そんなにかよ」

胸騒ぎがする。谷中はそれに気付いているのかは分からないが、今度は両手を頭に置いてマッサージをし始めた。がさつな手つきで、爪の先が当たって痛い。こいつ、あんまり爪の手入れをしないから。

「うん。あと」

 谷中の手が止まる。

「ちょっと危うい感じの目してる。なんか、なんつーんだろうな、謎の執着心を感じんだよな」

「え」

意外だった。ユキちゃんのことはできる限り見ないように、気にしないようにしていたから。執着心とは縁遠いはずだ。けれど、それはあくまで「そうしていたい」という意向でしかなくて、自分の中に執着心に似た感情が微塵もないとは言い切れないことも、確かに自覚していた。

それが、何の関係もない谷中に伝わっていたなんて。素朴な落胆が胸に垂れてきた。知らず知らずのうちに、自分の程度が地の底にまで落ちていた。別れて、それも自分が悪いからだということも理解しているのに、執着を捨てきれていないなんて、情けないにもほどがある。

「まあ、あの子には気付かれてないかもだから、な」

谷中の手が離れる。肩を二回叩かれた。そんなわけないだろ、と言いそうになって、唇と一緒に言葉を嚙み潰したから、口の中に鉄臭さが広がった。


 それから、また何日か経った。胸にある痛みが強くなってきた。それに、不可解な浮遊感も増してきて、ただの呼吸をするだけでも危うい感じがするようになってきた。自分が軽すぎるんだ。自覚はある。でも、どうやったら解消できるかはさっぱり分からない。

 何かの病気に罹ってしまったのだろうか。と、額に手を当てたり、手首に指を添えてみたりと、わざとらしい確認をしてみたことは何度もある。淡々と平熱を告げる体温計に苛立って床に放り投げてしまったこともある。いっそ病気であれば、胸にある痛みだって、何かの小難しい理由のために引き起こされているのだと、めちゃくちゃな理解を頭に入れられるのに。そんな拙い誤魔化しさえも許してくれないみたいだ。病気の名前が分かりきっているからだ、きっと。

 今日は一段と酷い。胸の痛みが、いつ消えているのか分からないくらいに高速の点滅を繰り返している。頭だけではなく、視界も薄らぼんやりとしているので、学校の昼休みの間はずっと机に腕枕を敷き、頭をうずめて目を瞑っていた。何度か遊びの勧誘を受けたけれど、その度に「今日は無理。昨日徹夜したから、眠い」と返した。痛すぎるのだ。棘でも刺さっているのかと錯覚するくらいに。返事をするだけでも立派だと思ってほしい。

結局、昼休みの間は一秒たりとも身体が起き上がらなかった。チャイムが鳴って五時間目を迎えたはずの教室は、まだガヤガヤとやかましい。社会科の山田先生はいつも始業五分後以降に教室に来るから、きっとそのせいだろう。あの先生、ちょっと年寄りだからって舐められているんだ。

ユキちゃんは、同じ教室の真ん中あたりにいる。彼女の声も聞こえてくる。明るい声で笑っている。きっと、後ろの席に座っている友達と昨日のドラマの話でもしているのだろう。満面の笑みがくっきりとイメージできてしまった。薄暗い腕枕の中だけど、どんな顔で笑うかくらいは分かる。あの子、火曜のサスペンスですら真っ直ぐに面白がるから、友達のお墨付きドラマは楽しくて仕方ないはずだ。ほら、共感が弾んでいる。声の浮き沈みが激しいんだよ。そういうところが……胸に鮮烈な刺激を与えてくる。今は、痛みという形で。

膝が揺れ始めた。小刻みに。震えているわけではない。ただ、胸の底から頭に向かって急激に熱が上ってきていることが分かる。痛みを引き連れて。僕がこんなに苦しいのに、君はどうして笑っていられるの。普通にしていられるの。

きっと今頃、耳は真っ赤になっているだろう。怒っているときに自然と出てしまう現象だ。恥ずかしい。痛い。誰も見ないで。気にしないで。痛いけど、放っておいて。みんな、テレビの話でもしていて。ああ、もう頭がすごく痛い。ドリルで脳天を突き破ろうとでもしているのではないかと思うくらいに。

痛みはとめどなく襲い続け、そして過去を掘り起こした。

「私のこと、大事にするって言ったけど、無理でしょ」

ユキちゃんが、玄関先で呟いた捨て台詞。目元を拭ったまま、上擦った声で喋っていた。僕は引き止めるための手も伸ばせなくて、ただドアが閉じられるのを見ているしかなかった。ばたん、という音がやたらと胸に響いた。きっと、すっからかんだったせいだろう。

 僕はいまだに、何がそんなにあの子を傷つけたのか分からない。でも、別れてひと月経っても、鮮明に思い出してしまうのだ。泣き声も、泣き顔も、投げつけられたボロアシカのことも。

 僕はまだ、あのアシカを直せていない。綿が飛び出たまま、本棚の上に置かれている。というか、もう見たくもない。ユキちゃんの怒った顔を思い出してしまうから。

もう、五分は経っただろうか。先生はまだ来なくて、やかましいのは全然おさまらない。当然、胸の痛みだってそう。いよいよダメになってしまう気がしたので、ゆるやかな深呼吸を始める。傍から見たら、僕は喧々とした中で睡眠をしているマイペースなやつにでもなるだろうか。いや、そもそも誰も見ていないか。

なんだか、喉が渇いてきた。ミルクティーがほしい。砂糖と牛乳が沢山入っている、とびきりに甘いやつ。胸焼けしてしまうくらいに容赦ないやつがいい。そうすれば、痛いのなんか気にならなくなるかもしれないだろ。

「おい、俺、教科書忘れちゃったんだよ」

 隣の席から何か言っているのが聞こえてきた。太った男の声だった。変声途中だから、ボケたラジオみたいに掠れていて、奇妙に甲高くて、ちょっと酸っぱいにおいがする。僕は不貞寝のフリをやめなかった。

「おい、教科書忘れちゃったんだよ」

肩を叩かれる。酸っぱいにおいが近付いた。そういえば、ユキちゃんはシトラスミントみたいな匂いがしたっけ。

 頭に熱が昇った。

 大事にするって、そもそも何だろう。

以前、僕はユキちゃんに褒められたことがあった。小学生の頃に授業で作ったティッシュケースを中学生になっても使うようにしていたら、周りの男友達は「そんなの、お前しか使ってねえよ」「もう捨てるだろ、そんなもの」とか口々に言うのだったが、ユキちゃんだけは違った。

「いいんじゃない。だって自分が作ったものなんだもん。大事にしたくなるのも当然でしょ」

そう言って、男どもを一蹴していた。

厳密に言えば褒められたわけではないのかもしれないけれど、あの、多数派に吞まれずに「いいじゃん」と言ってくれたのは、何にも代えがたい肯定に感じられた。大事にしていて良かったと思った。生き方を認められた気がした。

でも、ユキちゃんを大事にすることは、ティッシュケースとはわけが違うような気がする。多分、彼女の言う「大事にする」を、僕はまだ知らないんだ。

じゃあ、そもそも大事にできるわけ、ないじゃん。知らないんだから。それに、僕が思う「大事にする」だってできるわけがない。僕はちっぽけなんだ。

ユキちゃんのことは大事にしたかった。だって、大好きだから。でも、元々、僕と彼女じゃ人間としての格とか位みたいなものが違いすぎる。僕は見た目容姿が悪くて、特別秀でた資質もない。友達も多くない。これといった趣味もない。充実している時間なんて、学校にいるときくらいしかない。つまらない人間なんだよ。そんな奴が、きれいな顔立ちで、勉強もできて、友達も多くて、好きなことで人生を満たしているような人を、漠然と好きになってしまっただけなんだ。ハナから、釣り合ってなかったんだよ。僕ら。

ユキちゃんは、大事にするには遠すぎるんだ。

「おい、無視すんなよ」

肩に重いものが乗る。酸っぱいにおいが急接近。

 我慢ならなくなった。

 腕が上がる。伏せていた上半身が元に戻る。仰け反る。頭に何かぶつかって、甲高い声が耳を劈いたような気がしたけれど、それから先は、よく分からない。

 ひとつだけ分かるのは、僕が荷物を持たずに教室を飛び出して、近所の川辺に座っていることだけ。数多の車両が通る橋の下、誰もいなくて来やしない、薄暗い、川の音だけが微かにあるところ。河原に敷き詰められた石ころの上に、僕は座った。

 石を拾って、投げる。たぽん、と川に落ち入る。ひどい、静けさだった。僕はまた、あの子のことを思い出す。

 別れたあとも、クラスは同じだから、合わせないようにしてもたまに目が合ってしまう。教室の端っことど真ん中なのに。彼女の友達の隙間から、視線がぶつかる。そして決まって、僕から目を逸らす。二秒くらいは目を合わせていられるのに、ぶつかった視線は冷淡な白い光を四方八方に散らすから、とても耐えられなくなる。何故だか分からないけど、どうしようもなく申し訳なくなって。心臓が、変に跳ねてしまう。

 条件反射みたいなものなのだと思っている。ずっと、同じ位置から同じように見ていたから。あの子を見ると、あの冷たく憂いの帯びたような目が、僕までをも浮世の離れに連れて行ってくれるような気にさせて、頭に発する熱がたまらなく好くて、見えている世界が薄ら白いベールに包まれたような錯覚を得る。

「ねえ、キミ。私のこと好きでしょ?間違ってたら、ごめんだけど」

確か、春の終わりくらいの放課後に、あの子にそう言われた。ふたりきりになれた初めてのことだった。

「そう、なの?かな」

間近で見るあの子は、とても荘厳なもののように思えた。そこで初めて、シトラスミントみたいな、爽やかな香りに触れた。

「なに、その自信ない感じ」

白い歯を見せていた。

「ずっと、見てたくせに」

 その一週間後から、手を繋いで帰るようになった。やや骨ばった感触のする手はひんやりとしていて、つかず離れずといった具合に浅く握るから、どこかもどかしい感じと僕らの関係を表すにふさわしいかもしれないという泡沫じみた考えが同時に内心をくすぐっていた。時折目を合わせると、淡い暖色が腹の底から喉を目掛けて浮かんで来た感覚がして、その度に、恋心を自覚させる絡繰を仕込まれているような気がした。

「私、君の手が好きだよ」

いつか、ユキちゃんはそんなことを言っていた。

「不器用だから、なりたいとは思えないんだけどさ。好きなんだ。なかなか離してくれない感じとか」

ユキちゃんはいたずらな笑みで言っていた。

 もう、絡繰を解くことはできないのかもしれない。もう一度、石を拾って投げた。

「あー、つら」

また、たぽん。さっきよりも質量感の増した音。近くを泳いでいた鴨が、生まれた波紋をひらりとかわした。僕は膝を立てて、抱えて、胸と膝の真っ暗な隙間に顔を埋めた。川のせせらぎがくぐもって聞こえて、顔の表面だけが妙に生温かい。胴体には冷たい空気が纏わりついているのに。もう秋も終わるから、肌寒くて仕方ないのに。ジャンパーも教室に置いてきてしまったのだったと、今になって後悔する。少しだけ、首の、鎖骨のあたりが痛い気がした。

 それから五分くらい、鎖骨の痛みは消えてくれなくて、僕は体育座りで俯いたままでいた。けれど、いよいよ身体の冷たさが際立っていくと、このままではいけない気がしてきて、顔を上げた。立ち上がって、伸びをした。

ポケットに手を入れる。ぐしゃ、とビニールが擦れ合う音。中のものを引っ張り出す。布製ティッシュケースに包まれているのは、残りたったの一枚らしかった。

なんでこれ、大事にしていたんだっけ。

自分に問うても返ってくる気はしなかった。悴んだ、真っ赤な指がティッシュケースを握り潰す。所詮こんなものなんだ、と深い皺を見て悟る。そしたらなんだか、無性に腹が立ってきて。

川に向かって走り、水切りするみたいにそいつを投げた。当然跳ねなくて、ただ力なく浮いて、濡れて、流されていった。見送った。遠くに行くそいつが、幸せ者に見えた。もう、見えなくなった。ら、視界の端に人を見つけてしまった。よく知っている顔で、たくさん見た姿の女の子。ユキちゃんだった。

なんで、と思ったのも束の間、ユキちゃんが僕の通学鞄を持っているのに気づいた。そしたら、途端に、胸にあった痛みと身体に蔓延っていた不快感が、変な熱になって喉を刺激した。

「見たんだ」

今、ユキちゃんを見ている僕はどんな顔をしているのだろう。

「そもそも、あんなもの最初っから大事じゃなかったんだ」

 きっと、ものすごく酷い顔をしているに違いない。ユキちゃんを恨み、妬み、そして際限なく怒りを抱えている顔。生まれてから今まで、そんな感情になったことがないから、どんな顔をしているのか本当に分からない。それに、本当にそんな感情を抱えいるのかも分からない。

「そう、なんだ」

柔らかい声が浮かんでいる。それを見つめてはいられなかった。とっさに顔を伏せてしまったので、ユキちゃんがどんな顔をしているかも分からない。

風が、ひどく冷たい。

「君のことも、もともと」

喉が焼けただれているのかもしれない。咳をひとつついた。

「そっか。ごめんね。じゃあ私、すっごい勘違いしてたんだ。

私ばっかりだったんだね」

ユキちゃんが近付いてくる。そっと手が握られて、鞄を手渡された。そして、彼女はすぐに背を向けた。後ろ髪が跳ねて、風に煽られていた。とてつもないスローモーションだった。僕は、手を伸ばした。

「ユキちゃ……」

鷺だ。真っ白な鷺が、僕とユキちゃんの間を飛んで行った。

「たっくんの、ばか」

やっと、目が合った。風が、間抜けな光を散らしていったように見えた。走り去るユキちゃんは、シトラスミントの香りを残していった。瞬きをしたら、光も匂いもなくなって、僕が鼻をすする音が一つだけくっきりと残った。


それから、一ヶ月。僕はやっと、あのアシカのぬいぐるみを縫い直した。久しぶりに抱きしめたそいつは、今までと変わらない柔らかな身体をしていて、ほんのりと、シトラスミントの香りが残っていた。

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