その小さな口許で
非常にわかりやすい話ではあるのだけれど、この何度となくからかわれてきた風変わりな名前を肯定してくれただけで、僕の心は簡単に掴まれてしまった。それは、阿鷹瑚春が校内でも指折りの美少女だからというわけではない。彼女が、決して揶揄ではなく、心から僕の名前を気に入ってくれているのだということが、はっきりわかったからだ。
だから、僕は心の中であの子のだけのためにとっている場所を守り抜くために――これ以上心を掴まれないために――意識的にその存在を思い出す必要があった。
そんな個人的にして一方的な事情で急に黙り込んだ僕を見て、阿鷹瑚春は「あれ、照れてるの?」と顔を覗き込んでくる。鮮やかなピンク色の髪と整った顔と柔らかい匂いが思いがけない近さになったことで、悔しいことに僕の顔は後付け的に火照ってしまう。
「照れてない」
反射的にテスト用紙で顔を隠してしまったせいで、彼女は「嘘つきー!」と楽しそうな声を上げる。このまま阿鷹瑚春にペースを握られてなるものかと、僕はどうにか彼女と対等に話そうと試みた。
「よかった」
と僕はテスト用紙の上から除くようにどうにか彼女を見つめながら言った。
「なにが?」
「俺と同じボッチになっても、阿鷹は普通に喋れるんだな」
もしかしたら、それを口にすることで傷つけてしまうかもしれないと思った。けれど、予想に反して彼女はさっき見せた片目だけを細める笑みをさらに深めて、僕に向かって手の甲を見せる不敵なピースをしてみせた。
僕たちが通う、このなんの変哲もない中庸な県立高校において、阿鷹瑚春はいわゆるスクールカーストのトップに君臨する女子だった。同性だったら誰もが憧れるような長い手足と細い身体に、大きな猫目とすらりと伸びた鼻筋。毎日楽しげなアレンジが施されているセミロングの黒髪。そして透き通るような白い肌。カーストトップを張っていた頃の彼女は、非の打ち所も文句のつけようもない、絵に描いたような正統派美少女だった。
可愛くて、愛想も良くて、クラスの上澄みとでも言うべき垢抜けた奴らに普段から囲まれていた阿鷹瑚春と、僕は入学してから同じクラスだったけれど、一度だって僕らの間に接点はなかった。当然だ。スクールカースト制度に則って話すならば、友達が一人もいない僕は間違いなく最底辺に位置する人間だから。
僕は、個人的信念によりカースト上位層にいるやつらは男女問わず例外なく色眼鏡で見ているのだけれど、そんな中でも阿鷹瑚春の存在感というか、その華やかなビジュアルから放たれている輝きは、認めざるを得なかった。ルサンチマンの抱きようもないほど、彼女の華やかさは圧倒的だったのだ。
だから僕は、こいつは本物なんだな、というお墨付きを一方的に与えて、なんとなく見守っていた。まあ、一生交わることはないけれど、スクールカーストという魑魅魍魎が跋扈する制度で、せいぜい大過なくやってくれよな、と。
それなのに、阿鷹瑚春は堕ちてきたのだ。見上げるほどのてっぺんから、僕のいる最下層にまで。
二ヶ月前、冬休みが明けて新学期が始まったとき、突如として阿鷹瑚春の周りには誰も寄り付かなくなっていた。そして、彼女の髪の毛は見事なまでに浮世離れしたピンク色に染められていた。理由も前後関係もわからないまま、今の阿鷹瑚春は出来上がったというわけだ。
いちクラスメートに過ぎない僕には、彼女たちの間で起こった出来事の経緯や実情はわからない。けれど雰囲気から察するに、普段つるんでいたグループでなにかトラブルがあって、結果的に阿鷹瑚春はグループから弾かれてしまったのだろう。
彼女は、表立って苛められたりすることはなかったけれど、誰にも話しかけられることなく、見事なまでに腫れ物扱いされて、孤立していた。きっと、グループの奴らが、〈阿鷹瑚春とは話すな〉とかそんな司令をクラス中に出していたんだろう。
「ああ、多分てがみ君の予想通りだと思うよ。そういうことしそうな子、なんとなく心当たりあるし」
当の本人はというと、随分あっけらかんとしたものだった。
僕たちは廊下から誰もいない教室に移動して、窓際の前後の席に座っていた。そして、『てがみ君って、そもそも私のことちゃんと認識してたんだ?』という阿鷹瑚春の随分な質問に答える形で、僕は自分が捉えてきた阿鷹瑚春像を話してみせたというわけだ。
「てがみ君、知らないの? 私がハブられた理由」
阿鷹瑚春は、窓の外を眺めながらそう訊ねる。鮮やかな髪の毛が、くすんだ青色のメイクでさり気なく彩られた目許が、午後の日差しにさらされてきらきらと輝いてた。こうして、阿鷹瑚春と二人きりになるだなんて、想像もできなかった。
「ご存知の通り、俺には友達がいないんだよ。ゆえに阿鷹がボッチ化した理由も、そのド派手な髪色になった理由もまったく知るところじゃない」
「でも友達がいなくても、周りの雰囲気とか噂で察しない?」
「イヤホンをデフォで装備してるに決まってるだろ。ボッチが教室で耳を空けておくなんて、酸素ボンベもなしにダイビングするようなもんだ」
「じゃあ、私はいっつも素潜り状態ってことだ」
「しないのか? イヤホン」
普段、彼女の耳許は髪の毛に隠れているから、イヤホンをしているかどうかなんて僕は把握していなかった。
「うん。自分を守ってます! って感じがするから」
「でも誰にも見えないだろ、耳許」
「自分に嘘はつけないんだよ」
そう言って、阿鷹瑚春はどこかわざとらしく胸を張ってみせる。
「アホくさ」
「てがみ君って、意外と毒舌な人?」
「きっとボッチだから、距離感ぶっ壊れてるんだよ」
冗談めかしてというか、ほとんど適当にそう言い訳したものの、阿鷹瑚春は結んだ唇を上向かせて、なんだか感心したような表情をしていた。
「てがみ君、なんていうか、ボッチなのに堂々としてるよね」
「堂々?」
僕は訊いた。
「うん。自分がボッチだっていう負い目みたいなのがないっていうか」
「そりゃあ、昨日今日のボッチじゃないからな」
「それにしたって、全然卑屈さを感じないんだよ。今話してるのを聞いてても、なんでそんな情けないことを偉そうに話せるの? って思ったもん」
「阿鷹こそ、意外と毒舌な人?」
僕がそんな些細な意趣返しをしてやると、彼女はなぜか嬉しそうに目許を細めてみせた。
「ボッチになっちゃって、距離感ぶっ壊れたのかもね」
それは言ってしまえば予定調和的な返しだったけれど、僕は自然と笑ってしまっていた。学校でこんなふうに笑うなんて、一体いつ以来だろう。
「でさ」
僕は仕切り直して、阿鷹瑚春に訊ねようと思っていたことを口にする。
「夢を書いたテストを紙ヒコーキにして飛ばすのって、どんな気持ち?」
怪訝な顔をしていた阿鷹瑚春の表情が、僕の言葉の意味するところを飲み込んだ瞬間、ぱっと弾けた。
「てがみ君も知ってるんだ? その歌!」
阿鷹瑚春は頬を赤くして笑いながら、僕の方の机まで身を乗り出してくる。想像よりもずっとはっきりとした反応が返ってきて、僕は思わず顔をそらしてしまう。
「まあ、有名な歌だし」
「でも、私たちが生まれる前の歌だよ?」
「YouTubeでもSpotifyでも聴けるだろ」
「もしかしてだけど、てがみ君、また照れてる?」
今度は図星を突かれたので、僕は「うるさい」と本人へと向き合えないまま叫ぶ。
「いいから質問に答えろよ」
「別になにも感じなかったよ。折ってる間は先生に見つかったらどうしようかって考えてたけど、投げちゃうと呆気なかった」
誰かさんがちゃんと持ってきてくれたしね、とため息混じりに彼女は言った。なんだか、投げられたフリスビーを主人の元へ咥えて戻る犬になったかのような気分だった。
「参考になったよ」
言いたいことを言い終えると、なんだか急に、彼女と話している自分がひどく場違いな存在に思えてしまう。
この二年ほど、学校で誰かと話すなんて本当に数えるほどのことだった。これ以上彼女と話していると、今日まで僕が築き、守り抜いてきた価値観のようなものが、崩れ去ってしまう気がした。けれど、阿鷹瑚春との接点を失ってしまうことを望んでいない自分もまた、確かに存在していた。それは、彼女が美少女だからというだけではない。
彼女は僕の名前を認めてくれた。僕自身も好きになれない、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます