ネバーパラドックス

霧氷 こあ

神隠し

「今日も、釣れないか」


 俺は長く愛用している煙管きせるを吹かしながら、ぼんやりと釣り竿を眺めていた。


 小説のネタに困るとこうして単身、海に躍り出るのが常だった。特に小難しいことを考えるためではなく、のんびりと釣りをしていると頭の中が整理されるようにすっきりとするのだ。


 ついでに魚の一匹でも釣れれば、晩飯にもなるというのに、釣れるのはいつもゴミばかり。新鮮な魚を刺身にして一杯やりたいところだが、今日もそれは叶いそうにない。


 諦めて港に戻ると、地元の漁師たちが何人か集まって話し込んでいるのが見えた。野次馬根性で近付くと、白髪交じりの男性が訝しげにこちらを睨んだ。


「なんだね、坊主。よそもんは関係ねぇ」


 男は顔の前で手を振った。ジェスチャーで立ち去れと言っているのかと思ったが、どうやら俺が煙草臭かっただけのようだ。


「いやぁ……叔父がここの漁師なんです。それで船を借りていたんですが、あっ」


 言い終わる前に、人だかりの奥に叔父の姿が見えた。叔父もこちらに気付いたようで、太い丸太のような腕を大きく振っている。


「あぁ、アンタ。勅使河原てしがわらさんとこの物書きさんか。そうかそうか」


 白髪の男は打って変わってにこやかな表情になり、肩を乱暴にバシバシと叩いてきた。


「は、はぁ。ところで、なんでこんなに人が集まっているんです?」


「それはな……長いこと行方不明だった奴がひょっこりと戻ってきたんでい。この辺りで噂されている神隠しは知ってるか?」


「存じております。なんでも、海神様の祟りだとか?」


 白髪の男は神妙な面持ちで頷き、ちょいちょいと手招きした。誘われるがままに屈強な海の男たちのあいだを縫うように進んでいくと、髪が真っ白でやせ細った老人が座り込んでいた。


「こいつが、神隠しから帰ってきたやつだ。もう二十年以上も行方不明だったんだ」


「に、二十年も……」


 この港を仕切る漁師がしきりに質問を投げかけているが、神隠しにあっていたという老人は酔っているように呂律がまわっておらず、何を話しているのか皆目見当もつかなかった。


 白髪の老人が声をひそめて、耳打ちしてくる。


「神隠しっていうても、ほとんど浦島太郎みたいなもんじゃねえか。きっと竜宮城でべっぴんな姉ちゃんたちと遊んでいたに違いねぇ、うらやましいねぇ。そう思うだろ、坊主」


「浦島太郎っていうことは、玉手箱か何か持って帰ってきたんですか?」


「いや、なーんにも。ただ唯一聞き取れたのは、ツボがどうのこうのって話らしい」


「壺……?」


「まぁきっと、頭がおかしくなったに違いねぇ。あーやだやだ、歳はとりたかないねぇ」


 そういって白髪交じりの頭をぽりぽりと掻きながら、男は去っていった。


 ちらりと、神隠しにあった老人を見る。この老人は二十年ものあいだ、本当に海上を漂っていたんだろうか。


 うーむ、と頭を捻りながらその場を離れ、雁首がんくびに刻み煙草を詰めて火を点ける。


「まぁ……俺には関係ないか」


 埠頭に座り込みながらぼんやりと青い海を眺めていると、みるみるうちに海が緋色に染まっていく。夕暮れだ。


 いつの間にか人だかりも消えており、カモメが小さく鳴く声と海から押し寄せる波の音だけが、耳に残った。




 あれから数十年。俺はまた、この海上を漂っていた。


 相変わらずネタは思い浮かばず、ようやくこしらえた本も鳴かず飛ばずでいよいよ首が回らない。これはもういっそのこと、漁師に転身したほうが身のためだろうか。


 いつも通り釣れないだろうが、念のため竿は垂らしている。本も売れなければ、魚も釣れやしない。踏んだり蹴ったりだ。


 そう思ったら、なにやら竿に手ごたえがある。


「おや……?」


 期待に胸を躍らせて竿を引っ張り上げると、無機質な錆びた物体がぶら下がっていた。


「やっぱりな。俺が魚を釣れるわけが……ん?」


 よく見ると、錆びた物体は壺だった。それに蓋がしてあって、やけに重たい。軽く振ってみるが、音はしなかった。


 眉を顰めながら蓋に手をかけると、いともたやすく蓋が外れて、中から真っ白な煙が立ち昇った。


「げほっ、げほっ! な、なんだ?」


「……この壺を開けたのは、アンタかね?」


 ぎょっとして目を見張ると、煙が人のような形をしている。その煙がまるでこちらを見下ろすように話しかけているようだ。


「そ、そうだが。お前は誰だ?」


「俺は海神様の力を授かりし者。アンタの願いを三つ、何でも叶えてやろう」


「はぁ……?」


 まるでランプの魔人だ。胡散臭い。


 そう思いたかったが、煙のようなものはじっとこちらを見つめているように感じる。それに言葉も話しているし、俺はひょっとして夢を見ているんだろうか。


 ぎゅっと頬をつねる。痛い。現実だ。


「何でも願いを叶えてくれるって? そんなうまい話があるわけないだろう」


 なんとか冷静を装って意見すると、煙がゆらりと動いて笑い声が聞こえた。


「わっはっは、そこまで疑る必要はねぇよ。なんなら試しに願いを言ってみればいい。叶ったならば、本当なんだ」


「そうか、分かった……。少し待ってくれ」


 お気に入りの煙管を取り出して、ゆっくりと火を点ける。


「ふー……。よし。あれ、どうした?」


「…………」


 ランプの魔人は何もいわずにじっとしている。風が吹いても、煙はびくともしなかった。


「なんだ、やっぱり願いは叶えられないのか?」


「…………いや、違う。少し待ってくれという願いを聞き届けていたのだ」


「はぁ? お前まさかそれも願いのうちに入っているのか? そんなのなしだ」


「分かった、なしだな。では、願いはあと一つだ」


「……お前なぁ」


 ランプの魔人は薄っすらとだが輪郭がはっきりしてきて、今では表情も分かる。どこかしたり顔でこちらを俯瞰しているのが分かった。見た目は煙のくせに、こちらが煙管を吹かすと嫌そうな顔をして手を顔の前で振っている。いっちょ前に煙たがってるんじゃない。


 残る願いはあと一つ。考えを巡らせるが、俺にはそこまでして叶えたい夢はない。


 例えそれで本が売れても、実力とはいえないだろう。それに大金持ちになったらなったで、すぐに身を亡ぼすような気もする。美人な妻を迎えても、それは本当の愛ではない。無欲恬淡とはまではいかないが、すぐに思いつく願いがなかった。


 痺れを切らしたのか、ランプの魔人が声を出した。


「あと一つの願いはなんだ? 早く決めろ」


「うーん……分かった、今決めたよ」


 ランプの魔人は頭をぽりぽりと掻いている。何だかその姿をどこかで見たことがあるような気がした。何だか白髪交じりの――気のせいか。


「さぁ、早く言うがいい」


「最後の願いはこれだ。


 ふわふわと漂っていた煙がぴたりと止まる。まるで時がとまったかのような光景だったが、すぐにその姿は動きを取り戻した。


「今、何といった……?」


「だから、俺の願いを叶えるな、と言った」


「…………チッ。考えたな、勅使河原の坊主。腐っても物書きかい」


 煙はたちまち壺へと戻っていく。去り際に、捨て台詞のように声が聞こえた。


「三つの願いを叶えてしまうと、こうして壺に入れられるのさ。海神様ってのはいるんだよ。欲深い人間の欲をこうして取り込んで、力を得ているのさ。坊主が願いをしっかりと言ってくれていれば、俺と入れ違いだったのになぁ」


 淡々と語りながら、煙は壺に収まり、気が付くと蓋がされていた。波濤はとうが船を揺らし、衝撃で壺は海へと還っていく。


 小さな壺を飲み込んだ茫洋ぼうようたる海原は、人の欲を具現化したように、どこまでも果てしなく続いていた。

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