シスター

山猫拳

1

 スニーカーの先端はり切れていて、一歩足を出すたびに親指が飛び出しそうだ。夕陽が照らすアスファルトを、冷たい風に吹かれながらゆっくりと歩く。


 トレーナーの腕の内側が破れたままになっているせいでランドセルの金具が時折ときおり、直接肌に当たりその冷たさで身震みぶるいする。


 クラスメイト達は寒いから早く家に帰ろうぜと言って、随分前ずいぶんまえにバイバイをした。みんなの家は寒くないのだと、手を振りながらそんなことをただぼんやりと考えていた。


 土と苔水こけみずの様な匂いが鼻をかすめた。僕は少し目線を上げる。雑草がおおいい茂る空き地が目に入る。そこは池の様な沼の様なぶよぶよした草むらで、夏になると大きなやぶ蚊が沢山飛んでいたし、ウシガエルがやたらに居て、とにかくうるさかった。


 今はそれが嘘のように静まり返っている。その沼の様な草むらの隣に、僕の住んでいるアパートがあった。


 沼の横まで来た時に、朝学校に行くときに見たウシガエルの死体がまだアスファルトの上にあるのを見つけた。おそらく車にかれたのだろう。朝見た時は、千切ちぎれた腹の部分と口から飛び出した赤黒い血や臓物ぞうもつが道路にべったりと張り付いていたが、今は茶色く干からびて道路にこびり付いていた。


 本来なら冬眠中だから、道路に出てきて車にかれることはないはずなのに、一体どうしてなのか、僕には良くわからなかった。けれど、みにくいウシガエルは中身も汚いものがたくさん詰まっているのだというその事実が、僕はひど不気味ぶきみだった。


 鉄階段を上ってアパートの二階に上がり、時々ご飯をご馳走ちそうしてくれたりする優しいお姉さんが住んでいる部屋のあかりが付いているのを、横目で見ながら通り過ぎる。


 鍵を差し込んでドアを開ける。ただいまとつぶやくように言って、玄関脇のスイッチを押す。電気が付かない。僕は溜息ためいきく。母さんが死んでから電気を止められたのは、今日が初めてだ。


 母さんが生きていた頃も何回か電気が止められた。その度に母さんがお金をき集めて払い込みに行って、払い込みをした次の日には電気が戻ってきた。これからは一体だれがその役目をやってくれるのだろうか? 


 しばら呆然ぼうぜんと玄関の暗闇を見つめていると、暗さに目が慣れてきてアキちゃんの靴があることが分かった。僕は急いで靴を脱ぐと僕とアキちゃんが使っている部屋に駆け込む。


「アキちゃん!」


 アキちゃんは中学の制服を着たまま扉に背を向けて座っている。小さな折り畳み机の上に工作用ボードをいて、何かしていた。窓のカーテンを開けて、夕陽の中で右手を器用に動かしている。手を止めると、振り返って微笑わらう。


「ユキちゃん、おかえり。びっくりしたよね、電気、止められちゃったね」

 僕はうなずくと、静かにランドセルを下ろしてアキちゃんのそばまで近づく。工作用ボードの上には黒一色の描きかけの絵があった。外国のお城みたいだった。


「お母さんが生きてた頃にお金探してたところ、全部調べたんだけど、どこにもお金入ってなくて……お父さん今日帰って来るかな?」

「あんな奴お父さんじゃないよ。それ、なあに?」


 学校の課題で切り絵をやってるのと言って、アキちゃんは少し困ったように笑った。アキちゃんの右手にはカッターナイフが握られていた。


 描きかけの絵と思っていたものは、よく見ると黒い紙が細かく切り抜かれていて、残った黒い部分がまるで線が描かれているように見えていただけだった。完成するとシンデレラが住んでいるようなお城が出来上がるのだと思った。


 夕陽に照らされたアキちゃんの大きな黒い瞳にオレンジの光がきらめいて、細い鼻も色の薄い唇も暖かい色に染まって、まるでこのお城の住人のようだと思った。アキちゃんは僕の三つ上の姉で、僕にとってはアキちゃんだけが正しさの全てで、この世で最も大切でキレイなものだった。


――――――

 僕が小学生になってすぐに本当の父さんは家を出てしまった。母さんは離婚りこんしたからしょうがないと言って、笑っていた。離婚の意味はそれからしばらくして知った。


 母さんが寂しがるから僕もアキちゃんも一緒に連れていけなくてごめんなと、母さんがいないときに父さんが謝りに来た。僕が小学二年になる頃に、突然知らないおじさんが家にやってきた。


 お父さんよりも若くて、髪の毛はライオンみたいな金色だった。新しくお父さんになる人だと母さんが笑って言った。僕は全然意味が分からなかった。この人が父さんになったら、このアパートを出て行った父さんは一体何になるんだ?


 おじさんは、アパートに居る時は大抵たいてい寝ているか、お酒を飲んでいるかのどちらかだった。夜どこかへ出かけたまま二、三日帰って来ないこともあった。一年もすると金がないと言っては母さんを怒鳴どなることが増えた。そのうち母さんは笑わなくなり、もっと働かないといけないが口癖くちぐせになった。母さんは仕事を増やしたせいで、僕たちとほとんど顔を合わさなくなった。


 四年生の冬、昼休みに教室の窓から校庭をながめていると、母さんが倒れたと先生が告げに来て、病院に連れていかれた。


 病院に着くと、青い服を着たお兄さんから悲しそうな顔で、脳の血管が切れて、発見が遅かったから間に合わなかったと言われた。僕もアキちゃんも母さんを目の前にして泣くこともなく、これからどうなるのか漠然ばくぜんとした不安に押しつぶされそうで、ただずっと二人で手をつないで冷たい部屋に横たわる母さんのかたわらに立っていた。


 葬式が終わると父さんは僕たちを呼出し、僕とアキちゃんとまた一緒に暮らしたいけど、父さんにも新しい家族がいるからしばらく時間がかかると言った。


 アキちゃんは大丈夫と言って笑った。アキちゃんがそう言うならたぶん大丈夫なんだと、僕はそう思っていた。けど、もう一年がとうとしているけど、僕たちはずっとおじさんとこのアパートで暮らしている。


 おじさんは母さんが生きている頃から僕のことを嫌っていた。母さんが死んでしまってからは、よく不機嫌ふきげんになり僕を殴った。目付きが気に入らないだの、返事が遅いだの、歩く音がうるさいだの、理由は何でもよかった。その度にアキちゃんが僕をかばった。


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