逃げるな

てりやき

短編

 その日は、やけに朝早くからセミが鳴いていた。

「あかね、進路決まったのか」

 洗面所で歯を磨いていると、父は突然廊下の方から、馴れ馴れしく話しかけてきた。

「やっぱり芸大か? 絵、好きだもんな」

 どうやら丁度家を出るタイミングだったようだ。父は少しシワのついたスーツを身に纏って、相変わらず感情が読めない顔でこちら見つめていた。私は奥歯を適当に磨いてから、ペッと口の中のものを吐き出した。

「東京都立大学ってとこ」

 それだけ言って、私は蛇口から水を出した。コップに向かって一直線に水が流れ込む様子は、まるでホースか何かで無理矢理水を飲まされているかのようだった。

 そして、上を向くと、父親の顔は完全に視界から外れた。

「それは、先生がそうしろって言ったからか?」

 ガラガラとうがいをする音であまりよく聞こえなかったのに、言葉だけはなぜかはっきりと聞き取っていた。

「気ぃ遣ってんのか」

 聞こえないふりをして二回目のうがいを始めると、あたかも自分が本当に何も聞き取れなかったかのように思えてきた。自分の単純さに呆れてくる。

 コップを持った手で蛇口の水を止めてから、ゆっくりと向きを変えて、廊下に突っ立ったままの男と対峙した。

 時間が経つにつれて、沈黙がどんどんと深くなっていった。

 何か言わなくては。

「逃げ出してきたくせに」

 いざ口から出た言葉たちは、自分の想像以上に冷酷なものだった。

「……えっ?」

 父の顔はわざとらしく驚いていた。口をポカンと開けたまま、目をぱちぱちさせていた。やっぱり、私はどうしてもこの人のことが好きになれなかった。どうせ、ふざけたフリをしていれば、私の機嫌が少しでも良くなると思っているなのだ。

 こちとらもう高校生だというのに。鬱陶しくて仕方がなかった。

 私は少し俯いたまま、速歩きで父のすぐそばまで歩いていって、そして、脇を抜けるようにして廊下に出た。

 自分の部屋までそのまま突き進んでいって、開きっぱなしの部屋のドアを勢いよく閉めると、バンッという激しい音が鳴った。そんなこと気にも留めずに、私は重力に任せてベッドに横になった。外ではミンミンゼミが元気良く鳴いていた。

 窓際には、山積みになった大量のスケッチブック。

「はぁーあ」

 体中の毒素を吐き出すように、やるせなくため息が出た。




 登校中、バスの中でも、歩いてるときでも、ずっと父のことが頭から離れなかった。

 父は警察官で、ここ静岡に来るまでは元々東京の警視庁にいたそうだ。

 正義感が強く、勘も鋭かったため、検挙率がぶっちぎりで一位だったのだと、酔った時に口癖のように言っていた。小さい頃はそれを聞いて、本気で父の背中に憧れたりもしていたものだ。

 中学生頃から、父に不信感を少しずつ抱くようになっていた。

 なぜなら、静岡に来た経緯についてだけは、父は頑なに話してくれなかったから。それどころか、母親が居ないことや、私の生まれが東京なのか静岡なのか、どっちなのかということすらも、父は「知らなくていい」と言った。

 明らかに怪しかった。

 最近一つ分かったのが、警察官は県をまたいで異動はできないということ。それすなわち、父はわざわざ警視庁を一回退職してから、もっかい再就職したということを意味する。

 なぜ地位も名誉もかなぐり捨てて、東京からこんな地方に逃げてきたのか。そしてなぜその理由を話したがらないのか。

 父は一体、東京で何を見てきたのか。

 どうしても、私は知りたかったのだ。

 そこで私は、国公立の中でも、東京都という場所にこだわってみることにしたのだ。わざわざ東京都立学校を選んだのも、そのためだった。東京でうまくやっていければ、そのうち父に認めてもらえるかもしれないと思ったから。認めてもらえれば私はようやく、情報を教えるに値する人間になれると思ったから。

「おーはよっ」

「さきちゃん」

 信号を渡っていると、後ろから聞き覚えのある元気な声が飛んできた。

 さきちゃんは、私と仲良くしてくれる、唯一無二の友達だった。優しくて、かわいくて、天使みたいな女の子。いつも私は、彼女の横に並ぶだけで、こっちも天使の仲間入りをしたように錯覚した。

「なんか、元気無い?」

「いやちょっとね。朝、親と喧嘩して、モヤモヤしてるってだけ」

「……私で良ければ全然、相談乗るよ?」

 なんて良い友達なのだろうか。思わず彼女を抱きしめたくなった。

 私は彼女の言葉に甘えて、父のことについて一通り説明することにした。他の人に何かを解説するのがあまりにも苦手なせいで、途中で止まってしまったりもしたが、彼女は終始黙って聞いてくれた。助かった。甘い言葉を掛けられたら、その場で泣き出していたかもしれない。

 話し終わって、最初に聞いてきたことは、「お父さんのこと好き?」だった。

 高校卒業までの何もできないうちは、せめてもの抵抗で、私は父を都落ちしてきた敗北者として嫌い続ける。私はそう決めたのだ。

「嫌い」

「じゃあ、自分のことは?」

 間髪入れずに聞いてくる彼女は、少し不気味だった。けれども同時に少しだけ、この子になら話してもいいんじゃないかとも直感した。

「大嫌い」

 さきちゃんが目を見開いた顔でこちらを見ていた。まさかそんなどストレートな台詞が飛んでくるとは思わなかったのだろう。

 彼女はすぐに真剣な表情を取り戻し、何も言わずにゆっくりと前を向いた。気がつけば校門まで歩いて来ていて、私とさきちゃんは同じタイミングで敷地内に踏み込んだ。

「嘘つき」

 そう彼女が発した言葉には、怒りがこもっていた。

「自分のこと嫌いな人間なんて、居ないよ。そう言っておいて、自分が我慢してれば良いって思ってるんでしょ」

 語気は完全に、何かを確認する時のそれだった。それなら、彼女は一体何に怒っているのだろう。

「だって、都立大に進路変えたのだって、学校の実績のためでしょ?」

 とっさに、「そんなことない」と答えかけて、はっとした。

 そんなこと、あった。

 最初の二者面談。私が愛知の芸大に行きたいと言うと、先生は私のことを鼻で笑ってボロクソに言ったのだ。私のぐちゃぐちゃになった顔を満足そうに見下したその先生のことを、私は一生忘れないだろう。

 しょうがない、我慢するしか無いと、勝手に思い込んでいた。私は洗脳されていたのだ。そのことに、今更になって気がついた。

「あかねちゃんは、逃げずに戦ってるじゃん。なんでそんな頑張ってる人が、自分のこと大嫌いだなんて言わなきゃいけないの?」

 彼女は弱々しい声でそう嘆いた。

 彼女は私が我慢していることを、世の中のせい、環境のせいだと思っているようだった。

 目からウロコだった。私は全部自分のせいだと思っていた。芸大に行けないのは実力がないから。父が何も教えてくれないのも私に教えるだけの価値がないから。そうやって、自分を否定して私は生きてきたのだ。

 でも、彼女がそう言うなら、私も少し、ワガママになってもいいのかもしれない。

 私はそれ以上、彼女が何も言わないことを願った。少し目を閉じて、こみ上げてくる涙を無理矢理奥へ押しやる。

 下駄箱に着いて、私とさきちゃんは背中合わせで靴を履き替えていく。

 上履きが妙にキツくて、憎たらしかった。

「さきちゃんって、私のお父さんそっくり」

「……それって、嫌いってこと?」

「違う違う」

 彼女はわかり易く頭にはてなマークを浮かべた。それがあまりにもかわいくて、私は思わずぎゅっと抱きしめたくなった。代わりに、ふふふっと笑って誤魔化した。

「尊敬してる、ってこと」

「えー。さっきと言ってること真逆じゃん」

「そうだっけ」

「そうだよ! あははは」

 太陽のように笑う彼女が、そっと涙を拭ったのを、私は見逃さなかった。

 父の秘密を誰も教えてくれないのは、何か別の理由があるのかもしれない。帰ったらそれだけでも聞いてみようかなと、漠然と思った。




 その夜、夕食の準備をしていた父に、わざとらしく「何か隠し事してない?」と訊いてみた。

「なんで東京からわざわざここに来たか」

 そう答える父はまるで、その先を教えることもやぶさかではないようだった。

「なんでそれを隠してるの?」

「あかねが知る必要はない」

 父は人参を輪切りにしながら淀み無く言った。

 その、あまりにもいつも通り過ぎる光景を見ていたら、怒りがこみ上げてきた。さきちゃんの言葉が頭の中で反芻される。

 あかねちゃんは、逃げずに戦ってるじゃん。

 私は、腹をくくった。

「私の一番嫌いな人、誰だかわかる?」

 レタスを掴んだまま、ようやく父はこちらを向いた。

 空気がピリついたのを肌で感じて、思わず怖気づきそうになった。

「お父さん」

 言ったからにはもう、引き返せなかった。

「いつもいつも、安全圏から親のフリばっかりして、自分のことになると有耶無耶にして、お母さんのことも、私のちっちゃい頃のことも、なんにも教えてくれなくて……」

 それ以上は言葉が出てこなくなってしまった。実際には、あまりにも稚拙な言葉たちを、私自身が聞いていられなくなったののだ。

 父は相変わらずレタスを掴んだまま、話を聞いてるのかどうかすらもわからないような顔で、私の言葉を待っていた。見れば見るほど、心がかき乱されていくのが自分でもわかった。

 どうすれば、父はこっちを向いてくれるのだろうか。どうすれば、私を認めてくれるだろうか。それだけを、今までずっと考えて、ずっと我慢してきた。そうして我慢して我慢して歳を重ねていけば、そのうち父が認めてくれるんじゃないかと、私は心の底から信じていたのだ。

「何度も言わすな。あかねが知る必要はない」

 けど、もう、我慢の限界だった。

「なんでよ! なんでそう決めつけるの! いつもいつもそうやって、私は知らなくていい、私には関係ないって。なんでそんなに頑なに教えてくれないの! いいじゃん。せめて、せめて何か一つぐらい教えてよ!」

 いよいよ私は堪えられなくて、本格的に泣き崩れてしまった。キッチンの床に膝をついて、流しに肘を乗っけて顔を手で覆った。束の間、すぐそばに父が居ることも忘れた。もう全てがどうでもよくなった。

「わかった」

 突然、父の声が飛んできて、私は慌てて顔を上げた。

「……え」

「一つと言わず、全部教えてやる。後悔しても知らねぇからな」

 そう言った父は、どこか淋しげな顔をしていた。

「お前が生まれる前、俺はヤクザを潰そうと躍起になってた時期があったんだ。警視庁の奴らは『ヤクザは必要悪だ』とか抜かしてやがったが、俺はなんとなくそれが気に食わなくてな」

 あまりにも唐突過ぎる展開に、話の始まりから置いてけぼりにされそうだったが、私はそんな中で、全然関係ないところに感動していた。

 自分の単純さに呆れてくる。

 お前、と呼ばれただけで、こんなに嬉しいものなのだろうか。

「勘だけは良かったもんだから、東京にあるヤクザのアジトほとんど見つけ出して、なんなら幾つかは本部ごと潰してやったんだ。ちなみに、嫁ともその時知り合った。何千万っていう借金を返すために、風俗で無理矢理働かされそうになってたところだったから、危ねぇとこだったんだ」

 キッチンの奥の小窓から強烈な西日が差し込むと、父はおもむろに夕食の準備を再開した。白菜がみずみずしい音を立てながら、次々に切られていく。父はそのまま話を続けた。

「ただ、それから丸一年経って、突然、その女は姿を消した。確か、お前を産んだ次の日だったかな。そいつの置き手紙によると、そいつは俺が前に潰した組の生き残りと裏で繋がってて、元々は俺のことを殺すつもりだったらしい。だけど、結局情が湧いたから、俺と赤ちゃんだったお前を『逃がす』ことにしたんだとよ」

 父は自分のお嫁さんを「その女」や「そいつ」と呼んだ。父にとってはもう、赤の他人なのだろうか。

 普通、そんな簡単に、割り切れるものなのだろうか。

 コンロに火がつく、その数秒間だけ、父は喋るのを止めた。

「じゃあ、お母さんは?」

 父は答えない。黙々と、まな板の上の食材たちを鍋に放り込んでいた。

「今日の朝、お前に言われた言葉、考えてみたんだ。確かにお前の言う通り、俺は今まで逃げ回ってきた。東京からも、嫁からも、お前からも。でも俺は思うんだ。もし嫌だったら、無理して向き合う必要はねーんじゃねぇかって。意外かもしれねぇけど、世の中、全部を真に受けて真面目にやってるやつは損するようにできてる。少なくとも、東京はそういう場所だった。まあ、今となっては言い訳に過ぎねぇのかもしれねぇけどな」

 そうして父は少し笑った。

 今更になって、罵倒したことを謝りたくなった。

 父は答えてくれなかったが、多分、私の母はヤクザに殺されたのだろう。暗殺のターゲットに情報をばら撒いただけでなく、逃がす手筈もして、ヤクザが黙っているわけがない。それぐらい、私にもわかった。

 敢えて答えなかったのは、父なりのやさしさなのだろう。

 信じてもらえないだろうけど、父は本当に、生まれてこの方、正義感以外の何も持ち合わせてこなかった人間なのだ。静岡に来てまで警察官を続けているのが何よりの証拠で、父は本能的に世の中の悪を潰さずにはいられないのだろう。

 そして、父は本能的に、弱者にとことんやさしくしてしまうのだろう。

「東京……」

 東京、行かないほうがいい? と言いかけて、流石に止めた。私の心を読んだかのように、父は口を開いた。

「お前が本当に行きたいんだったら、行ってもいい。俺は止めないし、そもそも誰かが止められるもんでもないからな。スープ、味見するか?」

 私はお言葉に甘えて、充血した目をこすりながら立ち上がって、スプーンを受け取った。

「熱いから気ぃつけろよ」

 フー、フーとして、一口大の人参と一緒に、その金色の野菜スープを口に入れた。

 いつもより美味しく感じた、なんてことはなく、なんなら少し煮過ぎじゃないかと思った。

 少し顔を上げると、父はニコニコな絵文字をそのまま表現したかのように、口角を気持ち悪いほど上げていた。

「いつもよりうまいだろ、あかね」

「……うまい」

 そう呟くと、父は大笑いして、「そうか、うまいか!」と嬉しそうに言った。

「じゃあ、ご飯よそってくれ」

「はーい」

「おかずはこの前のハンバーグでいいか」

「いいと思う」

 目の前のエプロン姿の男は、嫁に命を狙われて、東京を追われて、今、娘に野菜スープを嬉しそうに飲ませている。嫌な過去から全力疾走で逃げながら、この一瞬を自分の正義と不器用なやさしさだけで生きている。

 私は、父のように生きることができるだろうか。世渡り上手でなくても、かっこよくて、自分の気持ちに正直で、他人にやさしい人間に、私はなれるだろうか。

 二者面談で私のことを泣かせた、クソ教師の顔を思い出した。

 これ以上、向き合ってなるものか。

 炊飯器の蓋を閉める。

「あのさ」

「ん?」

「あ、あの、進路のことなんだけど――」

 どこか遠くから、今朝のとは違ったセミの鳴き声が、キッチンに響いていた。

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逃げるな てりやき @tadow

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