第3話 選択の先に

私は歩みを続けた。クジラの姿をして、海の中を漂うような感覚で。ただ、どこへ向かうのかは分からない。記憶がないからこそ、何も背負わずにこの世界を漂っているような気がした。だが、心の奥底で、何かが私を引き寄せているのを感じる。


その時、再びあの男の声が響いた。


「お前、もう知っているだろう。私はお前の『過去』を知っている。だが、それを話すことはない」


私はふと振り返り、男を見つめた。その姿は、最初に出会ったときと変わらない、ただの影のような存在だが、その目は深く、私の中に眠っている記憶を引き出すかのように鋭い。


「何を言いたいのか、分からないが…」


言葉が喉元で止まる。男の姿が重なり、私のクジラの体が大きく震える。その感覚に、何かが目覚めるような気がした。


「あの男の正体、お前はすでに知っている。だが、すぐには話せないだろうな。お前の新しい道には、それを明かす理由がまだない」


私はその言葉に微かな動揺を覚えた。正体? それが何を意味するのか、うまく飲み込めなかった。だが、この男の話には、何か隠された重大な意味があることは確かだった。


「お前が選んだ道は、お前一人のものではない」と男は言った。「この世界は、お前の選択によって変わる。だが、変えることができるのはお前だけではない」


私はその言葉に立ち止まり、クジラの姿でゆっくりと振り返る。周囲の景色はどこまでも荒廃していた。街の人々の顔にも絶望と疲れが刻まれ、彼らがただ何となく生きているように見える。それは、あたかも誰もが自分の道を見失っているかのようだった。


「選択…か」


その言葉を呟くと、突然、私の中に冷たい波が押し寄せた。それは、私が選んだ道の先にある恐怖と不安だった。もしかしたら、私の選択がこの世界を引きずり込んだのかもしれない。私の存在が、あの記憶喰らいの影響を広げているのだろうか。


「お前の選択が、すべての起点だ」


男は再び語りかけてきた。その声は、どこか懐かしいような気がして、胸の中でざわめきを起こす。


「だが、お前は過去に囚われることなく、新しい自分を歩んでいる。これはお前にとって最も重要な試練だ」


試練、そう言われると胸が重くなる。試練を乗り越えることで、私は何を得るのだろう。そして、この世界で本当に求めるべきものは何なのだろうか。


そのとき、男が一歩前に進み、影の中からその顔がわずかに見えてきた。今まで見ることのなかった、その目の中に見えるのは冷徹な決意だった。


「お前が選んだ新しい道の先に、真実がある。だが、あえて言おう。お前の選択は、決して無意味ではない。しかし、それを全て受け入れる覚悟はできているのか?」


その言葉が、私の胸に重く響いた。すべてを受け入れる覚悟……。


目の前に広がる荒廃した街、無関心に行き交う人々、そして自分の中で渦巻く恐怖。すべてを背負う覚悟を持って歩み続けなければならないのだろうか。


「お前には、まだ選択の余地がある。しかし、それは最後の選択だ」と男は静かに告げた。


その瞬間、男の姿が消え、空間が一瞬のうちに静寂に包まれた。


私はしばらくその場に立ち尽くし、再び歩き始めた。どこへ行けばいいのかは分からない。だが、私がどこへ向かうのか、それだけは自分にしか分からないことを、確かに感じ取っていた。


そして、再び目の前の道を歩きながら、私の中であの男の正体がゆっくりと明らかになっていく。だが、すぐにはそれを語ることはできない。すべてを知るには、もっと先に進む必要があるからなのだ。

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