猫の散歩(家に帰れば猫がいる2)
天鳥カナン
第1話
猫の散歩
「あー、猫がいる!」
隣のドアが開いて、朝の出勤に向かうらしい女性が驚いた目でこちらを見た。
見つかってしまった、どうしよう?
マンションの共用廊下で固まるあたしの前で、キジトラ猫の直之助はいつものようにお外の探索を楽しんでいる。砂浴びをするように身体を廊下にこすりつけ、その後は防護壁の隙間から下の景色を覗き込む。たぶん下を歩くサラリーマンや、少し離れたところを走る電車を見ているのだろう。ここは四階だから、人間の目からは遠くの富士山もよく見える。富士見町、という名前は本当に富士が見えるからだったんだ、と引っ越してきたとき驚いた。今朝の富士山はぼんやりと青い。猫の目にはどこまで見晴らせるのだろう。
「すみません! ゴミ出しして戻ったら脱走しちゃって。ちゃんと見てますんで。ご迷惑かけないように連れ戻しますんで」
あたしが何度も頭を下げたのを見て、隣の女性は納得したのかそれ以上は何も言わずに階段を降りて行った。
言い訳だったけどそれは本当で、心得ている直之助はあたしがゴミ出しに出るとドアの内側で待機して、開くと同時に飛び出す。こちらは無理にドアを閉めると猫を挟みかねないから、仕方なくその様子を見守るしかないのだ。ドア前にゲートを置けばといわれそうだけど、直之助は押し入れ上の天袋を開けたとき、一発でそこへジャンプしてしまう猫なのだった。全身縞柄のキジトラ猫は野性が強いといわれる上に、若い盛りの二歳だから、そのジャンプ力は軽々とあたしの想像を超えてしまう。
でも、この賃貸マンションはペット可の物件で、猫を飼うことは許されてるけど、ペットがいない住人もいるから共用部分に連れ出すのはたぶんアウトで。迷惑をかける人がいる、と管理会社に連絡されたらきっとまずいことになる。
直之助のお尻をトントンして、もう帰ろう、と促す。
急に抱き上げたりすれば猫は嫌がって暴れるから、そのほうが危ない。自分の腕からもがいて飛び出した直之助が四階の防護壁の向こうへ落ちたりしたら、と考えるだけで心臓がギュッとしてしまう。だからそうっと、そうっと…。
無事に直之助を家に戻したあたしはほっとして、文句を言った。
「もう。コウちゃんのせいなんだからね。直之助が散歩好きになったの」
「なんで俺のせいなん?」
寝起きのボサボサ頭とスエット姿で、トーストの残りを囓りながらコウちゃんが答える。コウちゃんは縦も横も大きい人で、そのせいかごはんもいっぱい食べる。あんまり食欲がないという朝でも目玉焼きは二つ、トーストも二枚。今日は遅出の日だからちょっとのんびりしているらしい。
「だって、夜中帰ったとき直之助を廊下で遊ばせるでしょ。あれがしたくて、昼間でもドアから飛び出すようになったんだもん。さっき隣の人に見つかっちゃったよ。管理会社から何か言われちゃうかも」
コウちゃんはトラックドライバーで、遅出のときは帰りも遅くなる。在宅でウェブデザインの仕事をしているあたしと違って、一日外に出ているから直之助もその帰りを待ちわびている。深夜の廊下で遊ぶ一人と一匹がとっても楽しそうだから、まあいいかと思ってきたけど。
「タエの考えすぎだよ。だってペット可のマンションに猫が居て、何がおかしいの。誰か引っ掻いて怪我させたわけじゃなし」
「まあ、それもそうか」
コウちゃんの大きな身体から大らかな言葉が出ると、あたしは何がなし安心してしまう。あたしは身体が小さいので(女子の平均身長より3センチ低い)、「タエは目端は効くけど、遠くが見えてないから気をつけな」って昔よく母に注意された。母は小学校の行き帰りとか、ランドセルに埋もれているようなあたしの背を見送るのが心配だったらしい。直之助は我関せずといった感じで朝日の当たる窓際で足を上げ、のんびりと毛繕いをしている。
それから数日して、マンションの玄関にある〝お知らせコーナー〟に『ペットの外出の際は必ずリードを付けましょう』という注意喚起の紙が貼られたのをあたしは見つけた。
うーん、名指しで注意されないだけありがたいけど、次見つかったら怖いね、これは。なんか民話の世界みたいだな。見られたらもうここにはいられません、か。
犬飼いの人たちはいいなあ、とあたしは思う。これさえ付ければお散歩に行ける、と悟ると犬は自分でリードをくわえてきたりするそうだ。
それに比べて直之助ときたら、ペットショップで買った猫用リードを付けようとするだけで逃げ出す。そして無理に付けると今度は動かない。絶対動かない。リードなしに、自由なまま外へ行きたがるのだから、飼い主としてはたまらない。
そもそも首輪を付けるのも嫌いで、首まわりに何かある感触が気に入らないのか、すぐ歯を引っかけて外そうとする。いまの青いやつにおさまるまで何度も買い直した。直之助は友達のナオちゃんちの庭に来る野良猫さんが産んだ猫なので(母猫はその後行方不明)、なんというか生き方がフリーダムなのかもしれない。
ちなみにナオちゃんちはあたしとコウちゃんが出会った場所でもあって。コウちゃんはナオちゃんのお兄さんの友達で、なんとなくみんなでBBQしたとき肉とか焼いてたあたしが気になったらしい(なんで子どもが参加してるんだ、焼くの大変そうだし酒なんて勧めていいのか……と思ったら大人だった、と後で言われた)。
一緒に夕食が取れる週末に〝お知らせコーナー〟の紙のことをコウちゃんに相談してみた。
「ねえ、どうしよう。もしまたお隣に見つかったら、次は名指しで注意されるかな?」
あたしが作った山ほどの唐揚げにレモンをジュウッと搾ってからポイポイと口に放り込み、チューハイをジョッキで喉に注ぐ合間にコウちゃんが答える。
「もうちょい西のほうに引っ越すか。一軒家でも借りてさ」
「なんで一軒家なの」
「だって庭あれば直之助、そこで遊べるだろ」
「直之助だと塀も飛び越えてお外、行っちゃうんじゃない?」
「また飛び越えて戻ってくるさ、腹が減ったら」
「お外出たら危ないよ? 車も走ってるし」
「あの反射神経があれば大丈夫だろ」
言ってる間にも、一足先にフードを食べた直之助は催してきたのか、グルグルと唸り声を上げながら部屋中を駆け回り、キャットタワーを一瞬で登って横のタンスから飛び降りる。そうして浴室に走り込み、そこに置いた猫トイレからザッザッとチップをかき混ぜる音がした。
あたしが片付けに行こうと椅子から立つと、
「ああ、いい。俺が行くから。タエは唐揚げ食べな。俺、すぐいっぱい食べちゃうから。…人間がメシ食うときに限ってトイレよくするんだよなあ、アイツ」
そうぼやきながらコウちゃんは大きな身体をゆすって、猫トイレに向かった。
お隣のドア横に、ある日鉢植えが三体、出現した。
細長い葉っぱに筋の入ったやつと、トゲトゲのと、小型の里芋みたいな葉っぱのやつ。たぶん、ドラセナとサボテンとフィロデンドロン…だと思う(ネットで調べた)。
困ったことになった、とあたしは頭を抱えた。じつは直之助はグリーンが大好きなのだ。以前、うちにはアジアンタムとパキラの鉢植えがあったが、直之助が来てサラダバーにしようとしたので、慌てて猫を飼ってない友達に引き取ってもらった。
猫は肉食動物で、植物は猫草の麦を除いて身体には合わない。毒になることすらある。たまに雑草とか食べるのはお腹の毛玉を吐いて出すため、とも言われてる。お隣のためにはもちろん、直之助のためにも、鉢植えにちょっかい出さないようにさせなきゃ。
それからドアの開閉をするときには、玄関に繋がる廊下に直之助が入らないように気をつけていたのだけど。
祝日の朝、今日はゴミ収集があって助かった、と思いながら燃えるゴミを出した。うちでは猫のうんちも燃えるゴミだし、溜まってしまうと生ゴミ消臭が大変になってくる。ホッとした気持ちがあだになったのか、あたしは廊下の先のドアを閉め忘れたらしい。
玄関を開けると直之助が飛び出てきた。
「直之助、ダメッ!」
あたしは叫んで直之助を捕まえた。廊下に立ったままギュッと抱っこするとニャオウ、と直之助が抗議の声をあげる。それが聞こえたのか隣の部屋のドアが開いた。
万事休す。でも、仕方ない。
「あのっ。お騒がせして、ほんとすいません、でもこの子、鉢植えに悪さしてませんから。ごめんなさい……リード、付けようと思っても、付けさせてくれないんです。家から飛び出さないようにもっと気をつけます」
「あ、いえ。じつはうちも最近、猫、飼うようになって」
「え?」
「お宅の猫ちゃんを見て、やっぱりいいなあって思って」
「そうなんですか」
「観葉植物は猫に良くないって聞いたんで、とりあえず外に出したんです。邪魔になるもの置いちゃってすみません」
「いえいえ。いけないのはこちらですから」
そのとき、子猫が様子を見に来たのだろう、お隣さんが抱き上げて見せてくれた。
「ラテって名前です。よろしくね」
お互い猫を抱っこしたままご挨拶だけした。薄茶色の長毛種の女の子だった。渦を巻く和毛と大きな瞳がほんと可愛い。直之助は首を伸ばして少し匂いを嗅いでから、鼻先を子猫の鼻先にチョンと付け、「仲間だよ」の鼻チュをした。もしかしたらお隣に猫が来たこと、直之助は匂いとかで知っていたのかもしれない。
祝日だけど早出出勤してたコウちゃんが帰ってきた。
「今夜はお刺身かあ。良かったな、直之助」
直之助はずっとカリカリやウエットフードで育っているから、あまり人間の食べものは食べたがらない。でもマグロの赤身だけは例外で、柵を切っていると足元にまとわりつく。
血の色をした一切れを小皿に置くと、興奮してウニャウニャ言ってかぶりつく。猫だものな、本当は生き物が食べたいんだろうな、と思うのはこんなときだ。
そういえば廊下の散歩が始まったのは蝉を捕まえるためだった。
夏の終わりになると共用廊下に蝉爆弾が現れる。腹を見せて転がってて一見、もう死んでいると思える蝉が、近くを通ると突然鳴いたり、飛んだりするのだ。人間はギョッとするが直之助にはこれが面白くてたまらないらしく、鳴いた蝉を手で転がし、へろへろ飛んだやつは飛びついて捕まえて、誇らしげにくわえて家に持ち帰ってくる。蝉は硬いのかさすがに食べはしないので、自慢するのを見たらベランダからコウちゃんが放す、というのが一繋がりのゲームだった。
たしかにのんびりした場所で、庭がある家ならば、直之助はもっと自由に遊べるなあ。
猫のために住まいを整えてあげるのは、飼い主の責任でもあるなあ。
そんなことをしみじみと思った。
こんもりと盛り上げた鉄火丼に刻み海苔をのせて手渡すと、それを食べながらコウちゃんが言う。
「隣も猫飼うなら揉めたりはしないな。それはいいけど、やっぱり一軒家借りない?」
「んー、それはあたしも思ってた。直之助が飛び出すのを止めるの、もう限界だし」
「ついでに籍も入れようよ、俺、子どもほしいし。直之助ならきっと、子どもと遊んでくれるよ」
あたしは一瞬、窓の外の遠くの夜空を眺めてみた。
小さい頃のあたしに「遠くも見なきゃダメだよ」と教えてくれた母は、それから間もなく病気で亡くなった。父は再婚相手のリエさんと、いまは彼女の故郷の町に住んでいる。そして子どものことはまだ全然わからないけど、コウちゃんと直之助がいるなら、あたしはそれで毎日を送っていける。
「うん。結婚式とかいらないけど、指輪はほしいな」
「どっち先に行く? 不動産屋と指輪屋と」
ジュエリーショップとか言わないところがコウちゃんで、それでいい、と思う。
「不動産屋さん行くとき、おそろいの指輪してたほうがいいんじゃない?」
「だな」
指輪屋でコウちゃんの大きい指輪とあたしの小さい指輪を選ぼう。直之助にも腕輪をさせたいけどきっと嫌がるから無理だな、と思ってあたしは小さい笑顔になった。
了
猫の散歩(家に帰れば猫がいる2) 天鳥カナン @kanannamatori
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