2. はじめての合奏

翌日の土曜日、日差しは容赦なく照り付けていたものの、まとわりつく湿気もなくカラッとした晴天だった。


出かける準備を済ませたわたしは、夫と彩実に見送られて10時前に自宅を出た。


教室までは自転車で5分くらいの距離。


住宅街の中にあるごく普通の2階建ての家なので、公民館の教室案内のチラシを見ていなければ、こんな近場にお箏教室があるなんて知ることもなかっただろう。


先生の自宅に到着すると、駐車場には福砂先生のシルバーの車と、もう一台、見慣れぬ薄オレンジ色の車が止まっていた。


わたしは自転車を止め、駐車場の隅に寄せてから玄関へと向かい、インターホンを押した。


「おはようございます」

「おはよう~」


しばらくして玄関ドアがガチャリと開き、パーマをかけたショートボブの女性が「は~い」とチャーミングな笑顔で出迎えてくれた。


福砂香枝ふくさかえ先生だ。


ワインレッドの半袖ブラウスにモカ色のパンツと軽やかな装いで、還暦過ぎでも若々しさに溢れていた。


「今日はさやちゃん連れてきてないのね。パパとお出かけかしら?」


「ハンペン公園まで遊びに行ってるんです」


「あそこは遊具もたくさんあるし、広いものね。今日は蒸し暑くないし、外遊びにはちょうどいいわね」


先生はふふっと笑うと、玄関を上がって左側にあるリビングに案内してくれた。


10畳ほどのリビングの半面には桃色の花柄模様の絨毯が敷かれており、その中央には立奏台に乗った箏が二面、向き合う形で設置されていた。


(あっ、もう準備してもろてる…………)


焦っているわたしには構わず先生は、

「さらら、オリちゃん来たわよ~」


リビングの奥にあるダイニングのテーブルの椅子に座って本を読んでいる男性に声をかけた。


(あれって地毛なんかな……?)


と思ったのも、ゆるく1つに束ねられた男性の髪色がミルクティーのようなベージュで、毛先に向かってココアブラウンへとグラデーションになっていたからだ。


更に左耳には翠色のしずく型の耳飾り、それに卵型の小さな薄紫色のモチーフがついたネックレスと、お洒落男子であることは見てとれた。


先生の呼びかけに男性はパタンと本を閉じて立ち上がると、リビングへやって来た。


「おはようございます」

「お、おはようございます……」


箏の先生の息子だから、ちゃらけてはいないだろうとは想像していたが、それを遥かに超える美男子が現れ、挨拶すら気後れしてしまった


(かっこよすぎるんやけど……てか、脚長っ……!!隣に並びたくないな…………)


服装は、ゆとりのあるライトグレーの半袖Tシャツに黒ズボンというシンプルな着こなしで、首元と裾からはちらりと白い生地が見え、重ね着風の仕様になっていた。


シャープなのに柔らかく透明感のある顔立ち、まろやかな色味の髪はもちろん、澄んだ翠色の瞳はヨーロッパかどこか異国情緒が漂っていた。


「初めまして。春希はるきさららと申します」

曲路菜織すじかいなおりです。よ、よろしくお願いしま……す……」


眩い光をまとっているかのような姿に気圧されたわたしは声がかすれていた。


(“春希”……先生は旧姓を使ってるって言ってたもんな)


福砂先生の本名は“春希香枝”だが、教室では旧姓のままで活動している。


「こちらこそ、お願いいたします」


すると、左耳の耳飾りがシャランと揺れた。


(わぉ、おっしゃれ~~)


明るい長髪――といっても鎖骨にかかるくらいの長さで、過剰なアクセサリーなど通常は嫌悪感を抱く対象なのだが、この人は清潔感があり、自然な美しさがにじみ出ていた。


(ん……?でも、先生とはあんまり似てないよな。旦那さんが外国人なんかな……?)


突如わいた疑問に先生が「あっ」と思い出したかのように口を開いた。


「オリちゃんには言ってなかったわね。姑がノスデフ、北欧の国の生まれなんだけど、さららはその血を濃く受け継いでてね。髪と瞳の色が私とは違うのよ。

あ、毛先は染めてるけどね……潤琉うるるは私似だから姉弟きょうだいで全然違うのよねえ~不思議なもんだわ」


潤琉さんは先生の娘で、さららさんの姉にあたる。


元看護師で、今は福祉関係のお仕事をされているらしく、昨年、先生の旦那さんの実家でお箏の発表会が行われた際にはお世話になった。


当日は途中から外出されていたのでじっくり会話できなかったが、優雅な美人だったというのははっきりと覚えている。



「なんか、すごくキラキラしてますよね……」


わたしはさららさん自身について述べたつもりが先生は、

「ああ、耳のあれね」

と言って息子を見やった。


「おばあちゃんの形見なのよ。イヤリング、指輪、ネックレスとかいっぱい残っててねえ~私や子供達だけでは使い切れないから、ほしいものがあったら生徒さん達にも譲ってるのよ。オリちゃんも見る?また実家から持ってくるわ」


「はい……いや、でも高価そうだし、思い出の品なのでは?」


「そんな高価なものはないわよ。ピアスは翡翠でネックレスはサファイアだけど、合わせて10万ちょっとだったらしいし」


(10万って、そんなさらっと……いや、でも本物の宝石なら安いほうなんか……?)


「翡翠って、魔除けとか癒しの効果があるんですよね……」


「そうそう、オリちゃんよく知ってるのね。ネックレスもそうなのよ。

あんまりじゃらじゃら付けてると、”胡散臭い占い師”みたいだからやめときなさいって言ってるんだけど」


「胡散臭いってことはないかと……かっこいい感じだし、似合ってると思います」


わたしが吹き出しそうになると先生は、

「そうなのよね、憎たらしいことに。なんでも似合っちゃう。でもそれは私が美形に生んだおかげなんだから……母に感謝してほしいわ」


揶揄するようにへっと笑った。


”お箏の先生”というと上品で洗練されたイメージがつきものだが、福砂先生は”カジュアルで気さくな淑女”感が強いので、言動にも親近感を持てる人だった。


「休みの日くらい自由にさせてください」

「はいはい」


苦情を言う息子を適当にあしらう母に、

(いつもこんな感じなんかな。にしても、お母さんにも敬語なんか……雰囲気からしても育ちがよさそうやな)

と眺めていると、


「まあ、思い出があったとしても、しまっておいても仕方ないからね。義母ははも、使ってもらえる人に譲ってって言ってたし」


「そ、そうなんですか……じゃあ、またお願いします」

「おっけ~用意しておくわね」


先生は満足そうに笑んだ。


立ち話をしている最中、ピンポーン――とインターホンが鳴った。


「あっ、柚葉ちゃんだ。和室でお稽古するから2人で始めてて。後で見に行くわ」


と、すぐさま先生はリビングから出て行ってしまった。


(えっ、いきなり2人だけで合わせるん……!?)


初回合奏の場合は、たいてい先生が前で演奏を聴きながら、指示や助言を出してくれるのだが、今日のように同じ時間帯に他の生徒さんがいると、おまかせモードになる時もあった。


「調弦取っておきましたが、念のため確認してください」

「えっ、あ、す、すみません…………!!ありがとうございます」


ポカンとしていたわたしは、さららさんの声でハッと我に返った。


わたしはポーチから箏爪と洋楽器用の電子チューナーを取り出し、調弦を確認し始めた。


箏はピアノなどの楽器とは違い、絃にかかっている箏柱ことじを移動させて、その曲ごとに調弦を取る必要がある。


これが意外と手間で、熟練者なら基音をチューナーで取った後、あとは耳で合わせられるのでさっと調弦できるのだが、慣れていなかったり、特殊な調弦だと大幅に時間がかかった。


幸い、この曲は基本の調弦を少し変えただけなので確認もすぐに終わった。


「で、できました……」


「では、とりあえず1回通してみましょうか」


「はい。よ、よろしくお願いします……」


滞りなく弾き終えると、お互い黙ったままで気まずさを感じた。


(何か言わんと……えーっと、強弱の付け方はこんなもんでええんか……?)


内心焦っていたわたしに、

「弾きづらいところはありませんでしたか?」

さららさんが尋ねた。


「えっ……いや、なかったです。すごく弾きやすかったです。わたしのレベルに合わせてくださりありがとうございます」


わたしは軽く頭を下げると彼はキョトンとした顔で言った。


「そんなつもりはないですよ。普段通りに弾けました。この2カ月間、わりと必死に練習したのですよ」


「わ、わたしも足引っ張ったらアカンなと思って練習しました。

それに、合奏するのに全然弾けてないとか失礼なので……あ、でも、まだ苦手な部分は克服できてませんけど…………」


「まだ時間はたっぷりあるので焦らなくても大丈夫だと思います。初回は合奏の雰囲気を掴む程度で良いかと……でも、結構速かったですね」


「あ、少し走りすぎましたか……?」

「いえ、弾きやすい速さでした。途中、緩んだところもありましたが……」


「どのへんでしょう……?」

「3ページの2行目の……」


わたしは指摘された部分のページをめくった。


「デクレッシェンドしていくところでほんの少し緩んだかなと」


「ああ、確かに……音を小さくするのにつられて遅くなっていった気がします。気を付けます」


わたしは鉛筆で該当箇所を丸で大きく囲み、”ゆるまない”と書き込んだ。


「他はどうでしょうか?」


「あとは、フォルテピアノの強弱とかのメリハリをもっとつけてみてもいいかなと思います」


「そうですね。小さい所はもう少し落としたほうがいいかもしれないですね」


ふむ、と頷きながら楽譜にある強弱記号をチェックしていると、


「1回目は何度か止まるかと思っていたのですが、スムーズに最後まで弾けたので、わりと早く完成しそうですね」


「先生と何回も合奏したおかげだと思います」


「個人練をしっかりされていたからですよ」


突然の褒め言葉にわたしは思わず手を止めた。


「全く個人練していない人だと、5分程度の曲でも1曲通すのに30分以上かかることもあるんですよ」


「えっ、そんなのお金と時間をドブに捨ててるようなもんじゃないですか……!!あ……すみません、つい本音が」


初対面の人の前で、しかも先生の息子に言うべき内容ではなかったと後悔しかけたが彼は、うんうんと頷いた。


「全くその通りですよ。せっかくの合奏練習、限られた時間を大切にしたいですよね。だから今日は滞りなく合奏できて嬉しいです」


「わたしはたまたま練習する時間がとれてるだけで…………」


「時間があっても『弾こう』と思わなければなかなか練習できないものですよ。

曲の流れも把握されていていますし、意欲を行動に移せるのが素晴らしいです」


「いやいや……そんな……」


仲良しこよしのどうしの間柄なら、「ちょっと練習さぼっちゃった~てへぺろ」でも許されるだろうが、初回でしかもそれなりに弾ける人が合奏相手なのに、練習せずに合奏練に臨んで来る人がいるなんて逆に見上げた度胸だと思った。

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