おりすじ
sapiruka314
1. 合奏練習前日
子供の夏休みも終わり、1人時間を満喫できる9月が到来した。
残暑というのも名ばかりで、日中は盛夏と変わらない熱気と湿気に、秋の訪れを切に願う毎日だった。
40歳を目前に気が滅入る回数も増えたが、それは気候のせいだけでなく、自身の体の不調も関係していた。
身体機能の衰えを実感しつつも、家事と仕事と子育てと趣味でそれなりに充実した日々を送っていた。
(明日大丈夫かな……)
近所のお箏教室に通い始め約1年。
ようやく教室の雰囲気にも慣れてきたところだ。
箏――13本の絃が張られた、長さ約180cmの桐製の楽器で、絃に掛かった白いプラスチック製の
演奏する時は右手の親指、人差し指、中指に
今は12月の発表会に向けて、
帆立にそっくりな蒲鉾を食べた時の驚きと感動を表現し、海や波を連想させる幻想的な調べに仕上げた――という解説通り爽快な曲である。
一通りお稽古は済んでいて、あとは合奏練習のみだった。
いつもなら先生か、他の生徒さんと合わせるのだが、この曲に限っては隣のウイチ県に住んでいる先生の息子と合奏することになった。
初対面で10歳も年下の男性との合奏なんて未知数だから、初回の合奏練習日が近付くにつれて緊張感も増し、念には念を入れた練習に力を注いでいた。
(まあ、これくらいしとけばなんとかなるやろ……)
練習が一段落したところで、
「ママぁ~~おやつちょうだ~~い!!」
1階からわたしを呼ぶ大声が響いた。
「は~い!!ちょっと待ってて~!!」
わたしは急いで部屋を出ると、階段を下りた。
リビングには、娘の
大量の汗で髪の毛が額に張り付き、ソファのクッションにも大きな汗ジミが付いていることから、テレビを見ながら寝落ちしてしまったのだろうと推測できた。
夏場にかく汗は5歳を過ぎても半端なかった。
「汗だくやん。タオルで拭いて」
「は~い」
わたしはダイニングテーブルに置いてあったハンドタオルを彩実の頭に乗せた。
彼女が自分で顔を拭いている間、わたしは三つ編みをほどいて結び直していると、
「ママって、ナマケモノに似てる。さっきテレビに出てた」
と突然言い出した。
「ナマケモノ?なんで?怠けてるから?」
「顔が”ふにゃー”ってしてるところ」
「ふにゃ~か……」
「可愛いよ。ママの髪ふわふわしてるし」
にこにこ顔で、わたしの頭をなでなでしてくれる彩実。
”ほんわか癒し系”とおだてられていた10代、20代の頃はロングヘアだったが、産後は髪の手入れの時間さえ惜しく、バッサリ切ってしまった。
それ以来、くせ毛のうねりを活かしたひし形シルエットのミディアムヘアを維持している。
「ママ、おこと弾いてたの?」
「うん。明日、教室に行くから」
「じゃあ、パパと一緒か~」
彩実は残念そうな顔でため息をつき、
「いっぱい遊んでもらえるからええやん。それとも、彩実もお箏弾きに行く?」
「イヤ。難しいもん。パパと遊んどく」
ぷく~っと頬を膨らませて怒った。
娘にもお箏に親しんでもらおうと、お箏教室の体験レッスンを受けさせてみたのだが1回行っただけで飽きてしまった。
親が好きなものは子も好きになるだろうという読みは甘かった。
しかし、玩具のピアノや木琴などは弾いているので、ただ単に箏という楽器に興味が向かなかっただけなのだと思う。
チョコ入りビスケットを2枚食べ終わった彩実は、リビングの玩具棚からブロック箱を持ってきて取り出し、黙々と家やらタワーやらを作り始めた。
「パパ帰って来たら見せよ~っと」
想像力を膨らませてカラフルなおうちを完成させると、満足いく作品をダイニングテーブルのど真ん中に置き、リビングに戻った。
その後はお絵描きやテレビなどで時間が過ぎていき、18時半をまわった頃に夫が帰宅した。
「おかえり~」
部屋の扉が開いて夫が「ただいま」と入って来たものの、鞄を置くやいなや、リビングのソファにドカッと座り、ポケットからスマホを取り出した。
斜め前には彩実がマットの上に座ってテレビを見ているのに、”帰って来たよ”アピールもせずに、スマホの画面をスクロールさせていた。
(「今日は幼稚園で何して遊んだの?」とか聞けよ……)
赤ちゃんの頃は「いい子にしてたか~?」と目に入れても痛くない可愛がりぶりで、帰宅しても真っ先に抱っこしに行っていたのに。
それが今やスマホ優先になってしまい、娘とロクに会話しようともしなかった。
わたしの夫、
くっきりした目鼻立ちに純朴な笑顔がチャームポイントの優男――だったのは10年も前のこと。
仕事では、医療現場で上司や患者からの理不尽な要求にも文句ひとつ言わず業務をこなす日々が続いているせいか、年々ストレスと疲労が溜まり、自宅では燃え尽きた人のようにすっかり疲弊しきっていた。
そんな夫に娘と一緒に遊んでくれまでは言わない。
でも、普通に会話くらいはしてほしい。
スマホのニュースチェック、ゲーム、動画視聴などは娘が寝てからでも十分できるではないか。
子供と触れ合える時間はあっという間に終わってしまうのに、スマホとにらめっこなんてもったいない――
そんな思いも虚しく、娘から「遊んで」と言われない限りは自宅では自ら遊ぼうとしなかった。
そんな姿に見慣れてしまったのか、彩実にも「パパ、スマホばっかり!!」と怒られていたが、だからといって娘がいる前でスマホを見る回数は減らなかった。
わたしもさんざん注意しているが、一家の大黒柱にグチグチ言って機嫌を損なうのは面倒だ。
だから、そのうち彩実が「パパ嫌い!!」と愛想を尽かし、夫が「あの時もっと遊んでおけばよかった……」と後悔するまでは口うるさく言わないことに決めた。
わたしがキッチンで料理の盛り付けをしていると、夫が立ち上がって冷蔵庫前までやって来た。
「明日お稽古やっけ?」
「ああ、うん。合奏練習」
「初めての人って言ってたもんな」
「いつも先生か
「そんなキツイ相手やったら先生も合奏相手に選ばんやろ」
「まあ確かに……」
夫は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、コップに注ぐと一気に飲んだ。
曄子さんはわたしと同じく、
生徒さん達の中ではわたしと一番年齢が近いので、一緒に合奏することも多かった。
「息子さんも講師の資格も持ってるから、それなりに実力はあるわけで……ていうか、
ますます心配になってきたわたしは頭を抱えた。
「資格なら、なおりんも持ってるやん」
「そうやけど、もう十数年前のことやし、一心不乱に取り組んでた頃と違って、今はぼちぼちできたらいいかな~って程度やもん」
わたしが箏を始めたきっかけは、大学時代の部活だった。
当時は、現在住んでいるグフ県の西隣、スガ県の大学の「
お箏教室では、資格試験を受けて合格すれば指導者にもなれる。
わたしも資格を取得したが、自身の実力を試そうと受けただけで指導者になるつもりは全くなかった。
なので、その後も変わりなく、数々の難曲に挑戦するため日々研鑽を積んでいた。
しかし、結婚後に引っ越し、更に彩実を出産してからは糸が切れたように全く弾かなくなってしまった。
物価高のご時世、これから子供の教育費もかかってくるのに、主婦の習い事なんて贅沢だという意識が芽生え始めたのだろう。
「いつかは再開したい」という思いはあっても、いざ箏を目の前にすると尻込みしてしまい、これまで練習してきた曲を弾いてみても納得のいく演奏ができなかった。
少人数のコンサートなら気軽に参加できるのに――
橘先生の教室はホールを借りての演奏会が多く、舞台で大勢のお客さんの目の前で演奏できるという貴重な経験ができたが、その分出費も大きかった。
お金だけでなく、弾きごたえのある曲を選ばなければならず、合奏曲のほとんどは先生が提示した曲からメンバーを決めるという形だった。
50人の生徒数では、個々の好きな曲を演奏するのが難しいというのはわかっていたし、敢えて自分が選ばなさそうな曲を弾くことで、経験値アップできるのなら悪くはないと思っていた。
けれども、数年も箏から離れていると、「もっと気軽に弾きたい」という思いが強くなり、本格的な演奏会の練習も億劫になっていったのだと思う。
このような本音を橘先生には言いづらく、今は「スガ県まで通うのも大変だし、練習時間もなかなかとれない」という理由で休会させてもらっていた。
けれども、いつまでも箏を”オブジェ”にしておくわけにもいかない。
彩実も年中児になり、そこそこ手もかからなくなってきたところで、箏を再開しようと思い始めた矢先、最寄りの公民館の掲示板でたまたま目に入ってきたのが、福砂先生のお箏教室案内だった。
「経験不問、趣味で楽しみたい方、少数メンバーで活動中!!」という謳い文句に惹かれ、勇気を振り絞って電話し、体験レッスンを受けに行ってみた。
そこで福砂先生が元”茶幸会”所属で、橘先生の後輩ということを知り、わたしのこれまでの活動経歴を話したところ快く迎えてくれた。
”休会中”といっても、担当師匠の橘先生に無断で他の教室に通うわけにはいかない。
福砂先生は「うちでしばらく預かりますって伝えとくわ」と言われたので、わたしからも橘先生に電話したところ、「余裕が出てきたら、スガにもまた来てちょうだい」と事情を把握してくれた。
多少うしろめたさもあったが、「もう一生お箏弾きません!!」と断言したわけではないだけマシだと思うことにした。
こうしてわたしは福砂先生の教室に月2~3回で通うことになった。
ちなみに月謝は1回約45分のお稽古で1,500円。
音楽系に限らず、習い事の中でも格安なのではないかと思う。
だからといってワケありではなく、親切な指導で和気藹々とした雰囲気の教室で、10代の学生から70代のおばさままで、幅広い年齢の人達が通っていた。
普段わたしは、夫の叔母が運営する、和菓子のネットショップの管理やPOP制作の仕事を在宅で行っていて、他者との出会いがほぼない環境だったので、お箏教室に通うのは新鮮味があって楽しかった。
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