執事カミロ・レヴァンテの決断

リス(lys)

第一章 静かなる融和

第1話 路地

 美しい筆致で書かれた手紙を読みながら、あの日のことを思い返していた。

 もし、あのとき、彼に違う言葉をかけていたら……

 彼がここを去ることはなかったのだろうか。





 肌寒い夕暮れだった。


 ひゅう、と吹き抜けた風に身を震わせ、コートの合わせ目をきつく閉じる。その日、仕事のことで重大な決断に迫られていた私は、一旦頭を冷やすために外を歩いていた。


 ふと自分の影の長さに気付き、ぐるぐると回る思案を無理やり閉じ込めて立ち止まる。いつの間にこんなに時間が経ってしまっていたんだろう。ここは多分……家まで10分程度の場所か。考えに没頭して、あまり詳しくない地域に迷い込んでいた。すでに人通りも無い。


「そろそろ帰ろう……」


 答えが出た訳では無い、しかしこのまま外にいても冷えるだけだ。じきに暗くなる。


 さて、と足を踏み出そうとしたとき。建物と建物の間から吹き抜けてきた風の匂いに気を取られる。鉄、のような……まさか、血……? いくらこの街の治安がそれほど悪くないとはいえ、どこにでも破落戸ごろつきは居るものだ。喧嘩に巻き込まれでもしたら堪らない。しかし争うような声や物音はなく、しん、と静まり返っている。路地の奥の暗がりは、何処に繋がっているのかもわからない。


 ……さっき感じた匂いは気のせいだ、それか動物でも死んでいるのかも。


 そう自分に言い聞かせて立ち去ろうとしたとき、奥から微かにうめき声が聞こえた。……気の所為じゃなかった。きっと怪我をしているんだろう、破落戸だとしても、このまま放っておいて死なれでもしたら寝覚めが悪い。一応確認して、必要なら助けを呼ぼう。


 意を決して路地へ踏み込む。しばらく進むと、積み重ねられた古びた木箱や木樽、その影に隠れるようにして、壁に身体を預けて脚を投げ出して座りこむ男がいた。


 あたりに漂う血の匂い。

 黒い外套に身を包み目を閉じた男は、この状況にそぐわないほど端正な顔立ちをしていた。自然にウェーブする黒髪は乱れ、顔は青白く頬はやや痩けているが、なぜだか気品を感じるのが不思議だった。頬や口の端にも血が滲み、黒い革手袋を嵌めた右手で左の肩の辺りを押さえている。かなり深い傷なのだろう、黒い外套の袖が血でぐしょぐしょに濡れているのが分かる。足にも、いかにも急拵えといった傷の手当の跡がある。


 俯いて目を閉じていた男がバッ、と顔を上げ、肩で息をしながら乱れた髪の隙間からこちらを睨みつける。灰色と青の混じった鋭い目に射すくめられ、ビクリと身体を震わせた私は動けなくなる。その目にこもるのは、明らかに、殺意だ。


 しかし次の瞬間には、困惑とも驚きともつかない視線に変わり、痛みを堪えるように眉根をキツく寄せて、また目を閉じ俯いてしまった。

 ……このまま放っておけば、死ぬかもしれない。訳ありなのは明らかで、きっと助けを呼ぶことも拒否するはずだ。私の取れる選択肢はそう多くない。


「あの……大丈夫?」


 答えない。


「助けを呼ぶ?」


「……駄目だ」


 初めて聞くその声は酷く掠れてはいるが、不思議と声音は耳に心地いい。


「……家は? 行くあてはあるの?」


 僅かの沈黙の後、ため息と共に微かに首を振る。返事をするのも億劫なのだろう。


「うちに来る?」


「……………………は?」


 たっぷり時間をとって発した一言と、こちらを見る目に浮かぶ困惑。


「うちに、医療の心得のある人がいる。簡単な手当なら出来るはず。わざわざ警察に連絡したりはしない、回復したら勝手に出て行けばいい。今夜は冷えるから、ここにいてもそのまま死ぬかも」




 私の提案が理解しがたいのか、相変わらず肩で息をしながら眉根を寄せて何かを考えている。いきなりこんなことを言われて、警戒するのも無理はない。でも、このまま放っておくわけにもいかない。


 陽も落ちて冷えてきた。こうしていても事態は好転しない。


「来るよね?」


 沈黙を肯定と捉えて、負傷していない右腕を取る。重いため息をついて、男はノロノロと立ち上がった。

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