人影のない病院

@Oame

第1話 静寂な廊下

高橋春翔 (たかはし はると) は、東京病院の救急・集中治療科で研修をしている医師だ。

しかし、ここに来た瞬間から、彼は異様な違和感を覚えていた。


広大な病院、果てしなく伸びる廊下、整然と並ぶ病室

それなのに、彼がここで働き始めてからの一週間、見かけた人間はたったひとり。


藤村明里 (ふじむら あかり)、彼と同じ病棟で働く看護師だ。

科長の医師もいない。患者もいない。家族の姿もない。


誰も、いない。


それなのに

毎日、彼の耳には 「誰かの足音」 が響く。

医療機器の 「ピッ、ピッ」 という作動音が聞こえる。

病歴のカルテをめくる 「パラリ、パラリ」 という音がする。


まるで、病院が普通に稼働しているかのように。

ただ── そこに、誰もいないだけだ。


春翔は医局のコーヒーメーカーの前に立ち、

無意識に壁にかかった時計を見つめた。


カチ…カチ…カチ…カチ…


彼の眉がわずかに寄る。

時計の秒針は、音を立てながら、しかし 動いていなかった。


背筋を冷たいものが這い上がる。

彼は時計から目を離せないまま、思考が停止していた。


その時だった。


ポタ…ポタ…


コーヒーがカップから溢れ、床に滴り落ちた。


そして、


「ゴホッ…ゴホッ…」


廊下から、かすれた咳払いが聞こえた。

春翔は驚き、顔を上げた。

患者か…?


急いで部屋を出ると、長く続く薄暗い廊下が目の前に広がった。

蛍光灯の光が、不気味にちらつく。


しかし、誰もいない。


不審に思いながら、彼が部屋に戻ろうとした、その時 ひやり

肩に、冷たい手が触れた。


「あっ……!」


春翔は反射的に振り向く。


そこに立っていたのは 藤村明里だった。


彼女は困惑した表情で彼を見つめ、

「高橋先生、大丈夫ですか?」と尋ねた。


春翔は深呼吸し、落ち着こうとする。

そして、彼女をソファに座らせ、今しがた起こったことを話した。


しかし、明里は驚かなかった。


むしろ、彼女はしばらく沈黙し、静かに呟いた。


「……私も、見たことがあります。」


この病院で研修を始めてからずっと、彼女は違和感を感じていた。

時折、足音や咳払い、ベッドを引く音が聞こえる。

だが振り返ると、そこには誰もいなかった。


そして今、病院は不気味なほど静まり返っている。


カチ…カチ…カチ…


秒針が動かない時計は、それでも音を刻み続ける。


その時だった。


「高橋先生……至急、重症患者の対応をお願いします……」


春翔と明里は目を見合わせた。


── 重症患者?


彼らがここで働き始めてから、一度も患者を見たことがないのに。


明里の手が小さく震える。

彼女は春翔の袖を掴み、声を震わせた。


「先生……行かないで……」


しかし、春翔は静かに廊下へと足を踏み出す。


胸が高鳴る。緊張からか、それとも──

遠くで響く モニター音 のせいか。


ピッ…ピッ…ピッ…


喉が渇く。

……患者は、一体どこから来たんだ?


「高橋先生、急いでください!」


声はさらに切迫していた。

汗が背中を伝う。


なぜか、今行かなければならないという 強烈な衝動 に駆られる。

もし、行かなかったら── 何か大切なものを失ってしまう気がする。


明里の手が、強く春翔の袖を引く。


「先生……やっぱりやめましょう……」


その声は、今にも消えそうだった。


しかし、春翔は彼女を見つめ、静かに微笑んだ。


「医者としての使命を果たす。」


そう言い、彼は “その声” のする方へと歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る