わたしたちは満たされている

クニシマ

◆◇◆

 小さいお子様をお連れの方は手を繋ぎステップの中央にお乗せください、というアナウンスが聞こえたのは、ちょうど調子の悪いイヤホンから流れる音楽がぷつりと途切れたからで、エスカレーターの手すりを掴みながら、そういえば私はもう小さいお子様じゃないんだ、と、そのときふいに気がついた。二十歳になって五ヶ月、大学三年生の夏休みのことだった。

 都会にもほどよく近い住み心地のいい町で、優しい両親の元にひとりっ子として産まれ、何不自由なく育てられて、幼稚園から大学まで周囲の環境が大きく変わるようなこともない地続きの暮らしをしてきたからだろうか、私は自らのことを庇護されるべき子供だと思ったまま歳を重ねていて、これまでにアルバイトのひとつもしたことがなく、同学年の友人たちの間でそろそろ身近な話題として語られるようになってきた就職活動のことについても自分とはまるで関係のない話であるように感じてしまうけれど、きっともうそれではいけないのだ。

 その日、私はフードデリバリーの配達員に登録した。就職前に少しでも社会経験を積んでおくのが目的で、稼ぎたいわけではなかったし、暇なときに働きたいだけ働くことができるのが気楽だった。夏休みの間は主に暑すぎない日に近所への配達をして、大学の後期授業が始まってからは休日に少し遠くまで足を伸ばして配達の範囲を広げてみたりもした。

 そうやって半年ほどが過ぎ、春休みに入った頃のある土曜日の朝、天気もいいし今日は配達に行こうかと考えながらダイニングキッチンへ向かうと、やけに神妙な顔をした両親が朝食のサンドイッチと共に私を待っていた。どうしたのか尋ねると、母方の伯父から連絡があって、祖母が危篤状態なのだという。確かに祖母はここ数年病気がちでしばらく入退院を繰り返していた。けれど今年の正月、隣県にある母の実家へ挨拶に行ったときには、痩せてこそいたものの元気そうで、だからその知らせはなんだか突飛すぎることのように聞こえた。

 急いでサンドイッチを食べた後、私は両親に連れられて家を出た。電車を乗り継いで二時間、辿り着いた駅の改札口まで迎えに来てくれていた伯父夫婦は、しかし開口一番にごめんねと言った。祖母の容体は、連絡を入れた朝方は事実かなり危なかったものの、それから次第に持ち直してきて、今はすっかり安定しているらしいのだ。面会に行くこともできるけれど、祖母は寝ているだけだし、あまり大人数で病院へ押しかけてもしょうがないから、と私たちは伯母の紗恵さえさんが運転する車で母の実家へ向かった。せっかく来てもらったのに申し訳ない、と言って、伯父は私たちを昼食に誘ってくれた。十人を超える数の親戚が集まってしまったため、寿司の出前をとったのだそうだ。

 そして正午を少し過ぎた頃、私たちは客間で寿司桶を囲んだ。伯父が父に日本酒を勧める横で、私もビールをいただく。穏やかで小規模な宴会はゆったりと続いて、午後三時を過ぎると寿司桶はほぼ空っぽになり、そろそろ失礼と帰っていく人たちが出てきて、私たち家族と伯父夫婦、それから叔母の千代ちよさんだけが残った。酒瓶を抱えて楽しそうに何か話している父と伯父を客間に置いておき、私と母と紗恵さんと千代さんは居間へ移動する。薄いレースのカーテンがかかった大きい窓から差し込む陽光があたたかい。テレビをつけ、適当な番組を眺めながらとりとめのない話をする。それぞれの近況、たとえば紗恵さんの趣味のことであったり、千代さんの勤め先のことであったり、それから私の就活のことであったり、そんなふうに話題がひととおり出尽くしたとき、ふと千代さんが「そうだ」と紗恵さんに向かって手を合わせ、ごめんね、と言った。

「お母さんのこと、紗恵ちゃんとお兄ちゃんに任せちゃって」

「そんなの全然いいの」おおらかに、そして小さな子供をからかうように紗恵さんは笑う。「千代ちゃんはお義母かあさんのこと、まだ怖いんだもんね」

 祖母は、私にとっては会うたびに色々なものを与えてくれた優しい老人だけれど、かつては非常に厳格な人で、伯父、母、千代さんの兄妹も、それから彼らの幼馴染だった紗恵さんも、彼女をとても恐れていたそうだ。中でも千代さんは特別そりが合わなかったようで、高校卒業後に都会の大学へ進学してからはほとんど帰省することもなかったらしい。

 ふと居間に入ってきた伯父が、私たちの横を通り過ぎて台所へ向かった。がさがさと物音が聞こえるので、紗恵さんが「なんか探してる?」と声をかける。

「枝豆でも茹でようかと思ったんだけどね。なかったからちょっと買ってくるね」

 そう言って伯父はややふらつく足取りで外に出ていった。あんな酔っぱらい、ひとりで出かけさせて大丈夫なの、などと言って母と千代さんは笑い合う。紗恵さんは「ま、スーパー、すぐそこだし」と肩をすくめた。千代さんがきょとんとする。

「このへん、スーパーなんかあったっけ。最近できたの?」

「結構前からあるよ。何年前だったかな。あのほら昔、みやびちゃんの家があったあたりなんだけど」

「ああ、じゃあほんと近いね」

 みやび、という名前を、私はこのとき初めて聞いた。それをすぐ察したらしい紗恵さんは、私に「あれ、知らないんだったっけ、みやびちゃんのことって」と言い、話して大丈夫かな、と母と千代さんの顔をうかがう。

「まあいいでしょ、もう大人だし」

 母がこともなげにそう言うと、千代さんもうなずいて、みやびさんという人について教えてくれた。その人は母たち兄妹のいとこで、家も歳も近く、幼い頃は紗恵さんと母とみやびさんと千代さんの四人で毎日のように遊んでいて、近所からは実の姉妹だと勘違いされたりもしたそうだ。四人が中学生だったあるときには、みやびさんの家が火事になり、幸い怪我人も死者も出なかったものの、家の再建に時間がかかったため、しばらくの間みやびさん一家が母たちの家に同居したということもあったらしい。特に千代さんはみやびさんと同い年だったこともあってとても仲がよく、同じ大学へ行き、アパートの一室を借りて一緒に住んでいたのだという。みやびさんは火事の経験から火が大嫌いで、食事を作るのも千代さんにすべて任せきりだったけれど、炊飯器で米を炊くのは火を使わなくてもできると教えてからは、炊飯だけはやってくれるようになった、と千代さんは懐かしそうな顔をするのだった。

「——それでね、付き合ってたの、一時期。ほんと、大学卒業する直前の半年とか一年とか、それぐらいだけど」

 そう話す千代さんに、紗恵さんが「あれ、そんな短かったんだっけ。もっとずっと付き合ってたんだと思ってた」と言うと、母も「かけおちしたんだと思ってた」と重ね、そうやって三人はけらけらと声を立てて笑い合った。私は笑えなかった。どんなに楽しく幸せで美しい思い出として語られても、今みやびさんがここに、千代さんの隣にいないこと、その一点だけで、それはどうしても悲劇に終わった話のように思えてしまうからで、けれどそうではないのだろうか。わからないのはだからなのだろうか。千代さんは私を見て「若いうちはね、いくら失敗したって」と微笑んだ。失敗でしたか、と私は訊いた。

「付き合ったことがじゃなくて、別れるぐらいこじれちゃったことがね」

 でも付き合わなければ別れなかった、と母が口を挟んでくる。なんだか棘のある言い方のような気がして、どうしてか私は何かを言い返したくも思ったけれど、千代さんは笑顔で「お姉ちゃんはね、やるなら最後までやれって人だから」と言った。母はじっと千代さんを見つめる。

「いとこなんだから結婚できたのに。オランダでもベルギーでも行けばよかった。千代ちゃんたちはそうしなかったでしょ」

「そんなにするほどじゃなかったんだね」千代さんの表情は穏やかなまま変わらない。「たぶん、お互いに」

「やるなら最後までやれっていうのは、できないなら最初からやるなってことじゃないもんねえ」

 紗恵さんはつぶやくようにそう言って、それから私のほうを向いて優しく笑った。そんなふうに笑えることの理由もやっぱり私にはわからなかった。

 玄関の扉を開ける音がして、枝豆を持った伯父が「ただいま」と言いながら居間を通り抜け、再び台所に入っていった。

「みやびちゃん、今どうしてるんだろうね」

 誰も連絡先知らないから、お義母さんのこと連絡できなかったんだよね、と紗恵さんが唇をとがらせる。千代さんは少しの間ためらうように小さく口を開きかけては閉じたりして、どのあたりに住んでいるのか実は知っていると地名を言った。えっそうなの、と母が驚いた声を上げた。私も驚いていた。それは私たち家族が住んでいる町の、すぐ隣の町の名前だった。

 ふいに思い出したことがあった。二、三ヶ月前、私はその町を配達で訪れたのだった。届け先は背の低いマンションの一室で、インターホンを押すとかすかに慌ただしい足音が聞こえ、勢いよくドアが開いた。男性の名前での注文だったけれど、出てきたのは女の人だった。私は顔から人の歳を推測するのが下手で、それはこれまでに顔でだいたいの歳を判断できるようになるほど他人と関わってこなかったからなのだろうけれども、だから私はその人を二十代半ばくらいかと思ったのだった。とても綺麗な人だった。その人は青ざめた顔をしていて、強い力で私の腕を掴み、消えないんです、助けてください、火が消えないんです、と泣き出しそうな声で繰り返し言った。私はその人に引っ張られるまま室内に上がり、キッチンへ入った。湯気がしきりに出ているやかんの乗ったコンロに小さな火がついていた。その人は点火ボタンを指差し、押せないんですと訴えるのだった。確かにそのボタンは押しても動かなかった。落ち着いてくださいと声をかけながら、私はボタンの周りをよく見てみた。ボタンのすぐ下にあるチャイルドロックがかかった状態になっていた。それを外すと、ボタンは正常に押せるようになり、火は無事に消えた。本来は子供が不用意に点火ボタンを押してしまわないようにするためのロックなのだけれど、点火状態でそれがかかってしまったため、ボタンが動かなくなり火を消すことができなくなってしまっていたのだった。そう説明すると、その人は心底ほっとしたように何度もお礼を言ってくれた。そのとき唐突に童謡のメロディーが鳴り響いた。炊飯器が炊き上がりを知らせる音だった。私はその人と顔を見合わせて笑った。それから注文の品を渡してその家を後にした。注文者名は同居人か何かの名前なのかとも思ったけれど、誰かと一緒に生活しているような気配はなかった。それでも決して薄幸の暮らしぶりではなさそうだった。

 あの人はみやびさんだったのだろうか。もしそうだったなら、それはいいことだ。あの人は若々しく、独立していて、そしておいしいご飯を食べているのだから。

 会いに行かないの、と紗恵さんに尋ねられると、千代さんはきっぱり「行かない」と言った。みやびさんも千代さんが今どこに住んでいるのかは知っているのだという。あっちが会いに来ないんだから、こっちも行かないの、と言う千代さんを、母と紗恵さんは意地の張り合いだと笑う。

「でも心配じゃないの? みやびちゃん、ご飯しか炊けないんでしょ」

 冗談めかした紗恵さんの言葉に、今もそうなのかな、と千代さんは大笑いした。

「まあ、もういい大人だし。大丈夫だと思うよ」

 カーテンの隙間から差す西日が急にまぶしくなった気がして、私はそっと目をつぶる。生きるのが上手な人だから、と付け加えるように言う千代さんの声が聞こえた。まぶたの裏にあの人の笑顔がうっすらと浮かんで、それからすぐ消えた。とても可憐な笑顔だった。

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