当たり年を迎える

 くちなし村では七年間に一度だけ、神稚児祭りという例大祭が執り行われる。

 その年、数え七歳を迎える子ども達の中から神稚児を選び、村内を練り歩いた後、本社がある無人島『泡島』に渡る。という、だけの神事だ。


 俺は肌を切り裂く様な寒風にウインドブレーカーの襟を立て、漁師仲間と年末の大掃除に勤しんでいた。

 仲間の一人、小峰(おみね)が五月に新造したばかりの漁船を陸にあげ、船底の掃除をしている。俺は彼の網に出来た解れを直しながら、漁港の傍に繋いだ自分のオンボロ船と見比べた。『第一宝臨丸』の日焼けした船名が揺れている。デッキのペンキは剥げ、グラスファイバーの繊維が浮き出ていた。一カ所二カ所ではない。パテとペンキを塗り重ね、懸命に取り繕ってはいるものの、白とクリーム色がまだら模様になり、かえってみすぼらしく思える。以前、飲み会の席でそれとなく愚痴を零したら、漁師仲間たちはお世辞か本心か『馬鹿お前、やっと一人前の船になったんじゃないか』と、囃し立て、酒を振る舞う始末。

 俺はオンボロ船から目を逸らし、一心不乱に網の解れを縫いなおした。

「あれにも、綺麗な頃があった」

 一体、誰に言い訳をしたかったのか。俺自身、分からなかった。

 そうして年末を迎え、年が明ける。

 魚市場の初競りまで仕事がない俺は、家族揃って公民館へ出かけた。というのも、今年は例大祭の当たり年。加えて、俺の一人娘――華恵(はなえ)が今年数え七歳を迎えるからだ。

 華恵は両腕を伸ばして妻――弓恵(ゆみえ)と俺の手に小さな指を絡めながら、二歩進んでは小さく跳ね上がり、妻と俺に手を引けと甘えた。彼女が跳ね上がる拍子に合わせて腕を引くと、小さな身体はふわりと軽く宙に浮く。ひゅうぅん。と、彼女は宙に浮かぶ自分を鏑矢にでも見立てているのか、下手な口笛を吹いて笑った。

「華恵、大きくなったね」

 妻の柔らかい言葉に華恵は瞳を輝かせた後、ふと項垂れる。次に顔を上げた彼女の唇は、小さく尖っていた。

「お母さん。それ、デリカシーがないよ。わたし、もう小学生なんだから。そういうの、しゃこーじれーって言うんでしょう?」

「まぁっ!」

 妻が驚いたように、俺も驚いた。悲鳴こそ上げなかったが、足が止まる。華恵の反応は酷く歪で、大人びているように見えて子どもでしかなかったからだ。

 俺は息を呑んだ妻に代わって、膝をついて華恵の顔を見た。

「華恵。お母さんは社交辞令なんて言っていない。ただ、君が大きくなったね。って、喜んだだけだ」

「でも、同じクラスのケンちゃんが香奈(かな)先生に大きくなったねって言ったら、先生、ケンちゃんはデリカシーがない。しゃこーじれーは正しく使いなさい。って、怒っていたよ」

「それは先生が大人で、もう、華恵みたいに大きくなれないからだ。大人になると、身体は大きくならない。ケンちゃんは、香奈先生に太ったねって言いたかったんだろ」

 俺の言葉に、頭上から妻の溜め息が降りかかる。

「それはそれで失礼よ」

「お母さん、わたし太ったの?」

「もちろん。太ったし、大きくなったのよ。でも、悪い事じゃないわ。それは華恵の身体が、お母さんを追い越す準備を始めたってことだもの」

「じゃあ、お母さんはうれしい?」

「ええ。とっても嬉しいわ」

「お父さんも?」

「ああ。嬉しいよ」

 俺は膝を押して立ち上がり、華恵の手を握って歩き出した。

「まったく、とんだ勘違いだ。ちゃんと説明しなかった先生が悪い」

 華恵は妻と俺の顔を見比べながら、ふにゃり。と、照れくさそうに頬を緩めた。

 隣家の知人は小学生を虫のようだと例えたが、俺の娘には当てはまらないだろう。一体この地球のどこに、こんなに可愛い虫がいるのか。いたら教えてもらいたい。

「それに、お父さんは華恵がフグみたいに丸くなっても好きだぞ」

「えぇー。フグってお父さんが一番きらいな魚でしょう? ほんとうに好き?」

「そりゃあ、漁師としては嫌いだが、それとこれとは別だ。あれで小さい頃は可愛いんだぞ。大きくなると針を折ったり糸を噛み切ったり……。生意気なこともするが、そういう面倒くさい所も含めてお母さんそっくりで」

「ふぅん。お父さん、それじゃあ私はフグみたいに面倒くさいってことね」

「あ、いや……。華恵。いいか? つまりさっきみたいなことを、デリカシーがない。っていうんだ」

「お父さんが、お母さんはフグみたいって言ったことね」

「そう。その通りだ」

「あなた達ねぇ……。はぁ。呆れて怒る気も失せちゃうわ」

 などと親馬鹿な戯れをしつつ、武道館然とした平屋造りの公民館に辿り着いた。

 すでに中は村民が集まっているのだろう。賑わう声が外まで聞こえてくる。

 俺たちは玄関飾りと門松で彩られた、開け放しの敷居をまたいだ。

 公民館のフロアは多くの人で賑わっていた。過去の神稚児祭りを記録した写真が、パネル展示されている。それらの前で思い出話に花を咲かせている者がいれば、磯辺餅を片手に黙々と写真を見つめる者もいる。

 ふと鼻先を掠めた甘い香りに顔を動かすと、石油ストーブの天板に置いた鍋で甘酒を温める男性――泡足の姿があった。

 幼いころからの老け顔と、最近は神職と自治会長を兼ねて増えた気苦労のせいか、実年齢よりも遥かに年寄りめいて見える。この時も、彼が神職者らしい狩衣に襷掛けをした格好で鍋をかき回す姿と日頃の行い相まって、よく言えば神秘的、悪く言えば俗世離れした雰囲気を纏っていた。

 泡足は俺の先輩にあたり、年齢は五十歳を過ぎている。先代の神主とは犬猿の仲で、十年前に神主が急逝し、神社を引き継ぐまでの間、滅多に地元へ帰ってこなかったくらいだ。

 俺は少々怯みながら泡足に歩み寄り、妻と華恵の手を引いて挨拶した。

「泡足さん。あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」

「これは、網代さん。あけましておめでとうございます。こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。ご家族お揃いで」

 泡足が華恵を見下ろし、小さく会釈した。

「こんにちは」

 途端、華恵は俺の脚を掴んで隠れる。

「華恵、こんにちは?」

「……」

「ごめんなさい。泡足さん」

 妻が俺の脚にすっかり隠れてしまった華恵を抱き上げ、展示パネルを指さした。

「華恵。お母さんと写真見に行こうか。今年、あなたが参加するお祭りの写真なのよ」

 妻は申し訳なさそうに眉根を寄せ、泡足に会釈しながら去って行く。些か決まりが悪くなった俺は、こめかみを掻いて謝った。

「すみません。人見知りするような子じゃないんですが」

「いえ、お気になさらないでください。勧めそびれてしまいましたが、一杯いかがです?」

 泡足は緩やかに手を動かし、小さな耐熱性紙コップに甘酒を注いで差し出した。受け取った甘酒を口に寄せ、躊躇う。鼻先に高い熱を感じたせいだ。とてもじゃないが、すぐに飲める温度じゃない。俺は唇の先を尖らせ、息を吹きかけながら冷めるのを待った。そうしている間に、泡足は深紫色の隈が滲む目元に皺をよせて華恵の後姿を見遣り、溜め息のように零した。

「子どもは不思議な力を持っていますから、きっと、他人の本質が直感で分かるのです。残念ながら、私はどうやら、あの子にとって良くない者だと思われたのでしょう」

「はあ」

「信じていませんね? でも、それは当然です。あなたは失った側ですから」

 指先に甘酒の熱が伝わってくる。耐熱性の紙コップにじわじわと広がる熱は、いつの間にか指先から爪の表側まで広がっていた。俄かに熱を感じ、紙コップの縁を持ち直す。俺は自分の指先を見るなり、目を丸くして驚いた。紙コップから離した指先が、真っ赤に焼けている。どうして気づかなかったのか。

 泡足が胡乱な眼差しで俺の指先を眺め、鍋と見比べる。彼は鍋をお玉の背でそっと天板の縁へ押しやり、申し訳なさそうに謝った。

「ああ、失礼しました。熱かったでしょう。どうにも、例大祭の当たり年はぼんやりしてしまっていけませんね」

 ふわ。と、泡足が小さな欠伸を袖で隠す。

「失礼。なかなか寝付けないせいです」

 俺は危うく火傷を負わされるところだった恐怖よりも、疲れ切った泡足への憐憫を強く感じた。

「察しますよ。俺に何か出来る事でもあればいいんだが、神職の仕事はさっぱりで」

「ありがとうございます。なに、慣例通り、神事に使う道具を支度してくださるだけで充分ですよ。何かあれば、お願いする事もあるかもしれませんが。とりあえず、今のところは大丈夫です。なんの因果か、今年になってから悪戯電話が増えて……。いえ、新年早々、愚痴はやめましょう」

「泡足さん。神職者が愚痴を言ってはいけないなんて、今の時代じゃ誰も言わないさ。話してくれよ。当たり年に悪戯電話なんて。そいつは随分、性質が悪そうだ。俺たちも他人事じゃない」

「ああ、そうですね。いや、悪戯電話というのは私の感想でして。ほとんど激励のメッセージみたいなものばかりなのですが、相手が……」

「何か、反社とか、ヤバい団体とか?」

「いいえ。その相手というのが、くちなし村から出て行った方ばかりなのですよ。製薬会社の会長に始まって、スポーツ選手や弁護士、大学の教授、果ては地方議員まで……。皆、異口同音に例大祭を開催してくれというんです。大学は派遣する研究生を選定しているからよろしく。議員に至っては、融通を効かせるからとまで言ってきました。とんでもない話です。お断りましたが、そんな気も余裕もあるはずないのに、よくまあ言えた物だと」

「なんだ。ありがたい激励じゃねぇか。皆に聞かせてやりましょう。きっと大喜びだ」

「神聖な神事を執り行う私としては、あまり有難い激励ではありませんが……。皆さんが喜んでくれるなら、機会を見てお話ししましょう」

「そうしてやってください。どうせなら、観光客も受け入れて盛大にやったらいい」

「いえ。観光客だけは絶対に許しません。研究者や学者様ならまだしも、観光客だけは受け入れられません」

 泡足は緩く首を横に振ると、展示パネルの方を見て呟いた。

「不躾に神事を荒らされてはたまりませんから」

 底冷えするような泡足の声に、俺は得体のしれない寒気を感じて甘酒を煽った。痛みが走る。もしかしたら、口の中を火傷したかもしれない。

 不意に、賑やかな歓声がフロアに響いた。振り返ると、華恵が同級生らしい女の子の手を取って踊っている。女の子は振り回されているように思えたが、華恵はすっかり上機嫌で、ひとしきり踊った後も女の子の手を離そうとせず、一緒に展示パネルを見ることにしたようだ。彼女は妻に何やら言い置いたかと思うと、友だちと一緒に展示パネルの間を縫い歩いていく。

 娘のことながら、少々強引ではないか。と、肝を冷やしたが、満更ではないような女の子の表情を見て胸を撫で下ろした。華恵に振り回されるような格好で踊っていた女の子は華恵の手をしっかりと握り返しており、彼女が気づかなかっただろう写真の一角に細い指先を伸ばしている。華恵の一際大きな歓声が上がった。

「お父さん! これ見て!」

 俺は華恵に小さく手を挙げて答えると、泡足に会釈をしてその場を離れた。


 華恵は展示パネルの一部を指さしながら、キラキラと瞳を輝かせている。彼女と手を繋いだ女の子は俺を見るなり俯き、フロアを爪先で踏んだ。

「どれだい?」

 俺が腰を屈めると、華恵は彼女にとって見上げるような高さに飾られた一枚の写真を指さした。

 輿に乗った神稚児が村内を練り歩く、『見渡(みわたり)』のワンシーンだ。赤珊瑚と真珠を飾った冠、金糸で刺繍を施した錦の礼装に身を包んだ神稚児が、左手に持った大きな袋の中から貝殻をばらまいている。

 輿を担いでいるのは神稚児と同じ年頃の子どもだけ。四人いるとはいえ、豪奢な輿と神稚児役の子どもを担ぐのは大変そうだ。彼らの表情は明るく輝いているように見えたが、それはカメラのフラッシュで反射した脂だろう。なぜそんな事を感じたのか、考えるまでも無い。その輿を担いでいる子どもの一人が、俺自身だったからだ。

華恵を見れば、得意げに顎を持ち上げている。彼女はその写真に写っている子どもの一人が、自分の父親だと確信しているようだった。

「これ、お父さんでしょう?」

 アニメか漫画の名探偵が言うような調子で、華恵は言った。俺は大人しく両手を挙げてみせてから、彼女の頭を撫でる。

「ああ。よくわかったな」

 そういうと、華恵は頬を掻き、女の子の手を引いて笑った。

「凪咲(なぎさ)ちゃんが気づいたの」

 俺は華恵の隣に佇む女の子へと目を向けた。

 凪咲と呼ばれた少女は微かに顔を上げ、俺の顔を見たかと思うと、またすぐに伏せてしまった。長い前髪が顔を覆い隠し、彼女の薄い唇を染める薄桃色だけが、青白い顎に浮かんで見える。

 凪咲ちゃんというのは華恵が小学校に上がって以来、よく口にする名前だ。その名前はよく聞いていた。やれ、凪咲ちゃんは凄い子だ。テストで満点を取った。かけっこで一番だった。難しい漢字をすらすら読めた。と、まるで自分の事のように自慢する度、親としては複雑な気持ちにならざるを得ない。加えて、俺は夏休み前の短い期間だけ子ども達に着衣水泳の指導をしているのだが、その際、見学していた女の子の名前も凪咲といったはずだ。

 俺は彼女の存在に心当たりこそあったものの、しっかりと顔を合わせるのは初めてだった。

「君が凪咲ちゃんか。華恵からよく話を聞いているよ。俺は勘一郎。夏休み前に着衣水泳の授業をしたんだが、覚えていないよな」

「ううん……。おぼえている」

 凪咲の声は驚くほど静謐だ。もし、他人の声音を色に例えることが出来るとしたら、華恵の声は橙色で、凪咲の声は真夜中の星を包む濃藍色だと言えるだろう。たったの一瞬で気圧されてしまった俺は妙に戸惑い、わざとらしく話題を逸らした。

「それにしても懐かしい写真だなぁ。お父さんが七歳の時だ」

「私たちと同じね。これ、お神輿に乗って何をしているの?」

 華恵が無邪気に問いかける。私はほっと溜息を吐き出すと、写真を眺めつつ、記憶の引き出しを引っ張り出した。

「神稚児が決まった事を、村の皆に知らせて歩いているんだ。お神輿の上にいるのは、神主さんが試験で選んだ、その年で一番凄い子どもさ。勉強が出来て、足も速くて、顔がいい。そういう子が、神稚児になれる。選ばれた子はこうして綺麗に着飾り、村を練り歩きながら砕いた貝殻をばら撒くんだ」

「なんで かいがら をまくの?」

 首を傾げる華恵に、俺は曖昧な答えを返す事しか出来ない。

「さあ? キラキラして綺麗だからじゃないか?」

「ああ、そうかぁ!」

 すると、凪咲が小さく首を横に振り、華恵の手を引いた。

「たぶん、ちがうと思う」

 凪咲は自分の答えを補足する様に、言葉を続ける。

「貝がら って、宝もの だから。それを、みんなに分け与える ってことだと思う」

「宝物」

 凪咲の言葉を、俺は思わず繰り返した。

「貝殻が宝物だって? 一体それは何万年前の話だ」

「何万年も前じゃない。今の はなし」

「今? すると、君は食べるところのない貝殻なんか大切にしているのか」

 知らず、俺は凪咲に突っかかる様な言い方をしていた。はたと自分の過ちに気づいたのは、凪咲が華恵の手を振り払って駆け出してからだった。

 きつく眦を吊り上げた華恵が、俺をねめつけている。

「お父さんはデリカシーがないのね」

 華恵の一言が鋭い棘のように胸に刺さる。俺は居心地の悪さを誤魔化すように咳払いし、喉仏を引っ掻いた。

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