くちなし
白芯木 波音与
はじめに 冒険者 網代勘一郎の過去
学者というやつは始末が悪い。やれ、考古学だ、天文学だ、物理学だ、宇宙工学だ。なんだかんだ……。分野を問わず過去の先達が築き上げた功績に相乗りし、そうかと思えば、調査データを意図的に取捨選択するなど、あらゆる手を尽くし、どうにかして真実を都合の良い形へと捻じ曲げられないか。と、企てている。
いや、もっぱら真実のみを客観的に評価した学者の方が多いだろう。だが、そういった学者が注目を浴びることは大変に稀で、そもそも、研究テーマが大して人様のお役には立たない物であるとか、人様がすっかり先の事実を信じた後になってから、実はそうではなかった。と、やっぱり事実を捻じ曲げる為に用いられることがほとんどだ。
その在り様は、まるで不治の病に侵された熱患者。かき集めた他人の塵を食って生きる食人種。さもなければ、彼らの言う、高尚なる知的好奇心依存症患者に違いない。
中でも、民俗学者という奴は群を抜いている。
私『網代勘一郎(あじろ かんいちろう)』自身、民俗学の世界に身を投じて三十年経つので、まず間違いはないはずだ。研究対象に選ばれた人々の立場で言うなら、自分たちの深層たるアイデンティティへ土足で踏み込まれる感覚は、人目を避けて行う夜毎の自慰を肉親に凝視される以上に不愉快極まるものだろう。それを承知の上で研究しているのだから重症だ。
これまで、私は紛いなりにも研究成果を著書としてまとめ、誠にありがたい御縁の巡り合わせで幾つかは本として刊行していただいた。それなりに世間様へご恩返しをしてきたつもりである。それでも、私は民俗学者などという大仰な肩書を名乗ったことはないし、今後も名乗る予定はない。なぜなら、自分は常に民俗を旅する冒険者であると自負しているからだ。
ここで歴史を振り返り、指を折って数えてみる。果たして、何人が生粋の学者と呼べるだろうか。地中海文化を研究した者の内、いたずらに他国侵略を促した者が何人いるだろう。太陽の力を人間が扱えると勘違いさせ、人々の意識を大地から遠ざけてしまった者は、それ相応の責任を負ったであろうか。彼らの著書の中に、恣意的な解釈や個人の願い、あるいは民主、社会主義的な作意が働いていなかったと、一体誰が断言できるだろうか。人が群れを成す生き物である以上、周囲の人々含む環境が彼らに与えた影響は、決して小さくないはずだ。
私は先人たちのように、自らの経験を詳らかなレポートとして遺す勇気がない。
そこで、物語にしてはどうかと思い至った。物語ならば、私は冒頭に堂々とした言い訳ができる訳だ。即ち『この物語は空想です。実在する地域、人物、事件などとは全く関係がありません』と。
さて。ここまで読んでくださった読者諸賢に、まず感謝申し上げる。ありがとう。あなた達は既に察しの事と思うが、まさに今の私は偉大な先達を貶め、真実の一切をうやむやにし、自分達が犯した罪の重さを軽くしようと浅はかな抵抗を試みている、ロクデナシである。
事の始まりは今から四十六年ほど前、冬のはじめ頃だ。
私が暮らしていた『くちなし村』を『望月(もちづき)』という一人の民俗学者が訪れた。くちなし村は太平洋側に位置する小さな漁村。過疎地であったが、割に雪の少ない温暖な気候が魅力的で、潮風は温かく、避暑地ならぬ避寒地として一部の層に知られていた。
当時、都市大学校で教鞭を振るっていた望月という男は、三角錐をひっくり返したような細面に、目玉だけが浮かんでいる様な薄気味悪い老人だった。なんでも、くちなし村で執り行われる例大祭について知りたい。その為、一年間くちなし村に滞在し、皆々様と同じ様に暮らしたい。という訳だ。
七年に一度、年末の夜に執り行われる例大祭、通称『神稚児(かみちご)祭り』は、数え七歳を迎えた子ども達と神職者だけが参加できる特別な神事である。例大祭を主催する『泡島神社(あわしまじんじゃ)』の神主『泡足(あわたり)誠(まこと)』や、村の連中は望月を歓迎した。和暦が昭和から平成になって数年、子どもの数は減る一方。自分達の村が少しでも世間様に知られることがあれば、あわよくば、興味を持って移住したいなんて物好きが現れてくれたら。緩やかに滅びを待つだけの地域にとって、こんなに嬉しいことはないだろう。
望月はくちなしの『例大祭』を高く評価しているようだった。神主の残した邂逅記録には「七年に一度、子どもだけが参加できる神事を執り行っている地域は他に例を見ず、稀有な神事である。また、くちなしの村は北と東を聳え立つ山脈に覆われ、西は広く平地が続いている。南は海に面し、波は穏やかそのもの。東海道を傍にし、人の往来絶えない土地でありながら、これほど稀有な神事を絶やさずにいられるのはなぜなのか。その地域愛と情熱の秘訣を知り、世間に知ってもらう事は、まさに国民の心から既に失われつつある愛国の心を奮い立たせる起爆剤たり得る」と記されている。
くちなしの田舎村で暮らす一漁師であり、消防団員でもあった私は、望月を連れ立って村を回りながら、彼の話を半信半疑に聞いていた。
戦後生まれの私にとって、彼の言う愛国心はそれほど重要な物では無かったし、戦争で破壊された土地を競い合って奪う親世代の姿を見て、背筋に薄ら寒い物を感じてさえいたのだ。学者というやつが依存症患者なら、親は満腹感を知らない獣たちであり、同期は泡を食べて喜ぶ虫たちのようだったと言えるだろう。生きていれば、ちょうど自分の親と同じ年頃であろう望月という民俗学者に、好感を持てるはずがなかった。
そもそも、私は例大祭を研究させることに反対だったのだ。一体誰が好き好んで、血色の悪い爺を数え七歳になったばかりの子どもに紹介したいと思うだろう。何よりも、自分自身が大人になってから一度も観たことのない神事を、神主以外の、よそものが観られるというのが気に入らなかった。さもしくも、羨ましく、妬ましいというのが本音だと認める。
ところが、神がそんな私の心中を察したのか。それとも、悪魔的何かが働きかけたのか。例大祭は思わぬトラブルに見舞われ、中止となった。
神事に参加する子どもの内、最も重要な役割を担うはずだった『神稚児(かみちご)』が行方不明になったのだ。翌朝、捜索も虚しく、海で神稚児の水死体が見つかった。例大祭が中止になると、望月はすっかり興味を失い、都市の大学に引き揚げて行った。そして、その後、二度と くちなしを訪れることは無かった。当然、彼の研究成果たる論文は公表されることなく、くちなしの神事もまた、歴史の断片としてさえ残されることのない、一地方の習俗で終わるはずだったのだ。
しかし、例大祭が執り行われなかったその年、東北地方を中心に大震災が発生した。震源地からは遠く離れていたものの、くちなし村も被害をこうむり、多くの死傷者と行方不明者を出している。だが、被害の中心地でさえ復興を後回しにされたというのに、どうして末端地方の過疎村に十分な支援が施されるだろう。
突然村を襲った悪意の津波と例大祭の中止。私たちには、奇妙な因果が存在するかのように感じられた。
それから七年後だ。震災の傷跡が癒えつつある くちなし村に、再び民俗学者がやって来たのは。いや、学者というには実績がない、ただの学生だ。確か、卒業論文を書く為、約二週間の現地調査をしにやって来たのだったか。
望月の研究ノートを小脇に抱えたそいつは、なんというか、変な男だった。いや、確か、男であったと思う。
私が彼を想い不安な気持ちに駆られるのは、『跨道(こどう)美果(みはて)』という派手な名前のせいだけではない。名前もそうだが、平成が既に二十年も過ぎ、間もなく三十年を数えるというのに、裾の広い大正期時代的なモダンボーイファッションと朴の木(ホオノキ)製ステッキを愛用し、トップハットで隠した白髪交じりの髪を、襟足一房伸ばしている奇妙な形をしていたからだ。立てた襟の下から発せられる声はくぐもって小さく、低く震えていたが、深みのある女性的声色であったといわれればそのように聞こえ、笑えば少年染みた声が高く響いた。年頃は二十代後半になるというが、酒を飲まず、タバコは吸わず、夜遊び女遊びの類いにまるで無頓着。大きな目鼻に曲がり気のない鼻筋と、はっきりした顔立ちの割に薄く小さな唇が与える幼い印象も相まって、まるで十代のように思えたほどだ。
出会った時、私は四十を超え壮年に達していた。妻子もあり、望月の研究を引き継いできた学生と案内役という関係が、それ以上には発展しそうもないと考えていた。
それだけではない。私はあまりにも多くの事柄を、きっとこうに違いない。と、決めつけるようになっていたのだ。七年に一度行われる『例大祭』は天変地異を鎮める力がある。『神稚児』は奇跡を起こすのだ。私たちは神稚児の加護を得て生きているに違いない。と。
しかし、全ての謎が解け、襲い来る狂気を良き隣人として受け入れた今となっては、それらの決めつけ全てが洗練された儚い幻想であったと理解できる。
明かされた真実の前に空想と現実は境を失い、私たちは自らが産み落とした希望と悪意の化身を抱き上げ、その顔を見つめ、美しく無垢で邪悪な微笑みに恐怖するだろう。だが恐れることは無い。誰もがその顔に見覚えあるはずだ。じっくり鏡を見ればいい。
私は学者というやつが嫌いだ。だが、『跨道 美果』には敬意を抱いている。
こうして慣れ親しんだ網に代わって筆を握るようになったのは、私なりに、彼との約束を果たそうという試みに他ならない。その目的は明確だが、果たしてこの方法で良いのか、正しい道に通じているのか、絶えず手探りを続けている。もしかしたら、後世の人々がこれを見つけた時、むなしい私の自傷にすぎないと嘲笑うかもしれない。
だとしても、私は全てを書き遺さなければいけない。
これは『くちなし』に暮らす人々の間で行われていた、凄惨かつ、忌まわしい過去の記録であり、贖罪を果たしたいと願う、懺悔の全てなのだから。
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