日常は終わる
著弧くろわ
日常は終わる
朝日が差して、私は重たい瞼を開ける。
「もう朝か…」
横では、彼氏がわたしに背を向けて眠っている。
「……」
私と彼は、今日を持って彼氏彼女の関係を解消する。
決まったのは昨晩、彼の家に泊まり、お風呂上がりに2人でココアを飲んでいる時だった。
言い出したのは彼からだった。
私は理由を尋ねた。
「別にこれといったターニングポイントがあるわけじゃないんだ。ただ…」
日常を送りながら、ポツポツと雪のように不満やわだかまりが降り、それが積み重なり、いつの間にか大きな雪だるまが出来てしまっていたらしい。
彼はいつものように変な比喩で自身の想いを吐露してくれた。
ストレートな表現をオブラートで包んだ、彼なりの優しさだ。
優しくて、でも今はそれが辛かった。
私は黙って頷いた。
頷くことしかできなかった。
私が目覚めて朝の支度をしている間に、いつものように彼が起きる物音が聞こえた。
いつものように彼は薄着のまま洗面台で朝の支度をし、その間私はキッチンで2人分の食パンをトーストして、珈琲を淹れる為に水を沸かす。
「おはよ」
「ん、おはよ」
いつものように朝の挨拶を交わして、彼は冷蔵庫から取り出したベーコンと卵を2つずつフライパンに放る。
「よく眠れた?」
「うん…まあね」
いつものように会話を交わしてくる彼の言葉に、私もいつものように言葉を返す。
トーストが焼けた音が、2人の微かな気まずい空気を断ち切ると、私はトースターから2人分のトーストを取り出した。
そのタイミングで彼もベーコンエッグを2人分のお皿に盛り付ける。
「はい、半熟のほうね」
「…ありがとう」
そう言って何度目か分からない優しさと共に半熟のベーコンエッグの皿を享受した。
珈琲を淹れ、同じタイミングで席につく。
「それじゃあ食べますか、いただきます。」
「いただきます。」
私たちはいつものように朝食を摂り始めた。
「もう春だね」
「そうだね」
「そういえば、花粉は大丈夫?」
「そっちこそ」
「俺は花粉症じゃないよ」
「嘘、いつも春になるとくしゃみしてる癖に」
いつものようになんて事ない会話を交わしながら。
珈琲と焼けたトーストと焼けたベーコンと、それから彼の匂いがするいつもの空間で、私達はいつものようは朝を過ごしている。
朝食が終わり、いよいよこの家を去るときがきた。
君の日用品は俺が片付けるから、と彼が言った。
片付ける、か…。
と思いつつ、ありがたく了承した。
私が置いていた歯ブラシやタオル、化粧水やオイルは完全に彼の家専用のものだったから。
私は少しばかりの下着を小袋に入れ、それをバッグに詰め込んで玄関に向かった。
「じゃ、私いくね」
「送るよ」
「ううん、ここでいい」
「そっか、寒いから気をつけてね」
「君もね」
「あと花粉も」
「それもお互い様」
それじゃ、と私は“またね”と言いかけて寸前で踏みとどまった。
私たちにはもう“またね”はおそらくもう二度と無いのだ。
少し寂しいけど、全世界の別れたカップルは皆経験していることで、私も初めての経験ではない。
だから大丈夫。
そう思っていた矢先に、彼の言葉が聞こえた。
「じゃあ、またね」
私が驚いて顔を上げると、照れ笑いを浮かべた彼と目が合った。
「あ、ごめん、つい癖で…」
たったその一言で私の心は決壊した。
「大丈夫だよ!その、今までありがとう」
抑えろ。
「こちらこそ。今まで本当にありがとう。誰よりも幸せを願うよ。」
神様、どうか…
どうかこのひとときだけ、このひとときだけでいいから彼に何も悟らせない強い自分で居させてください。
「わたしも誰よりも君の幸せを願ってる。」
それじゃあね。
振り返らず扉を閉める。
ああ、私の日常は終わったんだ。
何でよりによって“またね”なんて言うのだろう。
その一言で、抑えていたはずの感情が心の中で暴れた。
決壊した私の心は涙となって頰を伝う。
何回も何回も、涙は止めどなく頬を伝う。
それでも私は振り返らず止まらず歩き続けた。
いつものように過ごしたあの朝はもう居ない。
いつものように過ごした彼ももう居ない。
それが分かっているから私は歩き続ける。
でも。
居ないはずなのに心には彼が鮮明に居続けている。
見える景色の全てに彼との思い出が残っている。
それが分かっているから私は涙を流し続ける。
しばらくの間歩き続けた後、ようやく私は後ろを振り返った。
彼のマンションはもうどこにも見えなかった。
彼との日常はもう見えなかった。
そんな日常に私は告げる。
「…ありがとう、大好き」
言い間違いでも“またね”を言えば良かったな。
そうして私の日常は終わりを告げた。
日常は終わる 著弧くろわ @maplelove
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