第2話 再会

「どうかされましたか? ずっとそこにいらっしゃいますが、誰かをお待ちですか? もう夜も遅いのでこちらの明るい方で待たれた方が……」


 声に全身が反応する。ぞわぞわと産毛がたち、寒かったのに身体に火が灯るような感覚。私が何よりも耳にしたかった声だった。


「保科先生……!」

 

 口から溢れた。

 振り返ると呼ばれた男性は目を大きく開いていた。

「……もしかして、佐倉、ですか?」

「はい……」

 保科先生はしばらく口を開かず、感慨深げに私を凝視した。

「先生……?」

「いや、すみません。女性は変わりますね。もう、中学生の佐倉とは別人だ。立派な大人の女性ですね。綺麗になりました」

 保科先生はどこか寂しそうに、そして眩しそうに私を見て言った。

 どこにでもいるショートボブの髪型。大学生になってから勉強した慣れないメイク。そんなごく普通の女子大生の私を綺麗になったと保科先生は言ってくれた。

 そして何より、私だとすぐに分かってくれた。

 私は鼻の奥がツンとするのを感じた。

「塾に用事でもあったのですか?」

 保科先生の言葉に、

「近くに来たので寄ったんです。懐かしくなって」

 と嘘をついた。

「せっかくだから、中に入っていきませんか? 自販機でいいならおごりますよ?」

「そう、ですね。入ります」

 保科先生はガラスのドアを私の前で開ける。私は促されるままに入った。

「貴女は確か……アップルティーが好きだったかな」

「正解です」

 覚えてくれていることに、思わず笑顔になった。保科先生は温かいアップルティーを私に渡した。そのペットボトルの外装を見て、酷く懐かしくなる。時々保科先生がおごってくれていたのも思い出した。

「懐かしいです」

「山かけテストの貼り出しも、ほら、昔のままですよ?」

「テストの多い学習塾でしたものね」

 笑いながら答えていたのに、ふと私は自分が泣いているのに気がついた。

 なんの涙なのか。保科先生に会えて嬉しいからなのか。もう塾には居場所がないことへの涙なのか。振られたことが意外にショックだったからなのか。自分でもわからなかった。

 そんな私に保科先生は理由は聞かずに、

「感動の再会で泣けてきちゃいましたか」

 とわざと明るく言った。



 甘いアップルティーを飲んで落ち着くと、私の涙も止まった。ふぅと息を吐く。保科先生はそんな私をただ黙って見守っていた。

「すみません。泣いたりして。少し落ち着きました」

 アップルティーのペットボトルを握りしめながら私は息を吐いた。

「そうですか」

 保科先生は淡く微笑む。

「保科先生に会えてよかったです」

「私も会えて嬉しかったですよ」

「そうなら寄ってよかった」

普通の会話。

 でも。

 ほらね。保科先生に会えても何も変わらない。中学生のあの頃より先生が遠くなったのを感じるだけだ。

「保科先生」

 私はもう一度先生の名を呼んだ。

「はい?」

 先生はまだ先生として答えてくれているのだろうか。


 私の中で何かが狂いだす。

私はこのまま保科先生の一生徒として埋もれていくのは嫌だ。私の胸で保科先生はまだ色濃く残っているのに。

「私、今日、振られたんです」

 私の口が勝手に言葉を紡いでいた。

「……」

 保科先生は目を見張って私を見た。私はそんな先生を挑むように見た。

 保科先生はなんて返してくるだろう。

「告白したんですか?」

 保科先生の言葉にちょっと私は笑ってしまった。

「違いますよ。付き合っていた彼に振られたんです」

「そう、ですか……」

 保科先生はなんて言っていいかわからないように黙った。

「でも、そんなにショックではないんです。薄情でしょうか?」

 保科先生はそう言った私を知らない人を見るような目で見た。私の胸がズキリと痛む。

「……貴女たちの世代はちょうど変化の著しいときなのでしょうね。もう、私の知っている佐倉とは別人のようです。恋もして、恋人もできて、そして別れも経験してしまうなんて」

 保科先生は複雑な顔で言葉を絞り出すように言った。

「私ももう大学二年生ですからね」

「そうですか。二年生になりましたか」

「先生は変わりませんね」

 私の言葉に保科先生は苦笑する。

「私はもう老いていくのみですよ」

 確かに30後半の先生は白髪が少し増えた気がする。でも、それ以外ちっとも変っていないように思えた。

「いいえ、先生は素敵なままです」

「佐倉がそんなことを言うのは珍しいですね。いつも私をけなしてばかりだったのに」

「子供だったんですよ」

 私の言葉に、保科先生は寂しそうに笑った。

「大学二年生というと、何歳になるのかな」

「私は浪人してるので、二十一です」

「そうか。もう、お酒も飲める年なんですね」

「はい。先生?」

「なんですか?」

「また会いに来てもいいですか?」

「もちろんですよ」

「先生とお酒、飲んでみたいです」

 私の言葉に保科先生はちょっと驚き、そして目を三日月のように細めた。

「以前の生徒と酒を酌み交わす。それはそれでよさそうですね」

 先生の言葉に思わず安堵のため息が出た。

「よかった! じゃあ、また来ます」

 時計は二十二時を回っていた。

「暗いから途中まで送りましょうか?」

「大丈夫です。バス停はすぐそこですので。先生、約束ですからね」

「はいはい」

 私は飛び跳ねたいような気持を抑えて、バス停までの夜道を歩いた。



***



「え? 馨、待って待って。どういうこと? 彼氏に振られて?」

 親友の加賀麻衣子が電話口で混乱している。

「そう。振られた」

「それで、なんで塾になんか行ってるの?」

 なんで。それは。

「……保科先生に会いたくなったから」

 はあ~と麻衣子が大きなため息をつくのが聞こえた。

「待って。もしかして、もしかしてだよ? まだ、保科先生のこと好きなわけじゃないよね? だって、馨、振られた彼と昨日まで付き合ってたわけでしょ?」

「うん……。それなんだけど」

「何?」

 麻衣子が怒ったような声で促す。

「私が高三で付き合ってた彼、麻衣子知ってるよね?」

「話、急に変わるわね。覚えてるよ。あの色の白い、眼鏡の……」

「そう」

「……まさか。まさか、だよね?」

 麻衣子の声が裏返る。

「……」

「って、保科先生に似てたから付き合ってたの?!」

「そう言ったら、麻衣子どう思う?」

 私の言葉に、麻衣子は一呼吸おいて、

「あんた、親友だけど、サイテーよ」

 と言った。

「やっぱり……そうだよね」

「ってことは、今回振られた彼も」

「うん。保科先生にどことなく似てた」

「はあ~」

 呆れた麻衣子の声が聞こえてくる。

「好きになろうとはしたのよ?」

「そういう問題なの? だって、馨、自分から告白したんじゃなかった?」

「うん。好きになれると思ったから……」

 今日何度目かの大きなため息が麻衣子からもれた。

「一般的には告白というものは好きな人にするもので、好きになっていない人にするもんじゃないわよ?」

 相変わらず麻衣子の言うことは直球で正しい。

「そうだよね。たぶん」

「たぶんって。そりゃ振られるでしょ」

「やっぱり?」

「それで?」

「それでって?」

「会えたの? 保科先生には」

「うん。会えた」

「満足した?」

 麻衣子の問いに、私は首をかしげる。

「満足って?」

「だって会いたくて行って、会えたんでしょ?」

「そうだけど……」

 私のあやふやな答えに麻衣子はちょっと黙った。そして。

「念のため聞くけど、保科先生は既婚者だって知ってたよね」

「うん」

「それでも好きなだけでいいって前は言ってたよね?」

「言ってたよ。だって中学の私に何ができるの?」

 麻衣子はまた黙った。

「……。今は大学生ね、馨」

「そうだね」

「もう、行くのよしなよ。変な関係にでもなったら大変」

 麻衣子の苛立たしげな声に、

「大丈夫だよ。保科先生は私のこと元生徒としてしか見てないし」

 とは答えてみたものの、

「答えになってないけど」

 と突っ込まれた。

「……ごめん。麻衣子。私、また会いに行くと思う。だって会いたいの」

 そう。会いたい。先生に会いたい。

「っ。知らないからね。馨が傷つくことになっても」

 麻衣子はあくまでも私の心配をしてくれていた。

「大丈夫だよ。ありがとう、麻衣子。大好き」

「ほんと、あんたって馬鹿よ。だから心配。私、忠告したからね」

「うん」

「じゃあ、また連絡して」

「うん」

 麻衣子は塾が一緒で、高校も一緒で、でも大学は県外に出たので直接会って話すのが難しくなった。それでもやっぱり肝心なことは麻衣子に相談してしまう。麻衣子の言うことはいつも正しい。でも、人間、正しいことだけできるわけではない。


 このときの私は、まだ既婚者を好きになるということが本当にはわかっていなかったのかもしれない。



 ***


 講義が頭に入ってこない。

 保科先生に次はいつ会いに行こうかばかりを考えてしまう。先日会ったばかりだからすぐに会いに行くのはおかしな気がする。でも保科先生が約束を忘れてしまうのは困る。

 そもそもあれは約束に入るのだろうか?

 しかも女の私から飲みに誘ってしまったけれど、軽い女と思われていないだろうか?

「おい」

 保科先生が比較的早くに仕事が終わる曜日はいつかな。

「おい」

 肩を叩かれ、私は無理やり現実に戻された。ふと周りを見渡すと、講義はすでに終わっていて生徒たちが講義室から出て行こうとしていた。

「馨」

 肩を先程叩いたのは元彼となった林拓だった。声をかけられなかったら存在すら忘れていたかもしれないことに少し罪悪感を覚える。そして改めて自分は拓のことがそれほど好きではなかったのだと思った。私は、本当に、酷い女だ。

「……拓。えっと、何?」

「……なんだ、元気そうじゃないか」

 そう言った拓の目の下にはくまができていた。

「……おかげさまで」

 その顔をあまり見ないようにして答える。

「俺の部屋に置いてる馨の私物、捨てといていいのか?」

「いいよ」

 私はなんの感情も入れずに即答した。

「……馨」

 何か言いたそうな拓の言葉を遮る。

「ごめん、私、次の講義別館だから行くね」

 プライドの高い拓にこんな顔をさせているのは私だ。それはとても申し訳ないし、悲しい。でも、だからこそもう私に関わらないほうが拓はいいのだ。

「本当に、今まで、ごめん。拓。私のこと恨んでいいから」

「馨……」

 私は本当に身勝手だ。自分で近づいたのに傷つけて、それすら分からず自分からは別れずに、拓に別れを言わせる形に追い込んでしまったのだから。

 やっぱり私は中学生の私ではなくなってしまった。あの頃の私は素直ではなかったけれど、穢れていなかった。自分の寂しさのために他の人を利用するなんてしなかった。

 保科先生のことを考えて舞い上がっていた私の心は急にしぼんだ。保科先生は私がこんな女だと知ったら、それでも元生徒として嫌わないでいてくれるだろうか。



 私は自己嫌悪に陥りながら数日過ごした。相変わらず私の中では拓を傷つけたことよりも、保科先生に嫌われないかどうかの方が心を占めていた。


 保科先生に嫌われたくない。

 でも、保科先生に会いたい。

 会いたい。

 

 矛盾にも似た気持ちが増していくばかりだった。


 そして私は塾の前を夜にうろつくというストーカー紛いのことを繰り返すようになった。三週間そうすることで、木曜日に比較的早くに塾が終わることが分かった。そして、生徒たちを送り出した後、保科先生が時々塾のドアの前で、人を探すようなそぶりをするのも見た。私は保科先生が私が訪れるのを待ってくれているのだろうかと淡い期待を抱いた。

 次の木曜日。私は生徒たちが帰ったのを見計らって、塾のドアを開けた。



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