あなたにおちる
天音 花香
第一章
第1話 あなたが忘れられない
「お前、一体誰を見てるの?」
セックスの最中に突然彼が冷めた声で言った。奇しくも前の彼にも言われた言葉だ。
誰を……?
私を見下ろす彼の顔がぼやけて違う男性の顔になる。
保科、先生……。
「その顔! もういい、帰れよ! 二度と来んな!」
私はぼんやりしたまま服を着て、彼の家を出た。振られたのはわかっていたけれど、何も感じなかった。
私の惹かれる人は決まって眼鏡の似合う人で、色白で、細身で、そして自信に満ちた人。そんなプライドの高い人が最後にこんな言葉を吐くのだから、きっと私は酷いことをしているんだと思う。同じように前に別れた彼にも。
無意味な恋愛をしていると自分でも思う。私が本当に欲しいのは彼ではないのだから。私がこれまで付き合ってきた二人の男性は、代わりでしかなかった。私の敬愛してやまない「保科先生」の。
***
気がつけば、中学生の時に通っていた塾、皇学館の前に立っていた。
当時とほとんど変わっていない。少し古びただけ。夜なのに煌々と点いている明かりが目立っていた。
塾の前の桜の木からはたくさんの淡い花びらが落ちて、地面に薄く積もっていた。
保科先生、いるかな。
想いを馳せると昨日のことのように蘇ってくる。
私はまだ子供で、保科先生への想いを告げることも示すことも出来なかった。他の生徒がファンクラブのようなものを作る中にも入らなかったし、表ではそれを見下して笑っていた。なんて馬鹿な子たち。そして、内心では思っていた。私も入れたらいいのに。
好きなのに素直になれない自分に毎日苛々していた。
でも、そんな私を保科先生は嫌ってはいなかった。むしろ気に入ってくれていたと思う。保科先生はよく私の頭をくしゃくしゃと撫でたし、構ってくれた。それは私が成績が良い生徒だったからに違いない。そしてもう一つ。私が物怖じせず、質問や不満を先生たちにぶつける変わり者だったからかもしれない。そういう意味で私はクラスでも目立つタイプだった。
どの先生にも気に入られるのが分かっている傲慢さが当時の私にはあって、好かれるのを当然と思っていた。だから、私がどんなにへそ曲がりな行動をしても、保科先生は私を嫌わないという自信さえあった。そのくせ私よりお気に入りの生徒ができるのは我慢ならず、保科先生が他の生徒を可愛がっているのを見るとちりちりと心の奥が黒く焦げるのを感じた。
本当に中学生の私は子供だった。保科先生が既婚者であることさえどうでもいいほど純粋で向こう見ずで諦めを知らない心を持っていた。
今の私にはとてもそんな勇気はない。
保科先生との繋がりは、私の出身高の合格発表の日の前日の電話。そして、当日、高校生の私と、中学生の合格発表に来た先生として再会するというものだけだった。
「元気ですか?」
「元気です」
「高校生活は楽しいですか?」
「それなりに」
二度交わされた短い同じ会話。
高校三年の時は、中学生の合格発表より先に卒業したので会えなかった。その代わり、電話があった。
「佐倉も高校卒業ですね」
「はい」
「大学は決まりましたか?」
「先生はがっかりするでしょうが、浪人が決まってます」
「そうですか……」
高校生の私はできる学生ではなく、平均より下の学生だった。私は浪人することを家族にも保科先生にも申し訳なく思っていた。
「高校は入って良かったと思えましたか? 貴女は確か、受験前、高校でやりたいことはない、目標もない、と言って泣いていた時期がありましたね」
私は保科先生の問いに驚いた。
「先生……。覚えていたんですか?」
「ええ。貴女は成績はいいけど、目の離せない不安定な生徒でしたからね」
「不安定……」
先生から見たらそんな感じだったのか。
「今の私はあの頃の私よりさらに自信がありません。……高校生活は私なりに頑張ったと思いますが」
「勉強以外でもいいんですよ。貴女が頑張ったというのなら、誰も貴女の高校生活を否定はできません。来年、受験頑張りなさい。貴女の目標のために」
私の頬を涙が伝った。
「はい……」
「時間があれば会いに来なさい。激励ぐらいはできますよ」
「ありがとうございます」
けれど、私は保科先生を訪れなかった。
予備校に通い、必死で勉強して、今の大学に入った後も。
保科先生からの電話もそれ以来なかった。
嫌われてはいない。
高校生のとき、皆んなが皆んな保科先生から電話をもらっているわけではなかったことを友人たちにそれとなく聞くことで確認した。
けれど。
もう成績がいいわけでもない。中学生の時のように目立つこともない、どこにでもいる大学二年生。今は先生の生徒でもない。だから。これからは分からない。先生を失望させるだけに違いない。
保科先生から嫌われたら生きていけない。
そう思うと、なかなか会いに行けなかった。もう、用無しだよって言われる気がして。
だから私は保科先生の面影を別の男性に見つけて、好きになろうとした。でも好きにまでなれずに、相手にそれを悟られ振られた。二度。
それなのに振られた今日、ここに来てしまったのは何故なのだろう。三階建ての塾を見上げて、私はふぅと息を吐いた。
私はもう中学生の私ではない。あんなに一途に先生を好きだった私ではない。きっと私の想いは年月と共に醜く歪んでいる。もはや、保科先生に憧れているのか、恋をしてるのか、執着しているのか、分からないほどに。
今さら保科先生と会ってどうするのだろう。
帰ろう。
そう思った時だった。
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