小さな犬
増田朋美
小さな犬
寒さも和らいできて、もう少ししたら春になるかなと思われる日であった。少しづつ梅が咲いたとかそういうニュースも聞かれるようになる。
それでも製鉄所では、いつもと変わらない、ご飯を食べたり、勉強したり、あるいは仕事をしたりするなどのいつもと変わらない日々が繰り返されていたのであるが。製鉄所の食堂に設置されている古ぼけたテレビが、今日は珍しく動いていた。つまらないドラマを放送していると思ったら、いきなり画面が変わって、緊張したアナウンサーが、
「臨時ニュースを申し上げます。今日静岡県富士市の、富士川橋付近の公演で、包丁を振り回していた女が発見されました。それを止めに入った刑事が、女に刺され死亡した模様です。それでは、現場から中継です、、、。」
と言っているのが聞こえてきた。
「はあ、また事件ですか。物騒で困りますね。富士市も、事件が多い街になってきましたね。」
水穂さんがそう言うと、利用者の一人が、怖がって泣き出したため、水穂さんはテレビを止めてそれ以上は見なかった。
すると、
「こんにちは。」
と製鉄所の正面玄関から蘭の声が聞こえてくる。それと同時に少しなまったような日本語で、
「こんにちは。」
と、女性の声も聞こえてきた。ということは夫婦揃って製鉄所を訪れたのか。何をしに来たのかと思ったら、
「実は、ちょっと相談があるんですよ。アリスには全く違うと言ったんですが、彼女は、言うことを聞いてくれないので、それでこさせてもらいました。」
と、蘭はそう言いながら食堂に入ってきた。
「はあ、相談って何のことですか?」
水穂さんがそうきくと、
「こんな手紙が、蘭に来たんです!もう頭にきました。破って捨てようかと思うけれど、弁護士の先生に証拠品として見せてくれと言われたらと思ってそれは、思いとどまりました。」
と、アリスは、そういって、手紙を一枚取り出した。ピンクの封筒に、大変上手な字で、伊能蘭先生と書いてある。
「はあこれがどうしたんだ。ちょっと読んでみてくれ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「えーと、こうですね。謹啓、寒さ少し和らぎ、桜の開花が待ち遠しい時期になりました。先日は、私を富士宮の温泉に連れて行ってくださり、ありがとうございました。その時に撮ってくださったお写真ができましたので、お送りいたします。先生には、背中に桜を入れていただいただけではなく、旅行にまで連れて行ってくださって、本当に感謝しかありません。私は、これからも、新しい居場所が見つかるまで、一人で過ごさなければなりません。だから、先生が連れて行ってくださったことが、本当に嬉しい思い出です。本当にありがとうございました。これを、私だと思って大事にしてください。かしこ、峯岸正代より。」
と、水穂さんが手紙の内容を読んだ。
「それに証拠の写真もここにあるわ!蘭、これはどういうこと!」
アリスは、激怒して、写真を一枚出した。写真に写っているのは白糸の滝の展望台で、そこに、一人の女性が着物を着て立っている。ピンクの色無地の着物を着て、金糸刺繍の入った袋帯を締めていた。
「だから確かに、峯岸さんにお願いされて、白糸の滝まで行ったのは事実ですが、不倫とか愛人とかそのようなことは全くありません。それに、彼女とは、食事して帰っただけだよ!」
蘭がそう言い返すと、
「まあ蘭にはそう見えたのかもしれないけれど、彼女にとっては、すごい大事な事件だったということがわかりますね。嬉しい思い出って言ってるんだから。」
と、水穂さんが言った。
「でもおかしいところがあるぞ。」
杉ちゃんが写真の女性を指差す。蘭がどこかと聞くと、
「ほら、この帯の結び方。これは二重太鼓だよな。色無地は、未婚者既婚者どちらでも着られる着物だが、二重太鼓という結び方は既婚者しかできない。ということはだよ、この女性は、結婚していると考えられる。まあ、今の時代、着物を一人で着られるという人はなかなかいないので、美容室かどっかで着せてもらったんだろ。蘭、お前さんはつまり、既婚者の女性と不倫したのか。」
と、杉ちゃんは言った。アリスは更に怒って、蘭にどういうことかと聞いた。
「待ってください。これを私だと思って大事にしてくださいとあります。ということはですよ。この女性は、この世を去るつもりで書いたんじゃないでしょうか。こんな丁寧な筆跡で書くというのも、尋常ではないところがありますし、よほどなにか思い入れがあって、蘭に手紙を送ったのではないでしょうか?」
水穂さんが怒っているアリスを抑えながら、そういった。確かに、そのような文句を出すというのは、ちょっと不自然なところがある。
「ということは遺書みたいな内容だったのかなあ?」
杉ちゃんがそう言うと、
「しかし、着物というのは大変目立つ服装でもありますし、それで不倫旅行に行くというのもなんだかすぐばれる可能性があるから、しないと思うんですけどね。」
水穂さんは、そういったのであった。
「ということは、やっぱりこの女性は死ぬつもりで蘭に手紙を送ったんだよ。自殺幇助は罪になるよ。だからなんとかしなければならん。」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「そんな、僕は、そんなつもりで彼女と白糸の滝へ行ったわけではないんだよ。ただ背中に桜吹雪を入れたお礼がしたいからって彼女がいうから一緒について行っただけなんだ。」
蘭がそう言うと、また製鉄所の玄関のドアが開いた。今度は男性の声で、こう聞こえてきた。
「失礼いたします。こちらに伊能蘭さんはいらっしゃいますか?近所のお宅で聞いた所、蘭さんは、こちらにいらっしゃると聞いたものですから。」
「はいはい、今取り込み中だもんでさ、どうぞ入ってくれ。」
杉ちゃんがそう言うと、男性はそうさせていただきますと言って入ってきた。
「お前さんは何者だ?」
と杉ちゃんが聞くと、
「決まってるじゃないですか。峯岸正代の夫で、峯岸裕と申します。正代のことで色々わからないことがありまして。それで調べさせていただいております。蘭さん、正代はなくなる一週間前に、あなたと白糸の滝へ行ったことはわかっていますよね。そこであなた何を言い含めたんですか?」
と峯岸裕さんは言った。蘭はこれはきちんと答えなければならないなと思い、
「いいえ、僕は自殺を促すようなことは何一つ言っておりません。それに、刺青師は自殺を促すより、いきてくれることを願って施術をするものです。もちろん彼女と、白糸の滝へはいきましたけれど、そこで彼女に自殺をするようになどと、そのようなことはお伝えしませんでした。」
ときっぱりと言った。
「そうですか。それならなぜ正代は、あんな事件を起こして、自殺までしてしまったのでしょうか。どうしてもわかりません。僕は、正代の訴えもちゃんと聞いてきたつもりだったのに。」
「ちょっとお待ち下さい。あんな事件とはどういうことですか?」
水穂さんがそうきくと、
「テレビを見ないんですか?」
と裕さんはいう。水穂さんはテレビは有害なので、あまり見ないようにしていると答えると、
「実は、富士川近くの公園で、包丁を振り回していた女が、刑事を刺殺したという事件が報道されていると思いますが、あれをしたのが、正代だったのです。刺殺したあと正代は、電車に飛び込んで自殺しました。似たような事件が、多発していることも知りませんか?先日は、天間で高齢の男性が刺され、犯人の女性は自殺したという事件がありましたよね。またそれより前には、富士駅近くのファストフード店で高齢の男性が刺殺されて、その犯人はやはり富士大橋から身を投げて自殺するという事件もありました。」
と、裕さんはそう話したのであった。
「すみません。こちらの施設ではテレビ番組を怖がって、精神不安定になる女性もいるものですから報道番組は見ないようにしているんです。そのような事件が発生していたことは全く気が付きませんでした。」
水穂さんがそう言うと、
「でも、本当に正代さんは自殺するつもりだったんだなあ。実はね、こんな手紙が蘭に送られてきてね。なんでもこの写真を私だと思って大事にしてくれとあったもんでね。」
と杉ちゃんが言った。裕さんは、なんで自分ではないんだと言う顔をする。
「まあ待て待て。怒るな怒るな。正代さんは、お前さんのことを心配してあえて自分の悩みを話さなかったのかもしれないぞ。家族とはそういうもんだぜ。だいたいな、家族に相談するよりも、家族に迷惑をかけちまうから、相談できないって悩む女性は多いよ。」
杉ちゃんは裕さんを慰めた。
「それに平穏な生活を優先するために、今は、他人に相談したり、専門家にコンサルテーションしてもらうことも気軽にできる世の中ですよ。なかなか家族につらい過去や秘密を話すということはしないですよね。」
水穂さんが、現状を話したのであった。
「そんなこと。俺は、正代になんでも話してたのに。上司のことだって、仕事のことだって。子どもがないから、何でも話し合える夫婦でいようねっていったのは、あいつの方だったんですよ。それなのになんで、こんなことに。」
裕さんは涙をこぼしていうのであった。
「正代は、精神疾患を患っていました。確かに、俺が仕事で忙しくて、結婚してもあまりかまってやれなかったのが行けなかったかもしれません。食事の支度や、洗濯なんかで忙殺する毎日でしたが、こんな無価値なことをずっと続けていくのかと怒鳴って、暴れる日もありました。そういうことを発作的に起こして、自分でも制御できなかったから、外へ出て働くのは無理だと、お医者さんには言われていましたので、俺は家にいるようにいったのですが、正代はそれが辛かったようです。」
「ええ、それは僕も知っています。正代さんに施術する間、彼女は何回もその言葉を口にしました。こんな無価値なことをずっと続けていくのか、周りの人達は、仕事に出られるのになんで私だけ、家にいなければならないのか。正代さんは病識がなかったようですね。自分は、大丈夫だと言い張っていましたから。僕は、彼女の話を、そうだねと言って聞いていましたが、でも、彼女が、働けない状態で有るのはよくわかりました。」
蘭が裕さんを励ますように言った。
「そうですね。精神疾患とはそういうものですね。本人が病気であることを自覚できない。だからトラブルも起きてしまうのですが。有名人でも多いですよね。絶世の美女と言われた女優もそうなりましたよね。」
水穂さんがそう言うと、裕さんは、どうしたら良かったんでしょうとがっくりと落ち込んだ。
「まああら捜しをしても仕方ない。きっと正代さんも辛かったんだと思うし、お前さんだって辛かったんだろう?結果として、まあ最悪の事態になっちゃったけど、それを教訓として他の人に伝えることはできるじゃないかよ。そう思っていきていきな。」
杉ちゃんがそう言うと、裕さんは、小さな声でそうですねと言った。
「でも、なんで正代が、事件を起こさなければならなかったのでしょうか。それだけがどうしてもわからないのです。正代は、殺人をするなんてそんなこと、俺の知ってる限りでは、そんな怖い人間ではありませんでした。なんで正代は、そうなってしまったのでしょう?」
「そうだねえ。」
裕さんの話に、杉ちゃんが言った。
「僕もそこが不思議です。それに、僕のところに刺青を依頼する人は、殺人を企てた人は一人もいませんでした。」
蘭は、杉ちゃんの言葉にそういったのであった。
「だからてっきり俺は、蘭さんが、なにか企てたのかと勝手に思っていましたが、そういうことではないんですね。それなら、誰が、正代に殺人をしろと言ったのでしょう?」
裕さんがそう言うと、
「裕さん。思い出せる範囲でいいです。この数年の間、正代さんになにか変化はありませんでしたか?」
と、水穂さんが聞いた。
「特に変わったことはありません。いつもと変わらず正代は辛いと言い続ける日々です。だから僕は、あまりに彼女が可哀想だったので、犬を買い与えました。」
「犬?」
杉ちゃんが言うと、
「ええ。とはいっても、あまり吠えたり、飼育に手がかかると正代が悪化するということを考えて、きつい性格の犬は選びたくないと言ったところ、狆という小さな犬がいいだろうと、犬屋さんから教えていただきました。」
と、裕さんは答える。
「はあ、犬を飼ってたのか。そうなると朝晩必ず散歩に連れて行くことになるよなあ。そこで誰かと話したり、友だちになったりすることもあるだろう。それで新たなところに、通うようなこともあるんじゃないか?」
杉ちゃんがそういった。
「そうですね。杉ちゃんの言うことも可能性として考えられますね。そのようなことは、正代さんは全く話さなかったんですね。」
水穂さんがそう言うと、裕さんは黙ってうなづいた。それと同時にアリスのスマートフォンがなる。
「ああごめんなさい。私、ニュースアプリ入れてるのよ。だから時々、こうして入ってきちゃうのよ。困るわねえ。」
アリスは、スマートフォンのボタンを押した。すると同時に、一人の女性が発言している声が聞こえてくる。
「この人、テレビでもよく出ている評論家ですね。」
水穂さんがそういった。確かにその人は、テレビや雑誌でも、よく出ている女性であった。なんだか今どきの夫婦関係についてを話しているようであった。
「つまり、私達は話さない夫婦というのが当たり前になってしまっているんです。家族は、つながって当たり前というか、それはある意味甘えということになる。そうではなくて、積極的に言葉で意思を表示しなければ、この時代を生き抜くことはできませんよ。」
「まあ、そういうことだなあ。」
杉ちゃんは、ニュースアプリから流れてくる声を聞いてそういうことを言った。
「そうですね。僕も聞いたことがあるんですが、少し突飛すぎている感じがあるなと思いました。だけど、なんとなくわかるなあと言う感じの言い回しで、まるで真実のように感じてしまうような気がします。テレビって怖いですね。映像に、信憑性があるように感じさせてしまうのがテレビですよ。」
水穂さんがそう言うと、アナウンサーが女性に、
「では多くの方にカウンセリングを続けてきて、増山先生が感じていることを教えてください。先生は、フリースペース増山を立ち上げて、これまでに、何十人もの女性をカウンセリングされてきて、なにか言いたいことはありますか?」
と聞いた。増山先生と呼ばれた女性は、
「ええ、何よりも言葉で表すのが大事だと思います。それができないで、雰囲気でわかるとか態度でわかるという時代はもう消え失せました。それよりも、きちんと意思を表示する。私はクライエントさんたちに表現をすることを覚えようと言っています。怒りは成文化しないでおいてしまったら、ときにひどいことを呼び起こしてしまうことになるからです。」
と言った。
「ああ増山恵梨香ってこの人だったんですね。」
水穂さんが画面を指さしていった。
「近頃大評判の方ですが、あたしは極端すぎると思うから、そういうところにあたしの担当の妊婦さんを、行かせないようにしているの。やっぱりね。悩み事は、隣のおばちゃんに相談するのが一番よ。」
アリスは外国人らしくそう言って、その画面を閉じてしまった。
「まあ、増山大先生。悩みを聞くことで、ご飯食わしてもらっていることを、忘れないで生活してくれよな。」
と杉ちゃんが言う。
それからまた数日たった。これで蘭の不倫騒動も話に出ることはなくなったのであるが、その日蘭がテレビのスイッチをいれると、また臨時ニュースが流れていた。
「臨時ニュースを申し上げます。本日、静岡県富士市久沢で、寿司を食べに来ていた高齢の男性が若い女に刺殺されました。女は自殺を図ろうとしましたが、寿司店主に取り押さえられその場で現行犯逮捕されました。直接の動機はまた明らかにしていませんが、女は持病の治療のため、相談事業に参加していたことがわかりました。家族の話によると、女は、少し前まで、増山恵梨香さんの事務所に通っていたと言うことです。」
そのようにアナウンサーが言っているのを聞いて蘭はピンときた。そして、先日教えてもらった、峯岸裕さんの番号に電話する。
「本当にそうなんでしょうか。増山恵梨香さんが、正代に殺人をするように指示を出したとおっしゃりたいんですか?」
裕さんは、蘭の顔を見てそんな事を言った。裕さんの足元に、小さな黒ぶちの犬が座っていた。
「ええ。こないだの発言を聞いて何となくそう思っただけなんですがね。直接言ったわけではないとしても、正代さんはそう思ってしまったのかもしれない。第一、正代さんの犯行ににた事件がこれまでも何回も起きていますし、増山恵梨香さんのところに通っていたのも共通している。」
「しかし、正代は、増山恵梨香さんのところにどうやって行ったんでしょうか?車の免許は持っていないし、バスだってさほど本数があるわけでもないですし。」
裕さんがそう言うと、小さな黒ぶちの犬が、その体を使って吠えた。まるで犬が人間の言葉を話せたら、なにか重大なことを言ってくれているようなそんな感じの表情だった。犬が見つめている先を蘭たちは見てみると、そこにはパソコンが置かれていた。
「そうか!今の時代ではオンラインというものがある。それでオンラインサークルというものへ参加することもできる。それで増山恵梨香さんと正代さんが接点を持ったかもしれません!」
蘭がそう言うと、小さな犬は更に大きな声で吠えたのであった。
「しかし、お代をどう払っていたのでしょうか?」
裕さんがそう言うと、
「色々あるじゃありませんか。クレジットばかりではない。今は、楽天ポイントとか、スイカとか、色々あるでしょう。」
蘭は、すぐに言った。裕さんは、恐る恐る正代さんが使っていたパソコンの電源を入れた。そこには確かに、オンライン会議をするためのアプリが入っていた。これでおそらく正代さんは、増山恵梨香と交流していたのだと思われた。
小さな犬はそれを証明するように吠え続けた。
小さな犬 増田朋美 @masubuchi4996
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