第5話:優しさの種
五月も終わりに近づき、植物園「花風」の緑は日に日に深さを増していた。朝もやの中、葉月はカフェ「花風亭」の準備を始めていた。
「今日のハーブティーは、ラベンダーとカモミールのブレンドにしましょうか」
葉月は温室で育てた新鮮なハーブを丁寧に摘み取りながら、蓮華に話しかける。
「ええ、いいですね。心が落ち着くブレンドですから」
蓮華は窓を開けながら答えた。爽やかな風が入ってきて、カフェ内にハーブの香りが広がる。
このカフェは、植物園の片隅にある古い洋館を改装したもの。木漏れ日が差し込む居心地の良い空間で、来園者の憩いの場として親しまれていた。
*
午前中、二人は交代でカフェと園内の管理を行っていた。メインガーデンでは、バラが次々と花開いていた。
「蓮華、このピエール・ド・ロンサールの香りがすごくいいわ」
葉月は淡いピンクの花に顔を近づけながら、蓮華を呼び寄せた。
「本当ですね。今年は特に香りが強いように感じます」
蓮華は葉月の横に立ち、一緒に香りを楽しむ。二人の間に、バラの甘い香りが漂う。
その時、カフェの方から呼び鈴が鳴った。
「私が行ってきます」
蓮華は葉月の頬に軽くキスをして、カフェへと向かった。
*
カフェに入ると、一人の若い女性が窓際の席に座っていた。制服姿から、近くの高校生だとわかる。
「いらっしゃいませ」
蓮華が声をかけると、女性は少し驚いたように顔を上げた。目が少し赤くなっているのが見て取れる。
「あ、すみません……ハーブティーを、お願いします」
その声は、少し震えているように聞こえた。
蓮華は即座に判断し、今朝ブレンドしたラベンダーとカモミールのティーを準備した。
「少しお時間よろしいでしょうか?」
ティーを置きながら、蓮華は優しく声をかけた。
女性は少し躊躇したあと、小さく頷いた。
「実は……」
彼女の名前は美咲といい、進路の悩みを抱えていた。植物の研究者になりたいという夢があるのに、両親は安定した職業に就いてほしいと考えているという。
その話を聞いていると、葉月が戻ってきた。状況を察した葉月は、さっと台所に立ち、手作りのラベンダークッキーを用意する。
木漏れ日の差し込むカフェの一角で、美咲は両手でハーブティーのカップを包み込むように持っていた。その指先が、わずかに震えている。
「私たちも、似たような経験があったのよ」
葉月は静かに椅子を引き、美咲の向かいに腰を下ろした。午後の陽射しが、彼女の横顔を優しく照らしている。
「私の両親も最初は、この道を選ぶことに反対だったの。娘が農学部に進むなんて理解できない、って」
葉月の声は柔らかく、遠い日の記憶を手繰り寄せるように響く。カップから立ち上る香りが、三人の間に漂っていた。
「でも、その時支えてくれたのが蓮華だったの」
葉月は隣に座る蓮華に、感謝の眼差しを向けた。
「私も同じ農学部で、同じように夢を追いかけていました」
蓮華は美咲の方に体を向け、当時を振り返る。
「周りからは『女性が農学なんてして何になるの?』って言われましたけど、それでも諦めなかった。葉月さんと二人で、図書館で勉強を重ねて、実験を繰り返して……」
蓮華の言葉に、美咲は少し背筋を伸ばした。
「どうやって、その……ご両親を説得したんですか?」
初めて美咲から、積極的な質問が投げかけられた。
「説得というより、私たちの本気の姿を見せ続けたのね」
葉月は窓の外の植物園を見やりながら答えた。
「大学での研究を重ねて、休みの日は植物園でアルバイトをして。小さな実績を、一つずつ積み重ねていったの」
「そうですね。特に大切だったのは、自分たちの夢を具体的な形にしていったこと」
蓮華は美咲の前に置かれたハーブティーを指さした。
「このハーブだって、私たちが一から育てたものなんです。土作りから始めて、何度も失敗して、それでも諦めずに……」
美咲は息を呑むように、カップの中のハーブを見つめた。
「この植物園を始める時も、周りからは反対されたわ。『そんな若い二人に管理なんてできるはずがない』って」
葉月の声には、懐かしさと誇りが混ざっていた。
「でも、自分の信じる道を諦めなければ、必ず道は開けるものよ。それは、私たちが身をもって証明できること」
蓮華は葉月の言葉に静かに頷き、美咲に向かって続けた。
「大切なのは、自分の心に正直になること。そして、その夢に向かって一歩ずつ進んでいくこと。たとえその一歩が、小さなものであっても」
美咲の瞳に、少しずつ光が戻ってきた。彼女はゆっくりとカップを持ち上げ、ハーブの香りを深く吸い込んだ。
「この香り……私も、いつか自分の手で育ててみたいです」
その言葉に、葉月と蓮華は優しく微笑みを交わした。窓の外では、バラの花が風に揺れている。その姿は、まるで美咲の新たな一歩を後押しするかのようだった。
木漏れ日は三人を優しく包み、ハーブの香りは部屋に満ちていた。その瞬間、カフェの小さな空間で、確かに何かが芽吹き始めていた。それは希望という名の、小さくも力強い芽吹きだった。
*
午後遅く、カフェの客足が落ち着いた頃、美咲は立ち上がった。
「本当にありがとうございました。また来てもいいですか?」
「もちろんよ。今度は温室も案内してあげるわ」
葉月の言葉に、美咲は初めて明るい笑顔を見せた。
見送りながら、蓮華は葉月の手を握る。
「私たちも、あの頃はこんな風だったでしょうか」
「ええ。でも、二人で乗り越えてきたから、今があるのよね」
夕暮れの光が、二人の横顔を優しく照らしていた。
*
その夜、月見亭で二人は今日のことを振り返っていた。
「あの子、きっと大丈夫よ」
葉月は蓮華の肩に寄り添いながら言った。
「ええ。あの瞳の輝きを見ていると、そう信じられます」
遠くでホトトギスの鳴き声が聞こえ始めた。初夏の夜の静けさの中で、その声が響き渡る。
「私たちにできることを、これからも……」
葉月の言葉を、蓮華は優しく受け止めた。
「ええ。この園が、誰かの心の支えになれたら、それが一番の幸せです」
二人は静かに寄り添いながら、夜空を見上げた。星々が、まるで二人の想いを祝福するように輝いている。
*
翌朝、葉月は早くに目を覚ました。窓の外では、初夏の鳥たちが賑やかに鳴いている。
「もう起きていたんですね」
蓮華が後ろから抱きしめてきた。
「ええ。なんだか、今日も素敵な一日になりそうな予感がするの」
葉月は振り返り、蓮華の唇に触れるだけの軽いキスをする。
窓の外では、バラの花が朝露に輝いている。新しい一日が、また始まろうとしていた。人々の悩みに寄り添い、希望の種を蒔いていく。それが、この植物園に託された使命なのかもしれない。
二人は手を取り合い、また新しい一日の準備を始めた。朝もやの中、植物園「花風」は、静かに目覚めていく。鳥のさえずりと、新緑のそよ風が、優しく二人を包み込んでいた。
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