君の声が聞こえなくなる前に

あきせ

第1話

第一章:夏のはじまり


朝の空気には、ほんの少しだけ夏の匂いが混じりはじめていた。

湿ったアスファルトに、風が揺らす木々の影。学校へ向かう道端の紫陽花は、雨に濡れたままゆっくりと色を変えている。


「……遅い」


スマホの画面を見て、私は小さくため息をついた。


時刻は7時18分。いつもなら、もう彼はここに来ているはずなのに。


「おはよう」


そう思った瞬間、背後から静かな声がした。振り向くと、そこには白いシャツの袖をまくった佐倉湊が立っていた。


「おそい。珍しいじゃん」

「ちょっと、寝坊した」


相変わらず無表情なままの返事。


彼はいつも静かで、感情をあまり表に出さない。何を考えているのかわかりにくいところがあるけれど、それでも私は彼のことをずっと見てきたから、ほんのわずかな違いには気づけるようになっていた。


「……なんか、疲れてる?」

「そんなことない」

「ふーん」


ごまかそうとしているとき、湊はいつも視線を逸らす。そのくせ、無理に口数を増やすこともしない。


今日もそうだった。


いつもと同じ朝。だけど、どこか引っかかる違和感。


私は気にしないふりをして、湊の隣を歩き出した。


第二章:揺れる距離


昼休み。


教室の窓際に座って、本を読んでいる湊をぼんやりと眺めていた。


「……また文庫本?」

「うん」

「よく飽きないね」

「読むたびに、新しい発見がある」

「ふーん」


興味ないようなふりをして、私は机に頬杖をつく。


彼の指が、静かにページをめくるたびに、細い紙の音が教室のざわめきに溶けていった。


私は知っている。


彼が本を読むのは、ただの趣味じゃない。

心のどこかで、「現実」と距離を置こうとしている。


幼い頃からずっとそうだった。


私は陸上部で、毎日全力で走って、汗をかいて、先のことなんて考えない。

だけど湊は違う。彼は何かを知っていて、私に隠している。


「ねえ」

「ん?」

「……花火大会、一緒に行かない?」


言葉が口をついて出たのは、ほんの気まぐれだった。


いや、違う。


きっと、私はわかっていたんだ。

このままでは、私たちの間にある「何か」が、手の届かないところへ行ってしまう気がしていた。


湊は、一瞬だけ目を見開いた。


「……花火?」

「そう。来週の金曜、駅前の広場でやるやつ」

「……」

「嫌ならいいけど?」


湊は数秒間、じっと考え込むような顔をした。


「……うん、行くよ」


静かにそう言った彼の表情を見て、私は少しだけ安心した。


第三章:花火の夜


夜の街は、人であふれていた。

浴衣を着た人、屋台の前で笑い合う子どもたち、恋人同士で手を繋ぐカップル。


そんな中、私は佐倉湊と並んで歩いていた。


「人、多いね」

「まあ、駅前だし」


普段と変わらない調子で返事をする湊。

だけど、彼の横顔をちらりと盗み見ると、どこか違和感があった。


「……湊?」

「ん?」

「今日、なんか変じゃない?」

「そう?」

「うん、なんか……」


言いかけた瞬間、遠くで大きな破裂音が響いた。


花火だった。


夜空に、大輪の光が咲く。

青、赤、金色――それは、ほんの数秒だけ輝いて、すぐに消えていく。


「あ……」


私は思わず見とれていた。


だけど――隣の湊は、違った。


彼は、花火ではなく私を見ていた。


「……湊?」


声をかけると、彼は少しだけ驚いたように目を伏せる。


「綺麗だね」

「うん、花火……」

「違う」


湊の声は、花火の音にかき消されそうなくらい、小さかった。


「……遥が、綺麗だと思った」


一瞬、時間が止まったような気がした。


私の胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。

嬉しいのに、どこか不安で――まるで、触れたら壊れてしまいそうな感覚。


だけど、私は何も言えなかった。


「……ねえ、遥」


湊は、夜空を見上げながらぽつりと言う。


「もしさ……俺がいなくなったら、どうする?」


その言葉が、ひどく遠いもののように思えた。


「は?」

「……いや、なんでもない」


湊は小さく笑うと、「帰ろうか」と歩き出した。


私は、その背中を見つめながら、なぜか心がざわついていた。


何か、言わなきゃいけない気がした。

何か、聞かなきゃいけない気がした。


だけど――私は、そのまま言葉を飲み込んだ。


夜空には、最後の花火が静かに消えていった。


第四章:突然の別れ


翌朝――。


目覚まし時計の音で目を覚ますと、部屋の中は静まり返っていた。


「……なんか、変な夢見たな」


昨夜の花火大会の余韻が、まだ胸の奥に残っている。

湊のあの言葉――「もし俺がいなくなったら、どうする?」

なんだったんだろう。


スマホを手に取って、湊にLINEを送る。


「おはよ。今日も学校でしょ?」


送信完了のマークがついたのを確認して、私は支度を始めた。


でも、湊は学校に来なかった。


1時間目が終わっても、2時間目が終わっても、教室の扉は開かない。

私は何度もスマホを見たけど、メッセージは未読のままだった。


(……まさか、また寝坊?)


そう思って、昼休みになったとき、私は湊の家へ向かうことにした。


彼の家は、私の家のすぐ隣。


インターホンを押すと、少し間をおいて湊の母親が出てきた。


「あら、遥ちゃん……」


その顔を見た瞬間、胸が冷たくなる。

瞳は真っ赤に腫れていて、涙の跡が残っていた。


「……どうしたの?」


尋ねた私の声は、ひどく震えていた。


「遥ちゃん……湊が……」


その言葉の続きは、聞かなくても分かった。


「昨日の夜……急に容態が悪化して……病院に運ばれたけど……」


目の前が、ぐにゃりと歪んだ。


耳鳴りがする。


喉が詰まって、息ができない。


「……嘘、でしょ」


何かの冗談であってほしい。

けど、湊の母親は、ただ泣きながら首を振った。


「もっと……もっと話してあげればよかったのに……!」


声を震わせる母親を前に、私は言葉を失った。


脳が、この現実を理解するのを拒否している。


(だって、昨日、一緒に花火を見たじゃん。)


(ちゃんと歩いてたじゃん。)


(……私のこと、綺麗だって言ったじゃん。)


なのに、なんで?


なんでいないの?


心臓を鷲掴みにされたような痛みが、胸の奥で暴れまわる。


涙が溢れた。


止められなかった。


「……会いたい」


喉の奥から、かすれた声が漏れた。


もう一度だけ、湊に会いたかった。


でも、それは叶わない願いだった。


第五章:残された手紙


湊がいなくなって、一週間が過ぎた。


最初の数日は、現実味がなさすぎて、ただ呆然としていた。

学校に行っても、教室に彼の姿はなく、誰もその話題には触れなかった。


だけど、何気なくスマホを開くたびに、湊とのLINEが目に入る。


最後のメッセージは、私が花火大会の翌朝に送った**「おはよ。今日も学校でしょ?」**


それはずっと未読のままだった。


もう、このまま二度と既読がつくことはない。


それを理解した瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚になった。


そんなある日、湊の母親が私を家に呼んだ。


「遥ちゃん、これ……湊が、ずっと書いてたの」


そう言って渡されたのは、一冊のノートだった。

表紙には、何も書かれていない。


だけど、それを開いた瞬間、私は息を呑んだ。


そこには、湊が書き残した私への言葉が詰まっていた。


「遥へ」


「この手紙を読んでいる頃、俺はもういないのかもしれないね。」


最初の一文を読んだだけで、涙がこぼれそうになった。


「ずっと隠していたけど、俺は生まれつき心臓が悪かった。

  いつまで生きられるか分からないって、小さい頃から言われてた。

  でも、遥には言えなかった。言いたくなかった。」


ページをめくる手が震える。


「もし言ったら、遥はきっと俺に気を遣うだろ?

  無理に優しくしてくれるかもしれない。

  でも、それは俺が望んだ関係じゃないんだ。

  俺はずっと、普通の『幼なじみ』でいたかった。

  だから、最後まで普通でいようって決めてた。」


花火大会の夜の、あの言葉が蘇る。


「もし俺がいなくなったら、どうする?」


あれは、冗談なんかじゃなかった。


湊は、本当に私に伝えようとしていた。

だけど、私は何も気づけなかった。


「でも、本当はずっと遥のことが好きだった。

  小学生の頃も、中学生の頃も、高校生になってからも。

  ずっと、ずっと、好きだった。

  だけど、俺には時間がなかったから、言えなかった。」


頬を伝う涙が、ノートの紙を濡らす。


「遥には、未来がある。

  だから、俺のことなんか忘れて、ちゃんと前を向いてほしい。

  俺の分まで、生きてほしい。」


文字が滲んで、読めなくなる。


だけど、最後の一文は、はっきりと見えた。


「もし来世があるなら、そのときは、ちゃんと隣にいてもいいかな。」


その瞬間、堪えていた涙が一気に溢れた。


「……バカじゃん、ほんとに……」


声にならない声が漏れる。


なんで、なんで言ってくれなかったの。

なんで、一人で抱え込んでたの。


私だって、ずっと好きだったのに。


なのに――。


もう、この気持ちを伝える相手は、どこにもいない。


いくら泣いても、叫んでも、もう湊の声を聞くことはできなかった。


最終章:君の声が聞こえなくなる前に


それから、季節が変わった。


夏が過ぎ、秋が来て、冬が訪れた。


湊がいなくなってからも、私は毎日を生きていた。

学校へ行って、授業を受けて、陸上部の練習をして、友達と笑って。


だけど、ふとした瞬間に、彼の存在がぽっかりと空いた空間が胸に広がる。


登校のとき、いつも隣にいた湊の姿はない。

窓際の席に座ると、彼が本を読んでいた姿を思い出す。

LINEを開くと、最後のメッセージが未読のまま、そこに残っている。


それでも、私は前に進まなきゃいけない。

「俺の分まで生きてほしい」


彼が残した言葉が、私の背中を押してくれている気がした。


高校を卒業して、私は東京の大学へ進学した。


湊と過ごした街を離れるのは、少し怖かった。

ここにいると、彼がまだどこかにいるような気がしていたから。


でも、変わらないままでいるのはもっと怖かった。


だから私は、新しい場所で、新しい生活を始めた。


春のある日。


大学の講義が終わり、帰り道を歩いていると、ふと空を見上げた。


そこには、青い空と、白い雲。

そして――ふいに、あの夏の夜を思い出した。


「綺麗だね」


あの日、花火を見ながら、湊がそう言った。


「違う。遥が、綺麗だと思った」


あの言葉の意味を、私は今でもずっと抱えている。


たぶん、これから先も、ずっと。


もう、湊の声は聞こえない。

だけど、あの夜の言葉だけは、消えずに残っている。


そっと目を閉じると、遠くで花火の音がした気がした。


――ねえ、湊。


来世があるなら、今度はちゃんと隣にいてね。

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