第2話 美しい、箱


 僕の名前は高橋簫大しょうだい。平凡な会社員で、毎日定時に出社し、無理なく仕事をこなしている。最近、少し変わったことがあった。それは、職場の近くにあるカフェで毎日見かける女性、綿貫清紗さやさのことだ。


 彼女は、いつも同じ席に座って、静かに本を読んでいる。碧がかった長い黒髪、大きなクリアな瞳が、どこか不思議で魅力的だった。カフェの静かな雰囲気の中で、彼女は一人、時間を気にすることなく読書に没頭している。その姿に、僕は毎日見惚れてしまっていた。


 最初に気づいたのは、ちょうど三週間前のことだ。仕事の合間に、軽くコーヒーを飲もうと思って寄ったカフェで、彼女を見かけた。その時はただの偶然だった。しかし、それ以降、彼女がいつもその席に座っているのを見ると、少しずつ気になるようになっていた。


 毎日のようにカフェに立ち寄るが、どうしても声をかけることができなかった。彼女は本を読んでいるか、時にはノートに何かを書き込んでいることが多く、話しかけるタイミングもなかったし、声をかけて変な人だと思われるのも怖かった。



 そんなある日、いつも通りカフェでコーヒーを注文し、窓際の席に座った。すると、いつもより少し慌てた様子の彼女が目に入った。彼女は何かを急いでいる様子で、バッグを肩にかけて席を立とうとしていたが、どうしたことか、何かを落としてしまった。静かな空間に響いた音を合図に、僕は反射的に立ち上がり、彼女の元へ駆け寄った。


「これ、落ちましたよ。」と、僕は彼女が落としたペンケースを拾い上げて渡した。


 清紗は驚いた顔をして、目を合わせると、少し赤くなりながら言った。「あ、ありがとうございます。」


「いえ、どういたしまして。」と、僕は少し恥ずかしくなって、視線をそらした。


「いつも、ここに座っていますよね?」と、少しだけ勇気を出して話しかけてみた。


「はい、毎日ここで読書しているんです。」と、彼女は静かに答えた。その声は柔らかくて、何だか心地よい響きがあった。


 その瞬間、心の中で何かが弾けた気がした。彼女の存在が、急に自分の世界の中心に浮かび上がったような感覚。それはまるで、長い間探し続けていたものにやっと出会えたような、そんな感覚だった。



 その後、何度かカフェで顔を合わせるうちに、少しずつ話すようになった。最初は彼女の読んでいる本について軽く話す程度だったが、だんだんとお互いの趣味や仕事のこと、そのうちにもっと生活に近いことまで話をするくらいに気を許していた。



「この本、面白いんですよ。哲学的な内容なんですが、すごく考えさせられるんです。」ある日、彼女はにこやかに本を差し出し、僕に勧めてきた。


「哲学ですか…難しそうだけど、面白そうですね。」と僕は言った。正直、あまり興味はなかったが、きらきら輝く彼女の目が魅力的でついそう答えていた。


「もしよければ、今度一緒に読んでみませんか?」と、彼女が少し照れくさそうに提案してきた。


 その提案を僕はあっさり受け入れ、二人一緒にカフェで本を読む日々が始まった。清紗は静かに本を読みながら、時折僕に感想を話してくれる。僕はその話を聞いて、何だか心が落ち着くのを感じた。彼女と一緒にいると、なんとなく心が穏やかになっていく。



 そして、ある日、カフェで読書をしていると、清紗が突然、少し緊張した様子で話し始めた。


「実は、これをあなたに渡したくて…」と言って、小さな箱をテーブルに置いた。


 その箱は、非常に繊細で、美しいデザインが施されていた。どうして彼女がそんなものを僕に?と、不思議に思いながらも、僕は箱を開けてみた。


 中には、見たこともないような美しいチョコレートが並んでいた。それは、まるで一つ一つがアートのように精緻に作られている。様々な色のチョコレートが、まるで宝石のように輝いていた。


「これ、何ですか?」と、僕は驚いて尋ねた。


 清紗は少し顔を赤らめながら答えた。「これは、私がずっと好きだった人がくれたチョコレートなんです。でも、私にはその人に渡す勇気がなくて…だから、あなたに渡すことにしたんです。」


 その言葉を聞いて、不思議に思いながらも僕の胸が高鳴った。その言葉をどこかで聞いたことがあるような気がした。彼女は、僕に対して特別な思いを抱いているのだろうか?でも、どうして僕に?僕が思うには、まだお互いをよく知ったわけではないし…。彼女の言葉を頭の中で反芻して、はたと気付いた。彼女の好きな人がくれたチョコレートを、彼女はその人に渡せなくて僕に渡したのだ。途端に残念な気持ちになった。


「でも、どうして僕に?」と、僕はさらに尋ねた。


 彼女は少し考え込みながら、ゆっくりと言った。「だって、あなたが毎日、私を見ていたから。私、あなたが気になるんです。」


 その言葉に、僕は思わず息を飲み込んだ。毎日毎日、いろんな思いを隠しながら彼女を見ていただけだった。上手く隠しているつもりだったのに、まさか彼女に伝わっていたとは。


「僕も、君が気になる。」と、僕は思わず告白してしまった。


 彼女は驚いたように目を見開いたが、その後、ゆっくりと微笑んだ。「二人、一緒ですね。」



 その瞬間、僕はまるで夢の中にいるかのような感覚に包まれた。ずっと気になっていた彼女が、自分に対して同じ気持ちを抱いていたなんて信じられなかった。心の中で、あのカフェで何度も交わした無言の時間が、急に意味を持ち始めた。



 その日から、僕たちはカフェで過ごす時間がもっと特別なものになった。何気ない会話の中で、少しずつお互いのことを知り合い、心が通い合うのを感じた。そして、何度も何度も話しながら、僕たちは好きという気持ちを育てていった。



 ある日、清紗が僕に言った。



「このチョコレート、本当はあなたに渡すためのものだったんです。」彼女は照れくさそうに笑った。


「でも、どうして僕に?」と、再び尋ねた。


「だって、あなたが前に私の好きなチョコレートだからとくれたことがあったから。ずっとその人に渡したかったのに勇気が出なくて。でも、今のあなたは天然だったから、そんなあなたに、運命のチョコレートを渡すのが、きっとぴったりだと思ったんです。」


「僕たちはどこかであったことがあるの?」


 彼女はにっこり笑って「どうでしょう?」と首をかしげた。


 僕はその言葉を聞いて、きっと前にも合ったことがあって、同じような言葉を聞いたことがあるのだと気づいた。それはきっと「運命」。何度も時間が巻き戻ったとしても、きっとここに戻ってくる。僕たちが出会ったのは、偶然ではなく、運命であり、必然だったのだ。



 僕たちはその後、二人で何度もカフェに行き、幸せな時間を過ごし続けた。運命のチョコレートが、僕たちの間に強い絆を作り、僕たちの未来は重なり人の道担ったことを確信した。


 最後に清紗が言った言葉が、僕の心に深く刻まれた。


「あなたが天然でよかった。本当に、そう思います。」


 僕はその言葉に心から答えた。「ありがとう、君と出会えて本当に幸せだ。」僕が天然かどうかはやっぱりわからなかったけれど。



 それから僕たちは、手を繋いでカフェを出た。運命に導かれて出会った二人のターニングポイントはチョコレート。この先もずっと二人で歩いて行く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ターニングポイント TUGUMI @UINA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ