書架に潜る

キトリ

書架に潜る

 私は日差しの差し込む図書館が嫌いだ。


 モダンなデザインだとか、写真映えだとか、色々と理由をつけて大きな窓のある図書館を作ろうとする風潮があるが、私はそれが許せない。この世の人たちはインクの褪色する一番の原因を知らないのだろうか。閲覧室だけならまだしも、書架の部屋にまで窓を設置するのは、書物への冒涜としか思えない。


 そもそも図書館は古代ギリシャ時代に書物を書き、保管する場所として生まれた。書物という形をとった知識を溜める場であって、利用する場ではなかった。こうして図書館の中で本を読めること自体、人類社会の進歩がもたらした貴重な恩恵だというのに。図書館の根幹をなす書物を破壊する一番の原因を自ら招き入れるとは何事か。カメラのフラッシュだってインクを褪色させる原因なのに、写真撮影を推奨するような宣伝をするのはなぜなのか。理解に苦しむ。


 だから私はこの空間が好きだ。3階建ての図書館の2階。専門書や専門誌のアーカイブが中心の、滅多に人が立ち寄らないこの部屋に窓は一つもない。LEDライトが控えめに照らす申し訳程度の閲覧スペース。人が立ち入らない限り照明がつかない書架。換気扇の音以外は聞こえない、ページを捲る音すら響くような静けさ。この書物を第一に考えた空間に来ると、私の心は高揚する。図書館の主は書物だ。読者は客に過ぎない。図書館の厳粛な雰囲気に支配されるのは快い。


 幸せな時間は唐突に終わりを告げた。


 こぽん、こぽん、と特徴的な足音が聞こえる。この靴音は、と思わず眉間に皺が寄る。


「ねーえ」


 想像通りの人物がドア枠からニュッと顔を覗かせていた。同学部の、真面目なのか不真面目なのかわからない、ふざけた奴。その革のブーツは足音がうるさいからやめた方が良いと何度も言っているのに、聞く耳を持たない。


「また潜ってるの?」

「潜ってるよ。いつでもね」

「いい本あった?」

「ここにある本はどれも面白いけど」

「いっつもそれ言うよね」

「私の邪魔する暇あったらさっさと課題やれば?どうせ3階窓際のボックス席を占領しているんでしょ」

「正解。さっきまで昼寝してた。良い感じに日差しが差し込んできて眠いのなんの……来る?」

 仏頂面の私とは対照的に、人懐こくニヤニヤと笑って奴は言った。

「行かない。用がないならどっか行って。読書の邪魔なの」

「用あるよ。聞いたじゃん、『いい本あった?』って」

「そんなこと言われても。ジャンルは?」

「労働経済学、賃金」

「331.6の『貨幣と賃労働の再定義―異端派マルクス経済学の系譜』は良かった。さほど古くない本だから3階にあってもおかしくないけど、読む人いないからここの書架にあるんだろうね」

「古くないって何年?」

「2010年」

「いや、十分古いって」

「21世紀じゃん」

「基準そこ?」


 まぁいいや、と奴は靴をこぽこぽ言わせながら私の横を通って、書架へと消える。パチッ、パチッと書架の右半分、奥行きの半分くらいまで明かりが付いたのを見届けて、私は読みかけの本に視線を落とした。


 視界の左側、一番手前の電灯が消えて暗くなった。


(まだ探してるの?)


 思わず私は視線を上げて、書架に目を向ける。一向に足音は聞こえない。分類番号も教えてあげているのに、どうしたらこんなに手間取るのだろうか。

 目の休憩がてら、頬杖をついてぼんやりと書架の奥を照らす光を眺めていると、やっとこぽこぽと特徴的な足音が聞こえた。視線を本へ戻す。十数秒後、再び視界の左側が明るくなった。


「めっちゃ探した……」

「どうしてそんなに探すのが下手なのかわからない」

「だってめっちゃ下にあったもん。一番下!屈まないと見えないって」

「で、なんで向かいに座るの?」

「ここで読む。3階に帰ってこの本開いたら寝る自信ある」

「パソコンとか財布、盗まれても知らないよ」

「財布はポケットの中出し、パソコンは誰も盗まないでしょ。未だWindows7だよ?」

「世間ならまだ20%くらいシェアあるけど」

「いやいや、大学生相手ならゼロでしょ」


 どうやら、3階に戻る気はないらしい。一応真面目に読む気はあるらしく、奴はニヤニヤ笑いを引っ込めてページを捲り始めた。こう振る舞われては仕方がない。私はこの空間の主ではない。主は書物だ。そして、書物は知識を求めるものを拒まない。


 私は一つ息を吐いて、本に目を落とした。静けさに換気扇の音と、もう一人分のページを捲る音が加わった。

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書架に潜る キトリ @kitori_quitterie

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