いつかお前の■として
目々
冬の酒、甘い泥、先輩の話
いなかったはずなんだけど、現にいるからどうしようもないっていうか、あるものをないって言ったらおかしいのは俺の方なんだよな、多分。
いや、水はいい。そこまで──そこまで酔ってない。まだ
今日の飲み会の
つうかお前もあれだね、こんなくだんない飲み会顔出してる暇もないだろうに。だってほら、彼女いるんだろ、それこそこういうイベントって大事……もう
何の話だったんですかってのは、何……ああ、さっき喋ったのか、俺。うわごとみたいなもんなのに、お前よく聞いてたね。
いや、大した話じゃないんだよ。つうかさ、兄の話。
そうか、お前はちゃんと見たり会ったりはしてないのか。この間の飲み会、帰りに駅に迎えに来てたから、五木先輩とかはそれなりに知ってんだよ。あの人もそういうの言いふらすタイプじゃないから……まあな、先輩の家族構成なんて知って何が楽しいんだったらその通りなんだけども。雑談にもたまに出るってのは俺何話したっけ、休みの日に炒飯作ってもらったら、晩の麻婆豆腐に使う用だった
そうだな、仲良いんだろうな、きっと。──何言ってんだって顔すんなよ、良い兄なんだとは思ってるよ。喧嘩とかした覚えもないし、お前に話したみたく何かと世話焼いてくれるし。たまに鬱陶しくはなるけども、まあ悪気はないんだろうしな。ちょっと遅くなると二十過ぎた男を駅まで迎えに来るあたりはどうなんだって思うけど、兄だからってことなんだろうってのも分かるよ。ほら、兄からすれば弟っていつまでも年下だろ? だからいつまでも心配だし手も出したくなるみたいな。そういう立場なんだろ、兄って。
──理屈は分かるんだよ。分かるんだけど、なんか噛み合わないっていうか、飲み込み切れないみたいなのがさ、ずっとあんの。
そういうさ、兄が、昔からの兄が、今までいなかったような気がするってのは、どういう道理なんだろうなって話だよ。
いなかったんですかったらそれはないんだよ。つうか直近だって俺の生活にばっちり存在してるし。だってお前も見ただろ、こないだの飲み会の帰り。今朝だって朝に玉子焼き作ってくれてさ、バレンタインだってチロルチョコ一つくれたんだよ。ガトーのなんか酒っぽいやつ。俺の証言しか出せない時点で、全然客観性とか担保できないやつだけど。
勿論、昔の記憶にもさ、いるんだよ。社宅に住んでたときに両親が出かけてて俺が寂しがって泣いてたらずっと隣で手握っててくれたとか、夏に部屋で寝たくなくって今のソファで転がってたらタオルケット掛け直してくれたとか、部屋で俺が音楽聞いてると入ってきて別に何するでもなく床に座り込んで本読んでたとか、そういうの。
──そうやって思い出せるのに、そのたびに、どうにも不安になるんだよ。何ていやいいのかな、雑な合成画像を見たときみたいな、この場面にこいつは馴染んでないみたいな、そういう感覚が一瞬、ある。勿論そんなわけはないのに、こんなにちゃんと思い出せるのに、どうにも夢の話でもしてるみたいな居心地の悪さがある。
生き別れ、隠し子、連れ子、養子か。そういう……なんだ、血の繋がりとか法的な続柄、が問題って感じもしないんだよな。親父は物心ついたくらいで死んでたけど、それ以外にその手のイベントがあったような覚えもないし。ただ、いきなり俺に兄が生えたみたいなことを痛感する瞬間がある、ってだけのことだな。分かんないだろ、俺も分かんない。だからこうやって──。
じゃあ何なんだ、って聞かれてもな。そこはさ、別に疑問はないんだよ。
兄だよ。それ以外のわけないだろ。あいつは俺の兄で、俺はあいつの弟。かたつむり枝を這い、俺はこうして酒を飲み、なべて世はこともなし、だ。そうだろ?
***
「お手洗いに行ってくる」
「何分だ」
「……五、いや十分だな、戻んなかったら呼びに来てくれ」
酔いの滲んだ声で言い置いて、先輩はふらふらと歩いていく。
お兄さんは先輩の背が階段を登り切るまでじっと見つめていた。
「ついていかないんですか」
「以前にやって叱られた。便所にまでついて回るな鬱陶しい、と」
心配はそうだが弟の意思も尊重しなければならないだろう、兄だからな──確かめるような呟きの後に、じろりと目玉がこちらを向いた。
俺は微妙に視線を逸らして、相槌と溜息の混じったような曖昧な声を出した。
酔い潰れた佐倉先輩に肩を貸しながら居酒屋を出た頃には十時を過ぎていた。
大方の連中はぐだぐだと解散し、
先輩は酔いが回っているのか大人しい。ただ黙って俺に縋ったまま、足だけを動かしている。
「なあ、悪いけど駅寄ってくれるか」
「いいですよ角曲がればすぐですし、っていうか一回どっかで座った方がいいですよ先輩、歩けてないし……今更ですけど、先輩別に電車乗らない人でしたよね?」
「そうだよ。ただ迎えが来てるから」
「お兄さん、呼んだんですか」
「いや、来るんだよ。そういうやつだから」
肩に縋った手に僅かに力が籠ったのは、酔いに足元がふらついたせいだと思うことにした。
角を曲がり、肌を撫でる冷やかな夜闇を進み、無機質な照明の灯が満ち零れる駅の入り口に辿り着く。確かこのあたりにベンチがあったはずだと周囲を見回す。
「思ったよりは早かった。けれども学生としては遅いお帰りだ、そうだな康貴?」
駅の入り口、大階段から少し離れた暗がりに置き去りにされた影法師のように立っていた男は、そう言って先輩の腕を当然のように掴んだ。
不審者か変質者か、咄嗟に大声を出そうとした。俺が酔いの回った喉を動かす前に、先輩が目を開けてくれた。
「兄さん」
擦れて掠れた頼りない声が、眠たげに融けた瞼の間から向けられた目が、酔いの合間に安堵の色を滲ませた。
男は鎌の刃の如くに目を細めて頷いてみせた。
かくして俺は初対面の『先輩の兄』を不審者扱いするという事態を回避することができた。そのまま先輩を
とりあえず共通の話題と言えば先輩の話しかない。頭に残る酔いをどうにか脇にどけて、無難な会話を掬い上げる。
「あのですね、俺サークルの後輩なんですけど、先輩から結構聞いてます。っていうか話によく出てきます、お兄さんのこと」
「どうせ悪口だろう」
「いや、そんなこともないですけど。適当に外出した雨の日に駅まで傘持ってきてくれたとか、課題で夜更かししてたらすげえ適切なタイミングでコーヒー淹れてくれたとか、そういうのを聞いてます。褒めてると思いますよ、内容的に」
「そうか」
短い返答。
しばらく間をおいてから、
「褒められているのか。それなら、兄らしい真似ができているのだな、俺は」
薄い唇の左端がゆっくり吊り上がった。笑っているのだ、と理解するのにどうしてか時間がかかった。雑談に対して浮かべるにはあまりに悍ましい表情のような気がしたが、初対面でそれを追求する勇気はなかった。
隣に並んだまま、横目でお兄さんを眺める。俺より頭一つほど背が高い以外は、至って無難な外見をしているように見える。服装も冬の定番コーデの平均値を出力したような平凡さで、人混みに紛れられたら見分けられないだろう。横顔を眺めても似たような印象だ。気温と夜のせいだろうか、肌は不健康なほどに白い。廃屋に置き去られた水槽に浮かぶ死魚の腹のような白さだ、とやけに忌まわしいイメージが浮かんだ。それ以外は特に良くも悪くもない、無難に整った造作に見える。
先輩に似ているかどうかはよく分からなかったが、駅の照明すら飲み込む冬の薄闇のせいだと思うことにした。そもそも顔の似ていない兄弟などいくらでもいる。
それでも違和感──というほど確かなものではないが、何かしら引っかかるものはあった。先輩に先んじて吹き込まれた胡乱な話、酔いの滲んだ声で語られたうわごとじみた語りを思い出す。居なかった兄がいる、素直に受け取れば虚言か妄想と判断するしかない。何らかの
「遅いだろう」
「は?」
突然に零された言葉の意味が読み込めず、俺は間抜けな声を上げる。
お兄さんは気にした様子もなく、淡々と言葉を続けた。
「時間だ。深夜というには少し早いが、宵などとうに過ぎている。若者ならば寝るには早いだろうが、人が遊び歩くには遅い時間だろうよ」
「遅い──あ、そうですね。確かに。寒いですし」
まだるっこしい言葉を聞き取って、どうにか返事をする。
お兄さんはこちらを見るどころか、頷きもしなかった。
「弟もそろそろ戻ってくる、か、呼びに行かなければならない。だから、君もそろそろ帰った方がいいだろう。家が近いとしても随分遅い、そんな時間まで後輩を引き止めるのはよくない、そうだな?」
「えーっと……まあ、そうすね。はい」
『もう遅いから先に帰っていい』──迂遠な言いようではあるが、つまりはそういうことだろう。見ず知らずの大学生の相手をするのが嫌になったのか、それともただの厚意なのかは判断ができないが、今ならば角を立てずに帰れるということだ。
じゃあこれで失礼しますと適当な挨拶を添えて、俺は頭を下げる。その一瞬で視界からお兄さんの顔が外れて、灰色の階段が映り込む。
頭を戻した途端、黒々とした目と視線がまともにぶつかった。
「ついでだ。というかあれだな、俺の弟を、佐倉康貴を先輩として大事にしてくれているようだし、弟も君を後輩として大事にしているようだ。それなら、俺も君には相応に報いるべきだ、兄として──違うかな、そうだろう、そういうものだな」
何やらつらつらと語って、先輩のお兄さんは目をぞろりと細める。
──逃げるべきだろうか。
ひどく単純な警告に、ぶつぶつと肌が粟立つのが分かる。けれども酔った足は躊躇するようにふらついて、まともに動いてくれなかった。
「
何でもない、それこそ天気の予想でも告げるように放られた一言だった。
「──は?」
「教えるだけなら俺にもできる。あれだな、多少の気まぐれだ。聞き流すも顧みるも君の自由だ、たかが一言、他人の物言いだからな」
この人には彼女がいることなど教えていない。ましてや鞄の中にプレゼントが入っていることも知るはずがない。先輩だって教えていた様子はなかったはずだ。
それに加えての不吉な言葉の意図はどういうことなのか。
──俺の子供を殺すだって?
当たり前だが俺はまだただの大学生で、彼女も婚約者でも何でもない恋人で、子供なんてものは影も形も心当たりも何一つない。
突然に投げつけられた不吉な言葉を、虚言だと一蹴するのが正解なのだと、先輩のお兄さんがとんでもない嘘つきの性悪なのだと判断して、全てをなかったことにするのが穏便な対応なのだとは分かっている。
それでも、夜を伝って流し込まれた不穏で禍々しい宣託を、それを語る声のざらついた甘さと冷やかさを、聞き逃すことなど俺にはできなかった。
「今のって未来予知とか予言とか、そういうのですか」
「まさか。──ああ、多少物言いが恣意的だったか。それを贈った人間が、そういう夢を見ている。見て、望んで、楽しんでいる。それを俺は知っているだけだ」
何で分かるのか、とは聞かなかった。誤魔化されるならまだしも、真っ当に説明などされたら耐えられないと思った。
「何で教えてくれたんです」
「弟に良くしてくれたからだ」
「……肩貸して送っただけですよ」
「それだけだ、それでも厚意には違いない。それなら俺も兄として返してやろう、そう思っただけだ」
お兄さんの首が一瞬がくりと折れたように傾いて、しなるように戻った。
「選ぶのは君だ、それならこの程度の贔屓もばちは当たるまい。弟のためだ、尚更だ。そうだろう?」
人工の灯が届き切らぬ薄闇、冷やかな夜闇越しにこちらを見つめたまま、兄は笑った。
白い顔に赤々と傷が開いたようだと思った。
「では俺は弟を迎えに行く。君も気を付けて帰りなさい。まっすぐ帰りなさい。夜は静かに眠るものだ」
甘やかな泥のような声が、滴るように夜に滲む。
そのまま兄は俺に背を向けて、駅の階段を登っていった。
いつかお前の■として 目々 @meme2mason
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます