神童(回想)

 邪人。

 それは、聖人イリスが切り離した負の感情が自我と肉体を獲得した存在だ。


 邪人は不遇な扱いに鬱憤を募らせ、イリスの命を奪おうとした。イリスがこれに抵抗したことで、〈聖邪大戦〉が始まる。


 両者はしばらく互角の戦いをくり広げていた。だが、〈憎悪〉を司るゲオルグの離反で均衡は崩れる。イリスが優勢となり、そのまま勝利を収めた。


 大戦後、七人の邪人は処刑される。だが、ゲオルグだけは生を全うすることが許された。伴侶を作り、子もなす。ゲオルグは最期に、人間と良い関係を保てという遺言を子孫に残した。子孫は、その遺言を守ろうとする。


 だが、人間側がゲオルグの子孫を拒絶した。邪人の血統を継いでいるというところで信じきることができなかったのだ。


 子孫たちは虐げられ、迫害され、暗く冷たい森で生活することを強いられる。


 なぜ、このような冷遇を受けなければならないのか。納得できず、鬱憤を募らせた結果、子孫たちが組織したのが叛逆の徒だった。叛逆の徒は虐殺と破壊を重ねる。


 そんななか、邪人の因子を色濃く受け継ぐ子が生まれた。その子は、ディートフリートという名がつけられた。



  †



 ディートフリートは、息を吸うように邪術が扱えた。物心がつく前からたくさんの人間を殺し、八歳になったころには冥王星級救済士を凌駕する実力を持っていた。

 それは、いつの記憶だったか定かではない。


「や、やめろっ、頼む、俺はなにも──」


 怯えている男がいた。彼は、ゲルデ公国の中枢を担う要人だ。


 尻を地面に接しながら、男は後退る。

 冷酷な眼差しを浴びせながら、ディートフリートは漆黒の瘴気を滲ませていった。瘴気は獅子の顎に変貌を遂げ、無慈悲に男を食らう。


「っぁ」


 声にならない悲鳴が洩れた。男は絶命し、鮮血を飛び散らせる。

 ディートフリートは顔色一つ変えず、頬に飛んだ血を拭った。


 殺人は些末なことだった。蝿や蛾のような害虫を駆除するのと変わりはない。

 その感性は、幼少期から施された教育によって形成された。


「──ディートフリート」


 背後から声を掛けられる。ディートフリートの父親が現れた。父親は艶のある黒髪を短く切り揃え、冷え切った灰を思わせるようなグレーの外套をまとっている。

 無残な屍と化した男の姿を確認し、父親は嬉しそうに笑った。


「さすが俺の息子だ。見事な手際だったぞ」


 父親は機嫌良さげに頭を撫でてくる。

 心が華やぐ。頭を撫でられている時間が、両親の笑顔を見ている時間が、ディートフリートは何よりも至福だった。


 ディートフリートが受けさせられた教育はこうだ。


 イリスの寵愛を受けた人間は、愚かで、傲慢で、無価値な生き物である。決して、世界で権勢を振るうべき生き物ではない。この世界は間違っている。邪人の血を受け継いでいる我々は、世界をあるべき姿に戻す義務がある。あるべき姿の世界に、人間はいない。人間は滅ぼす必要がある。


 ディートフリートは幼く、話を理解しきることはできなかった。

 だが、イリスの寵愛を受けた人間が悪であることは理解できた。その悪を殺せば、大人たちは喜んだ。大人たちが喜ぶなら、細かいことはどうでもよかった。



  †



 力を持って生まれたディートフリートは、期待を背負っていた。


 それは、父親や母親からだけではない。叛逆の徒すべての構成員からだ。

 ディートフリートはその期待に応えるため、人殺しに明け暮れた。衣服が血で汚れようが、死臭で鼻が千切れそうになろうが、大人が喜ぶ顔を見るため、使命を果たし続けた。


 だが、ある日のことだ。そんなディートフリートに迷いを抱かせる出来事が起こる。


 特定の根拠地を持たない叛逆の徒は村や街を転々としていた。

 移動中、ディートフリートは見晴らしのいい丘を発見する。叛逆の徒が休息を取っている間、ディートフリートは眺めを堪能しようと丘まで引き返していた。


 丘からの眺めは絶景だった。

 真っ先に視界へ飛びこんできたのは大空だ。


 藍で染めたような紺青の空が無限に広がり、千切れた綿のような雲が控えめに浮いている。そんな空を下から支えるように萌黄色の山脈がなだらかな曲線を描き、鷹や鷲が粒ほどの大きさで山から山へと飛び移っていた。


 ディートフリートは目を奪われ、しばらく固まる。


 そんなとき、ぐぎゅるる、と腹から音が響いた。身体が空腹を知らせる。昼食を取るためにも、そろそろ戻るべきか。名残惜しさを覚えつつも、丘を去ろうとした瞬間だった。

 ふいに声を掛けられる。


「おや、さっきの音はあなたかい?」


「……っ⁉」


 ぴくりと身を動かし、ディートフリートは振り返った。

 バスケットを肘に携えた老婆が立っている。


 ディートフリートは表情を曇らせた。

 顔を見られるな──それが、父親の言いつけだった。しかし、顔を見られてしまう。

 こんなところで人間と遭遇することはないと思っていたのだ。完全に油断していた。


 老婆は、ディートフリートをまじまじと見つめてくる。


「見ない顔だねえ、どこの村のもんだい?」

「──東のほうの村に住んでいる」


 一瞬だけ悩んでから、ディートフリートは嘘を言った。


 どうやら、叛逆の徒だと見抜かれたわけではないらしい。しかし、顔を見られたというこの状況は依然としてまずい。後々、大きな不都合を生む可能性がある。

 無価値で愚かな人間は、最終的に皆殺しにするのだ。


 ──ここで首を刎ねてしまおうか。

 ディートフリートが胸に殺意を秘めながら、背中に瘴気を滲ませたときだった。


 老婆がバスケットを置き、蓋を開ける。


「どれどれ、可哀想にねえ。ほら」


 バスケットから取り出されたパンが、ディートフリートに差し出された。


 きょとんとしながらも、パンを受け取ったディートフリートは困惑する。

 施しを受けたのか。だが、なぜ人間が他者に施しなど与える。人間は、愚かで、傲慢で、無価値な生き物ではなかったのか。


「どうして……」


 ディートフリートが疑問を溢すと、老婆はあっけらかんとした様子で答えた。


「このパンかい? 腹が減ってるんだろう? 子どもが遠慮することなんてないんだよ。さ、お食べなさい」


「……」


 ディートフリートは促されるまま、パンを口に運ぶ。


 パンは煤が付着したように黒ずんでいた。食感もボソボソし、口の水分が持っていかれる。素材も製造法も粗悪であることが窺えた。

 だが、なぜか咀嚼する口は動いた。美味と感じる瞬間さえあった。


 気付けば、老婆を殺す気は失せていた。

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