狂気か死か

白川津 中々

◾️

男が死んだ。


酒に溺れて働けなくなり、妻子に逃げられ、狂気に取り憑かれて自殺したのだ。死体が見つかった部屋はゴミと糞尿だらけで、その臭いが腐敗臭と混じり息ができない程空気は澱んでいた。発見した家主は「気を失いそうだった」と、大袈裟に話して回った。


死んだ男にはかつて職人と呼ばれていた時代もあった。真面目に働き、夫婦共に一所懸命に生きていて幸せな生活をしていたのだ。しかし、工場で得られる金は月に十五万円と少し。子供ができてからは貧苦に苛まれ、金を借りても返せなくなっていく。その不安を大量の酒で洗い流すようになるまでそう時間はかからず、少ない手取りはますます溶けるように消えてしまって、金のない寒さから逃れようとまた酒に溺れていった。どれだけ働いても金は増えず、自分ばかりが搾取され、いいように使われているという考えが浮かぶようになると彼から勤勉さが剥がれ落ちていき、腕利き職人の栄誉は剥奪された。「真面目に働いている奴は馬鹿さ。俺たちは経営者に食い物にされてるんだ。だから俺は真面目を辞めたんだよ。俺たちを使うだけ使って、そのくせ金払いをケチるような輩のためにちゃんと汗水を流す必要なんてないんだ」と、そう言って嘲笑するようになり、馬鹿高い声には憤怒、憎悪が混じって、聞く人をゾッとさせた。その頃にはもう、たががはずれて常軌がなくなり、いもしない幽霊に怯えたり、声が聞こえると訴えては隅で震えていたのである。


彼の葬式に訪れたのは二、三人だった。前妻も子供も参列しなかった。二、三人の内の一人が「狂って死ねてよかった」と棺に向かって呟いた。

その通りだ。こんな世界で正気でいる方が、死後の世界があるかは別にして、余程地獄である。自分と周りを正しく認識できなくなっていたのはある意味で幸せだったろう。死ぬまでかつての賞賛、家庭、生活の味を覚えていたら、あまりに惨めなのだから。


棺桶に話しかけた彼にも妻子がいて金はなかったが、死んだ男と違い酒は飲めず、不幸の洗い方を知らなかった。頭は常に正常だから、苦しみがそのまま心に染み込んでいく。粗末な食い物にありつくための人生に喜びはない。家庭は男を幸福にはできなかった。ボロを着て、狭い部屋で寝起きし、青い顔をして過ごす人間が屋根の下に何人いようとも彩が豊かになる事はないのだ。金を欲し、悦楽を欲し、得られない身の上を呪い、それを誰かのせいにする。貧困が人の考えを歪ませるのである。「ちくしょう、金があれば」そんな叫びが、この先にある真っ暗な道へ響いて震わせる。救いは、狂気か死か。いずれにしても、惨めさだけが、満ちていく。

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