巨匠より賜りしカヌレ

第21話 再始動

 夜久当眞は晴れて高校を卒業し、祖父といっしょに喫茶微睡を営むことになった。浅夜あさよの三時間だけという営業時間の縛りもなく、朝七時から十一時の間はモーニングサービスを始めることになった。

 右半身に麻痺のある祖父には無理のない範囲で働いてもらっているが、喫茶店に顔を出さなくなり、リハビリに通うばかりで老け込んでいた日々が嘘のように若返ったような気がする。片手でも軽やかにコーヒーを淹れていて、そればかりかてきぱきとクロックムッシュまで作っている。

 やはり、喫茶微睡はじいちゃんの居場所なのだ。

 SNSで喫茶微睡の再始動リニューアルオープンを告げると、かつての常連客達がどこからともなくやって来て、祖父と楽しげに談笑している。

「嬉しいな。昔のまんまだ。マスターもお変わりないですね」

「いえいえ。すべて孫のおかげです」

 祖父はずっと立ち仕事だと疲れてしまうので、カウンターの隅に丸椅子を置いて、休み休み働けるようにした。座ったままで、片手でゆったりコーヒーを淹れていてくれたらと思っていたのだけど、喫茶微睡の昔懐かしい空気を吸うや祖父がしゃっきりとして、丸椅子に腰かけてくたびれ切っているような姿はほとんど見かけない。

 じいちゃん、本気マジで若返ったな、というのが当眞の偽らざる感想だった。

 祖父のため、二階の自宅部分と一階の喫茶室を貫くホームエレベーターを設置しようかと密かに考えていたが、今のところは棚上げ状態となっている。

 その代わり、レジ脇にケーキを冷やす冷蔵ショーケースを設置した。

 焼き菓子を陳列するアンティークな風合いの木製ショーケースも併せて設置した。

 前回は銅賞ブロンズだったが、今回こそは金賞ゴールドを狙う、と意気込み、ダルメイン世界マーマレードアワードに再挑戦していた針谷一花はマーマレード作りに没頭した。無事に出品を終えると、「しばらくマーマレード開発から足を洗いたいです」とこぼして、げっそりしていた。

 コンテストの結果待ちの間、針谷一花は喫茶微睡のお菓子製造スタッフ兼カフェ店員となり、職場に徒歩圏のご近所に引っ越してきた。

「家賃がもったいないので、一部屋空いてないですか。最悪、犬小屋でもいいです」

 などと言って住み込みを希望したが、生活の折々で介護が必要な祖父の面倒を見させるわけにもいかないので、ひとまず住み込み希望は保留にしている。ただ、職場の合鍵は渡していて、キッチン等の設備は自由に使ってもらっていいことにした。

 どうにも針谷一花は深夜二時だか三時ぐらいがいちばん活動が活発になる時間帯らしく、街が寝静まった深夜にいそいそと仕込みを始め、モーニングが始まる前には木製ショーケースに焼き菓子が並び、冷蔵ショーケースにケーキが並ぶ、というのが一日のサイクルとなった。

 お菓子の製造を終えた針谷一花はしばらくカウンター席に突っ伏して眠り、モーニングの終わり頃に気だるげに目を覚まして、祖父お手製のクロックムッシュをもそもそと頬張り、熱いコーヒーを啜るのが日課となった。

 ランチタイムの繁忙期には一花にも給仕を手伝ってもらうが、客の入りがさほどでもない時は当眞だけでも切り盛りができるので、適度に休憩を挟んでもらっている。

 喫茶微睡のお菓子メニューは針谷一花に全権委任しているが、運が良ければ食べられる限定商品だったハリネズミのシュークリームが常時作られるようになり、形状フォルムの可愛らしさも相まって、おかげ様で好評を博している。

 最初はフィナンシェだけだった焼き菓子も、カヌレも焼くようになった。

 キツネ色の焼き目が美しく、金塊のような形をした長方形のフィナンシェは幾つでも食べられそうな軽さが魅力だが、真っ黒焦げの山脈のようなカヌレは表面はガリッとしているのに中はむっちりと柔らかく、バニラとラム酒の香りがふわっと広がって、癖になる美味しさがある。

 カヌレはひとつずつ神経を使って焼き上げるので、毎日の生産数は限られる。幾度もの試作を経て、フィナンシェ同様に個包装して売り出そうと思ったが、袋詰めするとカヌレ独特の皮のカリカリ感がなくなってしまった。そのため、無理に包装せず、当日焼き上がったものを木製ショーケースに陳列する形にした。

 一花はお客がカヌレを食べている姿をカウンター奥からこそこそ覗き、お客のリアクションに一喜一憂していた。お客の評価は上々であるし、当眞も合格点だと思っているが、一花はどこか自身なさげで、理想の味には程遠いという。

「外側はもっとカリッと、それでいて中はむっちりさせたいんですよね。食感のコントラストがいまいちだし、コーヒーに合うようなちょうどいい甘さにもしたいです」

「マーマレードの次はカヌレ?」

 一花は根が凝り性で、嵌まると、とことん試作を繰り返す。当眞からすれば十分に美味しいと思うが、本人的にはまだ満足できる出来ではないようだ。

「はい。ネットで調べると、いろいろとレシピが出てきますけど、もともとカヌレはフランスの郷土菓子で、その土地のみで知られる門外不出の存在だったみたいです。その昔はフランス人の誰に聞いても作り方を知らなくて、素材や製法はおろか、型さえも謎だったみたいです」

 カヌレの正式名称は、canneleカヌレ・ de bordeaux・ボルドー

 カヌレはフランス語で「溝のついた」という意味で、もともとフランスのボルドー女子修道院で生まれた郷土菓子であることから、見た目と地名を合わせた名になった、というのが定説らしい。

「針谷さん、凝ると、とことん凝るよね」

「もっと美味しく焼きたいです」

 向上心があるのは良いことなので、当眞は本日のカヌレを撮影し、ハッシュタグを付けてSNSに投稿した。

 #喫茶微睡

 #カヌレ焼いてみた

 #日々改良中

 #もっと美味しく焼きたい

 SNSの投稿を見たのかは定かではないが、ある日、前触れもなく、一花がかつて勤めていた洋菓子店のオーナーシェフが来店した。

「おう、元気でやってるか」

「……お、おかげさまで」

 オーナーシェフは気さくに話しかけているが、針谷一花は「息してるの?」と心配になるほどビビりまくっており、酸欠になったように顔を真っ赤にしていた。

「ここのケーキはぜんぶ針谷が作ってるのか」

「はい。まあ、いちおう……」

 立ち話をしながら、シェフは木製ショーケースに視線を寄越した。

「カヌレを一つ、もらおうか」

「は、はい。お持ち帰りですか」

「いや、今すぐ食べる」

 一花がおっかなびっくりカヌレを差し出した。

 その光景を隣で見ていた当眞は「いちいち脅え過ぎでは?」と思った。

 シェフはカヌレをしげしげ眺めると、半分ほど齧り、咀嚼しながら断面を見やった。

「俺の方が旨いな」

 大人げなくシェフが勝ち誇ったように言った。シェフは洋菓子界の巨匠と称される存在であるらしいが、小娘相手になにを張り合っているのだろうか。

「いや、それはまあ……」

 一花が消え入りそうな声で言った。

「俺のルセット、知りたいか」

「……へ?」

 ルセットとはなんだろう、と思い、当眞はカウンターの隅でスマホを操作し、語句の意味を手早く調べた。フランス語で「レシピ」のことをルセットと言うらしい。

「知りたいか、知りたくないか、どっちだ」

 シェフが捻じ込むように言い、一花は脅えながら頷いた。

「し、知りたいです。ぜひ」

「メモれ」

 シェフはまるで呪文かのようにカヌレの配合を諳んじた。

「牛乳1リットル、バニラビーンズ1本、卵黄4個、全卵1個、薄力粉140グラム、強力粉110グラム、グラニュー糖500グラム、ラム酒90グラム、焦がしバター50グラム、蜂蜜は適量。これでカヌレ25個分だ」

 一花は伝票の裏に必死に書き取った。

「あの、こんなの教えてもらっていいのでしょうか」

 一花が恐縮しながら尋ねると、シェフがぶっきらぼうに言った。

「門外不出ってわけじゃない。計量、ちゃんとやれよ」

 そのまま立ち去りかけて、ついでのように言った。

「クリスマスとか人手が足りないからよ。手伝いに来てくれてもいいんだぜ」

 巨匠からレシピを賜った一花はしばらく呆けたように立ち尽くしていた。

「レシピ、教えてもらっちゃいました」

 計量をミスし、「うちの店を潰す気か」と怒鳴った一花になぜレシピを教えたのか。

 怒鳴り散らしたことへの謝罪のつもりだったのか。

 罵倒ついでに追い出した元従業へのアフターフォローだったのか。

 もっと美味しく焼きたい、という心意気に胸を打たれたのか。

 それとも、もっと精進しろよ、という激励だったのか。

 巨匠の真意は知る由もないが、一花は宝物を貰ったように嬉しそうにしていた。

 カヌレに限らず、郷土菓子というものははっきりとしたルセットが残されていないことが多いから、自分の頭で考えなくてはいけない部分が多くあるという。試行錯誤の連続になるが、そのぶん、作り上げていく喜びや、出来上がった時の感激は大きいだろう。

 ルセットがあったところで、試行錯誤がなくなるわけではない。

 それぞれの菓子が守り継がれてきた土地の香りを探り、育まれてきた人々の生活や文化に思いを馳せれば、想像はどこまでも広がっていく。

 お菓子作りの道は果てなく続く修羅の道である。

 そんな修羅の道を笑いながら歩もうとする針谷一花に尊敬の念を覚えた。

「良かったですね、針谷さん」

「わたし、今日は眠れないかもしれません」

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喫茶微睡(まどろみ)  神原月人 @k_tsukihito

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