喫茶微睡(まどろみ) 

神原月人

ハリネズミのシュークリーム

第1話 眠れない夜、起きれない朝

 眠れない夜があるならば、起きれない朝があってもいいと思う。

 本日もまた寝坊なり。

 セットしていたはずの目覚まし時計はけたたましく騒ぎ立てることもなく、時を忘れたように沈黙している。

 およそ記憶はないが、おおむね見当はつく。

 朝を告げる無粋な目覚まし時計に腹を立て、壁に向かってぶん投げたのだろう。

 狭いワンルームの片隅に、無残な残骸が横たわっていた。

 罪のない目覚まし時計をまたもぶっ壊してしまった。

 寝惚けついでの乱心とはいえ、躊躇のない破壊屋クラッシャーぶりに戦慄する。

 いったいどれほどの遅刻であるのか確認するのも恐ろしいが、おそるおそるカーテンをめくると、夕暮れの太陽が沈んでいくのがちらりと見えた。とうの昔に朝は去り、どうやら午前中でさえないらしい。

 遅刻などもっての外の朝番のはずが、すっかり夕方まで寝こけていたなんで、どんな言い訳をもってしても挽回することは不可能だろう。

 さながら気分は、処刑台に引き立てられていく罪人のそれだった。

「……終わった」

 針谷一花はがっくりと肩を落とし、呆けたように天井を眺めた。

 製菓長シェフにぶっ殺される、と思うと、胃がぐるぐるして吐きそうになる。

 ――今月、何度目の遅刻だ。

 ――見習いアプランティの分際で、いい度胸だな。

 なんとかかんとか製菓専門学校を卒業し、憧れの洋菓子店に就職したはいいものの、朝起きれない怠惰な見習いなど、きっとどこへ行っても通用するまい。

 今思えば、一念発起して製菓専門学校を卒業できたのが夢のようだ。

 製菓専門学校の同級生には、中学校を卒業したばかりの十六、十七歳の子もいれば、五十代や六十代の年齢の人もいた。朝起きれないせいで高校を半ばで脱落ドロップアウトした一花は、何をするでもなく日がな一日家にいた。何もすることがなく、朽ちていくだけの人生がこれから何年も続くのかと思うと、うっすら恐ろしくなった。

 さりとて、やりたいことなど何もない。

 無為に流れるばかりの日々が、はっきりと色付いた日のことはよく覚えている。

「ねえ、一花。面白いケーキを買ってきたんだけど……」

 母が買ってきたハリネズミのシュークリームに思わず目を奪われた。

 ハリネズミの形状フォルムに仕立てられたシュー生地。

 砕いたアーモンドで表現されたトゲトゲの針。

 背中にかかった雪化粧のような粉糖。

 ぴょこんと伸びる三日月状のしっぽ。

 ちょっぴり上目遣いの愛らしいつぶらな瞳。

 いつまでもうっとりと眺めていたいと思える、およそ完璧な外見であった。

「なに、これ。かわいい……」

「デパートの催事で買ってきたの。パパが帰ってくる前に食べちゃいましょう。一花は今日も起きれなかったのか。あんまり甘やかすな、ってうるさいのよ」

 すぐに食べてしまうのが勿体なくて、一花がアーモンドでできたトゲトゲの針をつんつんしていると、シュークリームを白皿に乗せた母があっさり食べようとした。

「ああっ……」

 思わず、変な声が出た。

「一花も早く食べちゃいなさい」

 夕飯の支度を始めた母に急かされ、仕方なくハリネズミのシューを頭から齧った。

 見た目も最高ならば、中身もまた最高であった。

 ふっくらとしたシュー生地は絶妙な柔らかさで、中のクリームには飴がけキャラメリゼされたアーモンドプラリネが入っていた。優しいクリームの味にざくざくした食感が加わり、トゲトゲの針も小意気なアクセントになっていた。

「うわあっ……」

 食べた感想はまったく言葉にならず、ただ感嘆の声だけが漏れた。

 シュークリームなど、ありふれた洋菓子に過ぎない。

 それでも、なぜだか涙が溢れて止まらなかった。

「どうしたの、一花?」

 心配そうな母を前にして、一花は絞り出すような声で言った。

「わたし、これ、作ってみたい……」

「えっ?」

 たんなる思いつきのような言葉であったはずなのに、母は真に受けたようだ。

 空になったケーキ箱をゴミ箱の奥底に突っ込み、娘を甘やかした証拠を隠滅していた母がこちらを見ずに言った。

「じゃあ、製菓学校にでも通ってみる?」

「……うん」

 イエスともノーともつかない曖昧な頷きを返すと、母が興奮気味に言った。

「そう! じゃあ、気が変わらないうちに手続きをしちゃいましょう」

 母はそう宣言するなり、電光石火の早業で自宅沿線にあった製菓専門学校への入学手続きを進めてしまった。あまりにも強引な展開には辟易したが、母の気持ちは分からないでもない。

 ろくに高校も行かず、のそのそと夕方近くに起き出してくる怠惰な生活をしている一花を持て余していた母からすれば、途中で脱落する可能性は限りなく高いにせよ、ひとまず製菓専門学校にでもなんにでもぶち込んでおいた方がなんぼかマシというものだろう。

 ――針谷さんのお嬢さん、学校に通っていないらしいわよ。

 ――ああ、どうりで。引きこもりってやつ? 親も大変ね。

 隣人の間で、そんな噂話がなされていただろう。

 引きこもりというのは、とにかく世間体が悪い。

 学校で虐められたわけでもない。

 特別に成績が悪いわけでもない。

 ただ、朝まともに起きることができない。

 それだけの理由で不登校になった一花は、昭和世代の父の言葉を借りれば「甘えている」と見なされてしまう。まったくもってその通りであるから、反論の余地もない。

 一花を製菓学校に通わせるのはどうかしら、という折り入っての相談を受けた父の反応は案の定、芳しくなかった。

「製菓学校? 幾らかかるんだ? どうせ途中で辞めるに決まっている」

 毎日の労働に疲れ切った父の顔には、「甘えるな。これ以上、俺を働かせる気か。無駄な浪費はするな」と大書されていた。

 父は製菓専門学校に通うための費用を肩代わりする条件を付けた。

「とりあえず学費は払ってやる。ただし、途中で辞めたら全額返済してもらうからな」

 べつに洋菓子職人になりたかったわけではないが、途中で辞めてしまったら借金を背負うことになるから、意地で卒業した。

 洋菓子作りの座学と技術を学んだ日々はなかなかに楽しかった。

 製菓専門学校に通っている間、不思議と朝起きることができた。

 無事に卒業まで漕ぎつけ、地元で半年ほど働いたが、秋口には名のある洋菓子店に就職することもできた。十二月のクリスマス、二月のバレンタインデーがある冬場は洋菓子店の繁忙期である。とにかく人手が足りないので、一花もわりとあっさり採用が決まった。

 職場は自宅から遠かったので、一人暮らしも始めた。

 もしかして、わたしもまともになったのかもしれない。

 そんな風な勘違いまでするほど、自信も芽生えていた。

 しかし、いざ洋菓子店で働いてみると、なけなしの自信は粉々に砕け散った。

 無数のパティシエが働く厨房はまさしく戦場で、下働きの一花に仕事を懇切丁寧に教えてくれるような生易しい職場ではなかった。

 ――そんなこともできねーのかよ。

 ――ちっ、使えねーな。

 そんな言葉を投げつけられるたび、心臓がバクバクした。

 焼き菓子部門のシェフシェフ・ド・パルティに計量を任された際、規定よりも卵白が足りないまま計量してしまった。計量ミスのせいで通常の商品よりも甘みを感じやすいものになってしまい、製菓長の判断で全部廃棄となってしまった。

 ――うちの店を潰す気?

 製菓長にそんな嫌味を言われ、それっきり果物のカットや計量の仕事が回ってくることはなくなった。先輩パティシエの邪魔にならないよう、ひたすら片付けと洗い物ばかりしていたが、ふと「わたしはなんのために働いているのだろう」と思うようになった。

 職場で怒られないこと、それが仕事の上での最優先事項となった。

 疲労困憊のまま一人暮らしの部屋に帰っても、夜に安眠できなくなった。

 次第に朝も起きられなくなって、たびたび遅刻するようになった。

 もう無理だ。

 そろそろ潮時だろう。

 スマートフォンを持つ手がぶるぶると震えるが、営業が終わってしまう前にお詫びの連絡を入れねばならない。

「あー、あの……、針谷ですが……」

 電話に出たのは製菓長だったのだろう。

 声で分かった。

 怒りを通り越して、もはや感情の混じらない静かな声だった。

「君さあ、この業界を舐めてるでしょう」

 断定的な物言いに肝が冷えた。

 いっそ絶望的な気分だったが、最後通牒の言葉がいつまでも脳裏に残った。

「君、もう明日から来なくていいよ」

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