銀世界

平山芙蓉

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 身を打つ冷たい雪風は、寧ろ今の僕には心地良いくらいで、それを苦しみと形容するのは、とても罰当たりに思えた。ずっと前には、いつか祖母に連れられて行った飛行機の滑走路のように、長く真っ直ぐな道が伸びている。先は夜闇に飲まれて、全く見えない。足元は積雪のせいで、歩きにくいことこの上ない。おまけに、気休め程度に設けられた街灯は、互いに仲の悪い奴らくらいの間隔で設置されている。


 普段なら、こんな道は大したことはない。歩き難いとか、凍えてしまうとか、たったその程度の問題。慣れっこと表したとしても、過言ではない。


 だけど、そうじゃないのは、僕が妹のキナを背負い、歩いているからだ。


 それも、自力で立てないほどの高熱に魘された、彼女を。


 僕たちの住んでいる家から、町までは車で十分ほど離れた場所にある。距離にしてみれば、特別遠くはない。ただ、郊外と呼べるその辺りに暮らしているのは、僕たちだけだ。それでもライフラインは安定しているし、不自由もない。何より、面倒な柵がここまで届いてこないことが、気に入っていた。


 今日この瞬間までは。


 雪すら蒸発しそうなくらい熱い体温が、服越しに伝わってくる。キナの吐息は緩やかに、しかしながら、その一呼吸に生命のほとんどを費やしているような、荒々しさがあった。残された時間は、そう多くない。そんな分かりきったことを、お節介で卑しい教師みたく、僕の感覚は丁寧に教えてくれる。


 けれど、進んでも、進んでも、町の灯りすら見えてこない。そんな現状に、僕はもどかしさを覚えてしまう。


 もちろん、医者に電話はかけた。


 でも、返ってきた答は案の定、積雪で車を向かわせられないとのことだった。何とかならないか、と食い下がりもしたが、返事は変わらなかった。その態度がかえって気に障ったのか、彼は『この大雪の中を行くなら、出張費と診察費を合わせて、十万はかかる』なんて馬鹿げた金額を吹っかけ、取り合ってくれなかった。二人だけで最低限の暮らしをしている僕たちに、そんなお金がないと、知ってのことだろう。それから、どうしても診てほしいなら、町まで来いと電話を切られ、今に至る。


 本心を包み隠さずに吐露するのなら、関わりたくはない。あんな意地悪な奴に頼るなんて、もっての外だ。それは、以前から考えていたけれど、ここで暮らすようになってからより強く考えるようになった。町の人間――、いや、この世に生きる人間のほとんどが、僕にとっては、黴の生えた蜜柑のように、近寄りたくない存在なのだ。


 きっと、彼らだって僕に対して、似たような評価を下しているのだろうけれど。


 だからと言って、家族を見殺しにして良い理由にはならない。除雪作業を待っていれば、いつになるか分からないし、その間にキナが死ねば、祖母に合わせる顔がない。


 そう。


 彼女との付き合いは、五年になる。


 親戚の中で、厭世家として通っていた祖母が亡くなる直前のこと。祖母は突然、恩を受けた人の子どもだ、なんて滅茶苦茶な理由で、どこかからキナを引き取って来た。当時の彼女は、まだ中学に上がり立ての少女で、垢っぽさが抜けない子だった。親戚一同は、その歳で養子なんて連れて来て、世話をできるのか、という不安があったらしい。その不安は当然の如く的中し、キナが親戚に加わってから、数ヶ月も経たない間に、祖母は亡くなった。


 形式上、一族の子どもという扱いではあったが、誰が引き取るかの議論が重ねられた。それもそうだろう。祖母は自分が死んだ後、キナをどうするのか、遺言状に一切書いておらず、その出自だって最後まで明らかにしていない。唯一書かれていたのは、遺産と持ち家はキナへ相続するとのことだけだ。


 莫大とは言えないが、それなりの大金を譲り受けるほどの子ども。


 それは益々、彼女の不気味さを助長させただけで、引き取り手は現れなかった。


 僕はとにかく、そんな扱いを受ける彼女が、不憫で堪らなかった。その上、子どもを引き取ることを、損得で考える一族に嫌気が差した。


 ただ、その判断を完全に悪と切り棄てられない自分もいた。手垢の付いた価値観を拝借するなら、人間だって元を辿れば動物なのだ。自分の家族を養わせるとか、守るとか、そういう部分を天秤にかけて生きているし、得体の知れない存在に不快感を覚えることも仕方がない。だけど……、それが本人を孤独に追い込んだりする理由にはならないのも確かだ。


 だから、僕はキナを引き取ることにした。親戚側としても、独り身のお前なら、とのことで、ほとんど二つ返事で了承を得られた。まあ、それだけじゃなくて、恐らくは僕も鼻摘まみにされていたきらいがあるし、厄介者同士で纏まるなら、その方が楽だと判断されたのだろうけれど。


 そうして、僕はキナが祖母から引き継いだ家で、ひっそりと暮らすようになり、彼女を妹として迎えることにした。


 雪はより多くなり、凍てつく向かい風は、僕を押し戻さんばかりに強く吹く。目を開けているのも精一杯で、僕はキナに気も回せずに、後ろを振り向いてしまう。自分の辿ってきたはずの足跡は、既にほとんど掻き消されていた。街灯の光も、先ほど通り過ぎたものの分しか見えなくて、まるでそこから向こう側は、洞窟にでもなってしまったかのように真っ暗だ。幸いにも一本道だから良いものの、これが曲がりくねった道だったら、すぐに自分がどちらから来たのか、判然としなくなっていたに違いない。


 しばらくの間、雪風は吹き荒んだ後、唐突にぴたりと収まった。好奇心があちこちに散った子どものように、気紛れな風だ。それはそれでありがたいのだけれど、雪の降る量と空気の冷たさまでマシになったわけではない。依然として状況は最悪だ。


 僕は町の方へ再び足を向いて、キナを背負い直す。目を凝らしてみたけれど、人工的な光は、街灯のモノだけしかない。その事実は、僕の心をしならせるのに充分、効果的だった。


「キナ、もうちょっとだからな……」


 まだ熱の下がらないままの彼女へ、僕はあからさまな気休めを言う。


 いや、違う。


 これは僕自身に対しての、麻薬じみたそれらしい慰めに過ぎない。


 そうやって、途方もない現実から誤魔化してやらなければ、キナのことを諦めてしまいそうだった。


 そう。


 人間は、生きるためならば、何であっても簡単に切り棄てられる。たとえそれが、大切な存在であったとしても。『自分とは違う』というレッテルに気付いた瞬間、コンピュータのように利害を叩き出してしまう。しかも、もっともらしい逃げ口を並べて。家族や恋人でも、容易く突き放せる。


 二十年近くの人生で、そんな場面を目の当たりにしたのは、一度や二度ではない。特に、彼女の処遇を巡る親戚たちの諍いでは、その醜悪さを、嫌になるほど実感した。


 それ故に、僕は怖い。彼らの血が混じっているという、どう逆立ちしたって覆せない事実が、存在しているからだ。


 つまり、僕だってキナのことを……。


 頭の中に蔓を伸ばす弱気を、断ち切るように歯を食いしばる。たとえ、そんな馬鹿げた事実が僕と、人類の本性だったとしても、屈して良いわけがない。


 挫けないよう、そう言い聞かせながら、僕は雪道を歩く。一歩一歩、ゆっくりでも良い。着実に進んではいるのだ。止まらずに町へと辿り着けば、何とかなる……。


 何とか?


 本当に、なるのだろうか?


 隙間風のように通り抜けてくる疑問が、僕を嘲笑う。


 病院へ着いて、扉を叩いたとしても、意地悪なあの医者のことだから、因縁を付けて、診てくれないかもしれない。そもそも、僕がそこへ辿り着くまでに、生きている保障だってない。まだ三分の一も歩いていないのに、腕はすっかり、千切れかけのビニールのようにぼろぼろだし、雪に埋まった足は、歩けていることが不思議なくらい、感覚が失せている。口は風のせいで乾燥しており、鉄っぽい味でいっぱいだ。おまけに、防寒具を着込んだ胴体も冷えきっており、内臓はほとんど仕事をしていないように思えた。


 既に満身創痍と表するべき僕が、病院はおろか、町に足を踏み入れるイメージでさえ、一切湧かない。


 このままでは、本当に僕の方が先にくたばってしまう。


 ……駄目だ。


 そんな弱さで、自分を決めつけてはいけない。僕が倒れたら、キナはここで一緒に死ぬことになる。


 そうだ、死ぬんだ。


 僕も彼女も。


 赤子の手を捻るように、あっさりと。


 世界はいつも、当然のようにその危険を孕んでいる。移ろう季節と自然の間隙に。空を突き刺さんばかりに伸びる、文明たちに。社会という逃げ出せない檻の中での、視線の奥底に。


 少し目を凝らすだけで、そいつの影が見えるはずなのに、僕たちは気付かないフリをして生活を回している。でも、気付けないくらいに愚鈍でなければ、死を避けられない。


 飛び回る羽虫の群れみたいな弱気が、僕の脚を更に重くした。


 何を間違えていたのだろう?


 僕がもっと、他人に愛想良くしていれば、助けてもらえただろうか?


 僕がもっと、慎重に判断をしていれば、危ない橋を渡らずに済んだのだろうか?


 それとも、もっと根本的に……、こんな責任と向き合わなければならない日が来るかもしれなくて、対処できるかを考えるべきだったのだろうか?


 分からない。


 分からないから、苦しい。


 どれも過ちという答のように、聞こえてくる。


 それと同じくらい、否定してしまいたい気持ちも存在していた。


 そうなんだ。


 ここで全てを投げ出してしまえば、ずっと楽になれる。


 キナを引き取った理由なんて、ほとんど一時の同情に等しい。後先なんて、ちっとも考えていなかった。ならば、今だってこんな苦しみに耐えられないから、諦めてしまっても良いのではないか? そもそも、血を分け合った仲ですらないのだ。わざわざ責任を果たす義理は、ほとんどないだろう。仮に、ここで彼女が死んだとしても、誰も僕を責められないはずだ。僕はできる限り、思いつくことをしたのだから。少なくとも、僕が名乗り出なければ、キナを放っておくつもりだった親族に、どうこう文句を付けられる筋合いはない。


 天候のせいでも、身体のせいでもなく、半ば自然と、歩みを止めた。


 結んでいたリボンが、解けるみたいに腕から力が抜ける。


 背後から重い音が聞こえると、僕の肉体は『羽根のように』なんて月並みな表現でしか表せないほど、軽くなった。


 振り返ると、街灯の微かな光の差す雪道に、仰向けで倒れるキナの姿が、ぼんやりと見えた。彼女が立ち上がる気配はない。それだけの力が、あるようには思えない。息は弱く、薄く開かれた瞼から覗く瞳は、生気が夜に溶けてしまったかのように、真っ黒だった。どう頑張っても僕の目に映るその姿は、人間というよりも、それの形に近い無機物のようにしか捉えられない。


 僕の心は、剥がれてしまった。


 このまま放置すれば、もう時機に彼女は息を引き取るだろう。医者とか専門家でもない、素人だとしても、予感は犇々と伝わってくる。


 キナの網膜に、僕はどう映っているのだろう?


 自分を見棄てようとしている、目の前の人間のことが。


 身勝手な不安に、後ろ髪を引かれて、僕はすぐに立ち去ることができなかった。関係ない。僕は彼女との生活を諦めたんだ。だけど……、そんな風に容易く受け入れるなんて、間違えているのではないか……。押し寄せてくる躊躇は渦を巻き、肌に触れる雪と共に後悔へと溶けて、益々、僕の身体を重くしていく。


「ごめんな、キナ……」


 何の役にも立たない、無意味な言葉を綴り、僕は膝から崩れ落ちてしまう。


 選択はできないままだった。


 雪と風と、頼りない光が、そんな僕を詰るように、五感の隅を突いてくる。


 僕は白いモノに覆われつつある、彼女の頬へ、よく磨かれた鏡へ触れる時みたく恐る恐る、手を伸ばした。


 熱は、下がりかけている。


 ……違う。


 もう肉体が、抗うことを止めてしまったんだ。


 気付いた途端に、


 夜の影がより一層、深みを増したような錯覚に陥る。


 憎悪だった。


 紛れもなく、そう呼称するに相応しい感情。


 それが、僕の心を突き上げている。


 だけど、その矛先が誰に向かっているのかは、分からない。


 意地悪な医者に対しての気もする。


 何もかもが薄弱な自分自身に向かっている気もした。


 あるいは、行く手を阻む雪風に対してなのかもしれない。


 お門違いとは分かっているけれど、高熱を出したキナに対してだって、充分に有り得る。


 どれにこの感情を注ぐことが正しいのか、僕にはさっぱり分からない。


 でも、一つだけ――、


 この世界に存在する全てが憎いということだけは、


 火を見るよりも明確だった。


 厳しいだけで、伸ばした手すら拒むこの世界が、


 憎くて、仕方ない。


 彼女の頬から手を離し、立ち上がる。


 仰いだ視界は揺らいでいて、


 熱こそあったけれど、


 流れるには値しない。


 それから、僕はただずっと、その姿勢で立ち尽くした。


 澱んだ夜が、朝へと漂い出すまで、変わらずに。


 夜明けはグレーで、朝陽はなかった。


 積雪は、僕の腰の膝の辺りまで迫りつつあって、


 脚は多分、この先二度と使えないと本能で理解できた。


 風が回り始める。


 その鋭い痛みに、人工的な機械の音が混じっていた。


 ようやく、除雪作業が始まったのだろう。


 けれど、もう遅かった。


 キナは雪の下で、


 とっくに息を引き取っている。


 身体から力を抜いて、雪の上に寝転がった。


 微睡が、意識を濁していく。


 再び夜の気配が忍び寄る冷たさの中で、


 彼女の声が聞こえた。


『ありがとう』と。


 都合の良い、幻聴が。

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銀世界 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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