第一節 ニィナグゴのヒトデナシ
頭巾で頭を覆い隠し、風の中を踊る花模様が描かれたローブを纏うヒトがいる。
ヒトの名前はズィンゴ。歌われるもの(ズィンゲ)ではなく、歌うもの(ズィンゴ)だ。切り立つ崖の傍に佇み、藍と緑、青と黄が複雑に絡み合う海の彼方を見つめていた。太陽は頭上で燦然と輝き、影の形をほぼ点にしている。ズィンゴは吹き付ける風が凪ぐ気配を肌で感じ取ると、僅かに弧を描く海の彼方に向かって、袖から取り出した奇妙な道具を向けた。
道具は手に少し余るほどの大きさしかないが、一見して、それが多くの機能を備え持つ道具だと理解できる。太い持ち手の先に楕円形と円形の木材が二つ取り付けられており、木材の端には線対称になるよう長短三十六の筋が彫られ、中心から糸に繋がれた宝石がぶら下がり、揺れていた。さらに、扇状のくり貫き穴が筋を区切るよう八カ所も施されていたからだ。
≪奇妙な道具は彼の大陸における測量器具の一つと考えられる≫
ズィンゴは道具が自分の視線を遮るように持ち、自分と太陽の位置を読み取った。足跡の意匠を施した首飾りを地面に置くと、その中で揺れる気泡が意匠と重なる場所を探った。それから道具を視線と平行になるよう持ち直すと、宝石が暴れない様、慎重に手で押さえてから放し、糸が示す筋を読み取った。
俄かに凪いでいた風が強く吹き、宝石とローブを揺らす。頭巾の端が乱れ、隠していたズィンゴの獣じみた丸い耳が覗いた。ズィンゴは異形の耳より、宝石よりも、大切そうにローブの袖へ道具を隠すと、規則的な歩調でその場を離れていった。一つ、二つと、野道に咲く花を数えるように、足を進める度に心が躍る。歩きながら、首飾りを握った。首飾りが気泡を揺らし、白い光を明滅させると、彼は流麗な声で記録を残した。
「ニィナグゴの家から西へ88600歩(ニイ)。陸の端へ到達。太陽は3と1に至る頃……。ほぼ始沈点だ。陸の端に沿って、南東方向へ移動を始める。――今夜は帰れないな」
≪歩(ニィ)。ズィンゴが用いる距離の単位。こちらの世界におけるメートル法に換算すると約0,6~0,62mほど≫
≪始沈点。太陽が最も高く昇る位置及び時間≫
語る言葉ほど悲壮は感じない。むしろ、それこそ自分が望んだ選択だ。と、改めて確かめるようだった。事実、ズィンゴの身体は細身だが、しなやかな手足には確かな生命力の強さが滲み出し、弾ければ空を滑る風のように速く走るだろう。
ズィンゴの指が首飾りを撫でると、明滅していた光が消え、足跡の意匠を浮かび上がらせた。足元で、深緑の葉が揺れる。崖下から潮風が吹きつけ、背中を押し出した。
私と共に行こう、行こう。今度こそ。さぁ、地図を作ろう。
風の言葉に身体が熱くなり、踏み出す速度が高揚で乱れ、歩幅は僅かに広くなっていった。しばらく駆けて行ったが、不意にズィンゴは足を止め、頬を掻きながら崖の傍まで戻る。そして、深呼吸すると、ゆっくり歩き出した。規則的に。乱れの無い丁寧な歩調で。
「1、2、3、4、5………」
ズィンゴは呟き、踏んだ草を爪先で磨り潰していく。適当に振り返り、自分が潰した草の跡が均等に続いている事を測った。そして、それらに親指分の乱れがない事を確かめると、鼻を鳴らす。
≪彼の大陸に群生する植物は生命力が強い。ヒトが脚で踏んだ程度なら、瞬く間に立ち上がり、何事も無かったように振る舞う。ズィンゴは歩幅を整える時に草を強く踏み、時には磨り潰しさえする。そうしなければ、植物の生命力に打ち負けてしまうからだ。
植物の種や根は、ヒトに有用な食料、薬、香辛料、調味料として活用されるものばかり。薬や香辛料として使われる植物は貴重ではあるものの、数が非常に多く分布範囲も広いため、彼の大陸では価値が損なわれるような取引は確認されていない。
また、食用や薬用のみではなく、ヒトの生活様式を変える非常に稀有な生態を有するものが多い。
植物の調査と運用方法の研究は、彼の大陸で生きるヒトの生活様式、豊かさに関わる重要分野といっていいだろう。今後も植物についての詳細は適宜補足していく≫
詩の一つも歌いたくなるような心地よさだ。潮風が運ぶ花の種を横目に、ズィンゴは無意味に腕を上げ下げしながら、しばらく歩いては立ち止まり、あの奇妙な道具で周囲を見回す。また歩いては立ち止まり、周囲を見回す。奇妙な一連の動作を繰り返しながら、歩き去っていった。
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