沼(3)

 呪いの沼地。

 まずそこで山城は一つの事実に驚愕していた。

 小野寺の名前が悠【はるか】でなく悠【ゆう】だったことに。

 過去の自分の記憶をどこまで遡っても、苗字でしか呼んだことはないはずだが、万が一間違っていたとしても彼女は面白がって間違いを訂正してこない可能性が高い。

 急に体温が上昇するのを自覚した。

 社内のどこかで名前の字面だけを見たのだろうが、そこで勝手に読み方を決めつけていた自分の愚かさに辟易する。わからなければ訊くという取材の基本すらも身についていないからこういうことになるのだ。

 そして、山城たちの前に現れた小野寺の父親は彼女にあまり似ているとは思えなかった。

 既に彼女から身の上話――この辺りの出身であること、母親と弟が行方不明になり、祖父母の家に預けられたこと、父親が何も話さないこと、そしてこの事件を調査するため操山出版に自ら情報提供をしたこと――は聞いており、二人で集めた情報をもとにある程度の推測は立ててあった。

 そしてもう一人、小野寺の言う〝嘘つきは同じ顔をしている〟という言葉、それを聞いて『もしや』と思ったが、こうして彼を目の前にして山城は本当にその通りだと得心した。


 ――この人がやっぱり。


「葛木竜泉さん、芸能界を引退した後、あの神社の宮司になっていたんですね」


 小野寺の父親と共に現れたかつて葛木竜泉と名乗っていた男と、山城、小野寺は面識があった。

 あの日、神社で彼らの応対をした男こそが竜泉だったのである。

 かつて竜泉だった男は山城たちを前に気まずそうに視線を逸らす。

 小野寺が隣にいる大樹の娘だとここで初めて知ったのだ。


「そうですね。よくご存じで」

「深夜番組とはいえテレビに出られるようになって、特番だって成功だったんですよね? これからという時に急に引退されたのはなぜですか?」


 山城が尋ねるも、かつて竜泉だった男は肩をすくめるだけで答えない。

 小野寺が彼の前に進み出る。


「葛木さん、私は……その……あなたに謝りたくて」


 冷静沈着で動揺や緊張とはまったく縁がなさそうな強くて賢い後輩の声が震えている。


「なんのことだか。なんとなくですよ。転職にそんなに深い理由なんてありません」


 自分からは何も話す気はないらしい。

 山城は自分が横からしゃしゃり出ることに抵抗はあったし、理路整然と話せる自信もなかったが、小野寺とのやりとりを思い出しながら語り始める。


     〇


「私はこの部屋に住んでいました、子供の頃。どのタイミングでリノベーションされたのかはわかりませんが。そこの引き戸の奥が子供部屋で弟と二人で使ってました。そっちが両親の寝室でした。ずっと自分一人の部屋が欲しいと思っていました」


 山城は彼女の話それ自体は理解できていたが、まるで無関係なおとぎ話を聞かされているような気分だった。

 この心霊マンションのこの部屋で、子供の頃の彼女が暮らしていたということが非現実的に思えた。


 つまり――。


 今まさに自分たちがいるこの場所で小野寺は暮らし、母親と弟が行方不明になり、霊能者たちがやってきて河童に攫われたのだと喧伝し、山城と共に彼女はこの部屋に舞い戻ってきたということになる。


「最初から言ってくれたらよかったのに」

「ごめんなさい。でも、このことを知らないまま客観的な視点で一緒に考えてほしかったんです。私がのめり込んでしまうかもしれないから」


 ――そんなことはないだろ。絶対、冷静なままだよ。


 むしろそのことを知れば、単純な山城の方こそが極端に感情移入してのめり込んでしまっていただろう。


「そっかぁ」

「でも、今私たちの手元にある情報と私自身の記憶や印象をもとに考えていけば、真相に辿り着ける気がします」

「俺もそんな気がする」


 この部屋で起こったこと、調べてきたことを頭の中で過去に向かって並べ替えていけば一番最初に起こったことに行き着けるかもしれない。


「まず怪奇現象が起こるっていう噂があって、俺たちが取材のためにこの部屋にやってきたわけだよな」

「違います」

「違わないだろ」

「その前があるんですよ。そもそも私がこの地域で起こる怪奇現象の噂を操山出版に情報提供してたんですよ。神隠しとか」

「そう、なんだ」


 彼女のせいで山城の単身赴任が決まったらしい。


 ――会社ごとまんまと小野寺さんに乗せられてるじゃないか。


「すみません、公私混同しちゃって」

「うーん、まぁ結果的には良かったんじゃないかなー。実際に首吊りの霊見ちゃったのは良かったのかどうかわからないけどさ。本当に怖かったなぁ、あれ。今思い出しても足が震える」

「私は最初見間違いじゃないかと思ってたんですよね。私がこの家に住んでた時はそんなの一度もなかったし。余計わけがわからなくなってました」

「で、怪奇現象について聞き込みをしたら河童の噂に辿り着いたんだよな」

「それも謎でした。私がいた頃にはそんな話聞いたこともなかったんで」

「神社で聞き込みしたら、昔からある伝承みたいな扱いだったけど、文献もまったく出てこないし」

「聞き込みの時に私が覚えのある家に一人で挨拶に行って、まだ地元に残っている同級生がいるかどうか探していたんですよ。一応、ギリギリ都内なので実家に残ってる子もいるかなって」

「で、あの子――えーっと、近藤さんを捕まえて話を聞いたら、このあたり……というかまさにこの場所でオカルト番組の撮影があって、霊能者が河童のルーツじゃないかと思い当たったと」

「でも、それだと神社で祀られていることとの整合性が取れないと思ったんですが、まさかあの霊能者が芸能界を引退してあそこの神社で河童の噂を流してるなんて……想像もできなかったですね」

「やっぱり宮司さんが葛木竜泉だったって気づけたのって顔がカッコよかったからだよなぁ。面影あってよかったよ」

「ですね。あの神社のこと、私覚えてなかったんですけど、それこそ跡継ぎがいなかったのかもしれません」

「でも、なんでそんなことをする必要があるのかって話なんだよな。まず怪奇現象があって、それを河童の噂で覆い隠して、なぜか河童を大切にしましょうなんて言ってさ。さらにそこから水害が昔あったなんて出鱈目まで付け加えてたわけだ。あの宮司さんは」


 小野寺が小さく息を吸って、少しだけ目を閉じた。

 何かを思い出そうとしているのだろう。

 山城は黙って、彼女が再び口を開くのを待つ。


「これから話すのは、私の記憶に基づく推理です。ただ合っている自信はありません。聞いてもらえますか?」

「もちろん」


 ここまでの出来事は整理できた。

 後は小野寺視点でしか知りえない情報があれば真相に辿り着けるかもしれない。


「霊能者の葛木竜泉さんはテレビで言っていました。沼には主のようなものがいて、周囲に殺された人の霊が見えると、その中に母親と子供が見えると。子供を助けようとして溺れたのではないかと」

「そうだね」

「でも、おかしいと思いませんか?」


 ここですぐに「何が?」と反射的に問い返さないだけの思慮深さをこの期間で山城は身に着けていた。


「順を追って考えてみましょう。私の弟とその友達がまず行方不明になりました」

「そうだね」

「そして、弟たちを探していた私の母が続けて行方不明になっています。同時にもう一人子供がいなくなっていますが、関連性はわかりません。たまたま同時期にいなくなったという可能性も否定はできません」


 山城は話の穂を継ぐ。


「小野寺さんのお母さんは弟さんを捜しているうちに他の子供が沼に引きずり込まれそうになっているのを見つけて、助けようとしたのかもしれないよ。それが同時に行方不明になったもう一人なのかもしれないね」

「はい、普通はそう考えます……普通は」


 小野寺は呼吸を乱し、言葉が出てこない。


「大丈夫? ゆっくりでいいよ」

「ありがとうございます。大丈夫です。私の記憶では母は……お母さんはそんな人ではありません。どこまで記憶を遡っても他所の子を気遣ったり、ましてや自分の命と引き換えに助けようとするような人間ではなかったです。実の娘にすら冷淡でした。弟のことは溺愛していたようですが」


 これは家族だからこそわかることだろうが、実際に親が他所の子供を見殺しにするはずだと口にするのはさぞ辛いだろう。山城は涙を堪えるために天井を見上げる。


「私の推理では……弟の航大以外は母が殺した、と思っています。その際に母もまた沼に足を取られて溺死したのではないかと。母は弟が悪魔に殺された、というようなことを言っていました。オカルト的な意味ではなく、あれは航大が何らかの理由で死に至り、その原因となった他所の子のことを言っていたのかなと」


 行方不明になった母親の名誉を傷つける推理だ。山城は受け入れる気になれなかった。


「でも、そんなこと……じゃあ、子供の首吊りの影は?」

「マンションで起こる怪奇現象は化け物になった母の意思や、母に命令されて他の子供を呼びに来た子供だと思います。それに葛木さんは気づいたんじゃないでしょうか」


 ――気づいたからってなんで……いや、そういうことか。


「だとしたら、あの人優しすぎるよ。つまり霊視でそれを知ったけど、小野寺さんのお母さんの名誉を守るために河童の噂をでっち上げたってことだろ?」

「私は、そう思ってます」


 山城は受け入れがたいとは思いつつも、結局彼女の想像を否定することはできなかった。

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