新人編集者山城と心霊マンション(2ー1)

 早朝に雨音で目を覚ます。

 一晩経っても雨はまだ降りやまない。昨晩よりは弱まっているような気はするが、それでもまだ小雨とも言えない。

 山城はしばらく出社しなければならない用事もないので、リモートワークで溜まっている仕事を片付けることにした。

 ほぼ自宅から出ることなく本が作れるというのは便利だが、山城は出社して会社で社長や他の社員たちと無駄話をしながら働くのが好きだった。

 存在しないと信じたいが幽霊と二人きりで薄暗い部屋で仕事をしなければならないというのはどうにも気が滅入る。

 怪談集のゲラのPDFデータを外部校正に出したり、ライターから送られてきた雑誌のインタビュー記事のチェックをしたりする。

 これらの仕事は社長や今は外部編集者として出入りする米田先輩の企画だ。自分自身の仕事とは言えない。楽な作業であっても〝食わせてもらっている〟立場であるということをふと自覚した瞬間に辛くなる。

 どうにも集中しきれないが、他にできることもなければ、この雨で外出しようという気も起こらない。

 この家にはまだ食べ物はないが、豪雨の中で外に出るくらいなら空腹に耐える方が良い。



 朝から昼過ぎにかけて、自分の手が届く範囲の仕事を済ませた山城はこの不気味な物件への転勤を命じてきた矢田部社長に一通のメールを送る。

 内容は、ただこんなところに放り込まれても進展しない、逃げ出したりはしないのでここで何が起こったのかわかる範囲で教えてほしいというものだった。

 するとメールへの返信ではなく、スマートフォンに着信がきた。


「はい、山城です」

「おう、ちょっとはやる気出たみたいだな」

「やる気は最初からないわけじゃないです。むしろかなりあります。ただ、現状だと何もとっかかりがないので何かヒントがあればなって」

「いきなりヒントを聞いてくるなよ。報告が先だ」

「えーっと、引っ越しの挨拶を兼ねて、ご近所さんに聞き込みをしようということになりまして。小野寺さんとこのフロアの部屋を回りました。でもやっぱりあんまり良い噂のないマンションだからなのか、空き部屋が多いみたいで話が聞けたのは一軒だけです、今のところ。近所の神社に何かお化けだか妖怪だかのお土産が売っているらしいので、晴れたら神社に話を聞きに行くつもりです。何か手がかりになるかもしれないので。とはいえ、やっぱりこのマンションがなんで事故物件ってことになってるのかは知りたいんですよ。楽をしたいんじゃなくて、良い本を作るための素材は一つでも多い方がいいですし」


 山城は時間をかけ、ゆっくりと整理しながら話をする。そして、矢田部社長はその間黙って話を聞いていた。


「なるほどな。多少は頑張ってるらしいってのはわかった。じゃあ、質問に答えてやる。そこのマンションな、幽霊を見たっていう人が続出したらしい」

「曖昧ですね。過去に凄惨な殺人事件が起こったとか、そういうのは?」

「ない。というかわからない」


 ――具体性ゼロ。使えないなぁ。


 という心の声を聞いたかのように続けざまにこう言われる――。


「だからそれをお前が調べるんだよ。なんでそのマンションで幽霊の目撃情報が出てきて、人が出ていくのかわかったら一冊良いの書けるだろ」

「それもそうですね。俺が書くかどうかはまぁ別として」


 山城は書籍一冊書ききったことはないし、自分でも書けるとは思っていない。基本的には作家やライターに任せている。

 しかし今回はやっと任せてもらえた大きな仕事だ。社長の期待にも応えたいし、米田先輩も安心させたい。そして小野寺にも尊敬されたい。


「せっかく優秀なバイトをそっちに寄こしてるんだからうまくやれよ」

「小野寺さん、優秀ですなぁ」

「なんだ、その含みのある言い方。お前、小野寺が美人だからって手出すなよ」


 含みなどない。心の底からそう思っている。


「出さないですよ。というか出せないですし、相手にもされないでしょ。優秀過ぎて惨めな気持ちになるんですよ。俺、大学生の頃、あんなんじゃなかったからなー」

「いいじゃねーか。お前みたいなボンクラはあのくらいしっかりしたのに引っ張ってもらうくらいがちょうどいいだろ。あいつがそっち行ってなかったら、今ごろまだ部屋の端っこで震えてるだろ」


 ――ありえ……なくも……いや、ないない、それは。


 さすがにそこまで愚かではないとは思うが、言い返すことはできない。


「俺が引っ張りたいんですけどね、先輩として」

「じゃあ、引っ張れるようにもうちょっと頑張れ」

「わかりましたよ」

「あ? ちょっと待て」


 社長の声が電話口から遠のく。社員の誰かと話しているようだが、山城には聞こえない。


 ――俺になにか用事ある人いるのかな。


「おい、山城」

「はい、なんでしょう?」

「晴れてきたから、小野寺がこれからそっち行くってよ。家で大人しく小野寺先生の到着待ってろ」


 窓の外を見ると、いつの間にか雨は止んでいた。

 小野寺が来ると聞いて、山城はぐっと背筋を伸ばす。昨日やり込められ、社長にもそれを見透かされているのだ。今回は多少なりとも先輩らしいところを見せなければならないという緊張感が走る。


「わかりました。俺がバイトで、小野寺さんが正社員みたいなんだよなー。でも俺もやれるってとこ見せられるよう頑張りますよ」

「その自覚があれば大丈夫だろ。たしかにあいつはしっかり者で頭の回転も速いが、まだ学生なんだ。ちゃんと先輩やってやれ。じゃあな」


 電話は一方的に切られた。


 ――よし、やろう。


 山城は小野寺が来るまでに一回顔を洗おうと立ち上がる。

 洗面所の扉を開けようとしたとき、何か嫌な気配を感じた。

 何かが軋むような音がする。


 ギシ、ギシ、ギシ。


 リフォームされているがどこか老朽化している箇所があるのかもしれない。

 昨日から鳴っていたのだろうか。あの豪雨で音がかき消されていて気づけなかっただけで。わからないが、不気味な気配を感じる。

 やる気があっても恐怖心が消えるわけではない。

 しかしちょっとした物音に怯えて、洗面所に入れなかったとあっては笑い者だ。

 唾をのみ込み、軽く歯を食いしばる。

山城はゆっくりと扉を開く。

 しかし、洗面所には特に異変はなかった。

明かりを点け、洗面台の前に立つ。


ギシ、ギシ、ギシ。


 またあの音だ。


 ――どこだ?


 山城はまず鏡を覗き込む。しかし、何も映ってはいない。


ギシ、ギシ。


 ――風呂場だ。


 この音の反響は浴室だろう。

 浴室には昨日の夜、洗濯物を吊って浴室乾燥機を使ってからそのままだ。扉も締めっぱなしのはずだ。

 山城は真っ暗な脱衣所の電気を点ける――。

 摺りガラスの向こうに明らかに洗濯物とは違う黒い影が揺れている。


 ――あ、あれ。


 視界に映った影は、浴室に渡されている浴室乾燥用の物干し竿で小さな人間が首を吊っているようにしか見えなかった。

 影は不自然にゆっくりと左右に揺れている。


ギシ……ギシ……。


 まるでスロー再生されているようだった。摺りガラス越しにその人影が回転し、こちらに向き直る。

 摺りガラス越しに顔色が明らかに赤黒くなっているのがわかってしまった。そして、こちらを見ている。

 明かりを点けてしまったら……目が合ってしまうかもしれない。


「うううう」


 恐怖から思わず呻いてしまう。

 だが、逃げはしない。

 山城はなけなしの勇気を振り絞り、震える手でノブに手をかける。

 万が一、億が一、本物の人間が首を吊っていたらどうする?

 開けないという選択肢はなかった。なんとか扉を開けるが――そこにあるのは僅かな洗濯物だけだった。


 ――あぁ、やっぱり。


 山城は自分が幽霊を見たのだと確信すると同時に恐怖心が爆発し、太ももががくがくと震えだし、噛みしめていた奥歯がカチカチと音を立てる。

 摺りガラス越しでよかった。目が合っていたら耐えられなかったかもしれない。

 あの物干し竿が軋む音と、ゆっくり揺れる黒い人影が脳裏に焼き付いている。

 今夜は寝られそうにない。


 ――とにかく外に出なくちゃ。


 山城は震える脚でよろつきながらも、洗面所の外に出ようとする。


「ひぃ」


 山城は洗面所の外で待ち構えていた新たな影に驚き、今度こそ腰を抜かし、へたり込んでしまった。


「山城さん? 大丈夫ですか?」

「あ、あぁ、うん」

「今回はピンポン鳴らしましたよ。返事なかったので合鍵で入ってきましたけど」

「そっか。全然気づかなかった」


 小野寺は床に転がっている山城を数秒観察した後に言った。


「当てていいですか?」


 ――当てる? あぁ、何が起こったのかクイズみたいに当ててみせるってことか。


「どうぞ」

「やっぱり昼間でも心霊現象って起こるものなんですね。ってことで合ってますか?」

「正解だよ」

「お風呂ですか?」

「そうだよ」


 洗面所への入り口をふさぐ形で座り込む山城を跨いで小野寺は浴室へと向かう。


「山城さん、自分でドア開けて確かめたんですか?」

「そうだよ」

「一人で?」

「あぁ、そうだよ」

「へぇ、カッコいいじゃないですか」


 ――カッコいいわけないだろ。


 そして彼女は浴室を覗き込む。


「流石にもういなくなっちゃってますけど」

「怖くないの?」


 山城は半ば呆れ気味に言う。


「怖いですよ」そうは言うが小野寺は平然としているように見えた。

「でも躊躇なく見に行けるのすごいよ」

「今は山城さんがいますからね」


 彼女は事もなげに言った。

 自分のような人間でも後輩に頼られると嬉しくなる。しかし、情けない恰好をしている。


「こんな腰抜かしてるダサい先輩なんだけどな」

「あ、お化けが出てきても、腰抜かしてるダサい先輩が襲われてる隙に逃げられるって意味です」


 小野寺はそう言うとくつくつと笑った。


「ひどい後輩だよ」


 山城は下半身に力が入ることに気づいて、立ち上がった。


「さ、行きましょう。調査の続きです。あれどうしました? 生まれたての子鹿のようですよ」

「大丈夫だよ。気にしないで」


 脚に痺れを感じながらも、小野寺の後ろをついていく。


「歩きながら、さっき見た心霊現象について詳しく教えてくださいよ」

「はぁ」


 できれば外泊したいし、この家に帰ってきたくないが、そういうわけにもいかない。


 ――でも風呂だけは銭湯で勘弁してもらおう。

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