四 『仲間』 杜野 美世子 根ノ町/闇津見山/00時22分
私はただ震えていた。恐怖で、夏なのに歯をガタガタと鳴らしていた。 そのせいで、背後に近づく白い異形の這いずる音に気づいたのは、奴が呑み込める距離まで迫った時だった。
振り返ると、“それ”は既に大口を開け、私の視界を埋め尽くしていた。 絶望に染まった光景は、まるで死期を悟るようにゆっくりと動いていた。 しかし、そんな世界を打ち消すように何かが駆け上がる音が聞こえる。突然、鈍い音が鳴り、“それ”が悲鳴を上げて地面に芋虫のように丸まる。 やがて、“それ”は煙を上げ、固まった泥人形のようにボロボロと崩れ去った。
混乱の中、私はようやく目の前の男を認識した。 顔を上げると、シャツを身に着けた二回りほど年上の男性が、手にモンキーレンチを握りしめてこちらを見つめていた。
「君は…人だよな…?」
男性は訝しげな目で私を凝視する。
「あ、あ…あなたこそ…人ですか…?」
男性は慌ててポケットから財布を取り出し、堂々と免許証を見せつけた。
【宮田 國男】
と、記されている。
「こ、これで証明できたかな?私は学者で、ヒトデの研究のためにこの町に長期滞在していたら、こんなことに巻き込まれてしまった…」
まるで、人物紹介に困っている作家のための模範解答のような自己紹介だった。 こんな状況で見ず知らずの人にべらべらと喋っていいのか?と呆れつつも、彼の人間らしさに安堵した。
「私はこの町の学生で、杜野といいます。宮田さん、この町は一体どうなっているんですか?」
宮田さんほど詳細には語らず、端的に自己紹介し、間を置かずに問いかけた。 宮田さんは顎に手を当て、困ったように顔をしかめる。
「僕は学者だが、こういったオカルトや超常現象は専門外でね…ヒトデのことなら嫌というほど頭に入っているのだが」
頼りにならない人だな、と落胆したが、一人でいるよりは幾分か心が落ち着いた。
すると、痛ましい叫び声が響き渡る。
「杜野ちゃん!とりあえず安全な場所へ移動しよう!」
宮田さんは私の腕を引いて移動しようとするが、私は拒んだ。
「宮田さん!私、お母さんのところへ行かなくちゃ!すぐそこなんです!」
――お母さん。
異形が蔓延るこの異界で、母の安否が心配でたまらなかった。 このまま宮田さんの腕を振り切って走るべきかとも思ったが、宮田さんはまっすぐ私の目を見て頷いた。
「わかった。だが、僕も一緒に行こう」
周囲を警戒しながら宮田さんと道を進んでいくと、見慣れた建物が見え始めた。 私の家だ。
何もなければ、母はそこにいるはず。 淡い期待を抱きながら、ゆっくりと家の方向へ向かうと。
「……ょ………ぉ〜〜……」
細々とした人の声が聞こえた。
田辺先生のように、人に化けた“それ”の危険性も考えられる。 私たちは咄嗟に曲がり角に身を隠した。
「…………よぉ〜〜〜こぉ〜〜〜」
声はどんどん明瞭になり、その主が近くまで来ていることが分かる。
声の正体を確認するべく、気づかれないように顔だけ覗かせると、そこにいたのは――。
「み〜〜〜〜よぉ〜〜〜こぉ〜〜〜」
光を知らないような白い肌に、黒い毛を纏った女性だった。
「お母さん………!!」
そんなはずはない。
嘘だ、違う。これは幻覚だ。
そう思っているのにも関わらず、本能がその姿と声に反応し、思わず声にならないほどの小さな悲鳴混じりの囁きが喉からこぼれた。
近くにいた宮田さんにだって聞こえないほどの声だったのに、母のような“それ”は、こちらを振り向き、私の顔をしっかりと捉えた。
――まずい。
――気付かれた。
"それ"は嬉しそうに声を上げ、こちらへ駆け足でやってきた。
「み〜〜〜〜よぉ〜〜〜こぉ〜〜〜!!!」
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