最終話 そして次の日常へ

「おー……わったぁぁぁぁ」

 試験終了を告げるチャイムが鳴り、答案が前の席へと集められていく。そんな中、奈留は大きく伸びをしながら、開放感を存分に味わっていた。

 学年末試験も、たった今終わった古文で全て終了だ。手応えは悪くない。少なくとも、直前まで原稿に没頭していたことを思えば。

「奈留~。おっ疲れー」

「由美、薫」

 奈留に負けず劣らず喜びに満ちた声で挨拶しながら、西が近づいてきた。すぐ隣には東山もいる。名前を呼んで手を振ると、二人は傍までやってきた。

「どーだった、今回の試験は?」

 西に尋ねられ、奈留は不適な笑みとともにVサイン。

「ふっふっふ、完璧とは言わないけど、結構手応え良かったよ。補習は回避できたんじゃないかな」

「おー、おめでとー」

「おめでとう。おめでとう。おめでとう」

 西が破顔して手を叩けば、東山も同じくぺちぺちと拍手しながら、何度も賛辞を繰り返す。実際に補習を免れたかはまだ分からないのだが、奈留も含めて本人たちは心底喜んでいるようだった。

 しばらくしてから手を止めた東山が、不意にぽつりと零す。

「奈留、このところ調子良さそう」

「へ、そう?」

 奈留はきょとんと目を瞬いた。

 そう言われるような変化があった自覚はない。だが、東山の言葉を聞いた西は神妙に頷き、

「分かる分かる。少し前まではこう、もうちょっと死んだような目してたよね」

「死んだような目!?」

「顔色もちょっと良くなった。多分、朝ごはんをちゃんと食べてる」

 あんまりな評価に愕然とする奈留を余所に、東山もコメント。しかもこちらは事実なので否定もできない。窮した奈留に、東山が目を向け、小首を傾げた。

「何かきっかけでもあった?」

「……いやー、別に?」

 咄嗟に出た反応は、自分でもどうかと思うくらい白々しかった。さりげなく目を逸らしたものの、西と東山は互いに顔を見交わし、疑念の込められた視線をちらちらと奈留へ向ける。

「何があったのかなー? 心当たりある?」

「ない。悔しい」

「んー……好きな人でもできたとか?」

「それもない。そんな相手がいたら気づいてる」

「その自信の出どころは何処なの……?」

 無表情のまま断言してのける東山に、若干の恐怖を覚える。ツッコミに反応して東西コンビの目が奈留に向くが、気圧されながらも奈留は首を振った。

「本当に何でもないって。最近ちょっと早く目が覚めるようになったから、ついでに朝ごはん用意するようになったってだけ」

 今さら説得力があるとも思わなかったが、そうはっきりと主張して、奈留は口を噤んだ。これ以上の問答に応じる気はないと、如実に態度で表す。

 西は肩を竦めるポーズを見せて沈黙した。対して、東山の方はなおも不満げだ。彼女はわずかばかり眉根を寄せ、不機嫌そうな表情を作ると、聞き取り損ねそうな小声でぽつりと零す。

「内緒にするんだ……信用ないな。寂しい」

「う……」

 絞り出された、心底気落ちした声。罪悪感に胸を絞めつけられる感触に、奈留はつい顔を顰めた。上目遣いに見上げてくる潤んだ瞳が、一層彼女を責め立てる。

 沈鬱な表情で奈留をじっと見つめていた東山だったが、やおら目を伏せて溜息をついたかと思うと、その目を西へと向けて、

「ここで迷うってことは、やっぱり嘘だね」

「間違いないなー」

「あんたたち」

 拳を握り、額には青筋。そんな奈留の怒りの声はしかし、二人の胸を打つことはなかった。


 東西コンビの追及はひとまずそこで落ち着いたものの、二人の疑念を払拭することはもう無理だろう。いずれは秋穂の存在を明かす必要が出てきそうだ。無論、馬鹿正直に事実を話すつもりはないが。

 不安はある。億劫でもある。それでも自宅の前に辿り着いた頃には、奈留の気持ちはだいぶ晴れていた。

「ただいまー」

 玄関のドアを開け、帰宅の挨拶。秋穂が来てから何度目になるだろう。繰り返すたび、今この家が自分一人のものでないことを実感する。

 少し前には考えてもみなかった幸福を噛みしめる。

「お帰りなさい。テスト、今日でおしまいでしたよね? お疲れ様です」

 リビングから顔を出して、秋穂が声をかけた。手には月刊ボビン。勉強か休憩かは分からないが、何か読んでいたらしい。

 彼女の待つリビングに早足で辿り着くと、奈留は鞄をそそくさと床に下ろしてから、おもむろに両腕を広げた。彼女の要求を悟り、秋穂が呆れと苦笑が等分に混じった表情を浮かべる。

「終わったー。すごい手応えよかったー。ナル、褒めて。ご褒美ちょうだい」

「あー、はいはい。よく頑張りました。偉い偉い」

 投げやりながらも、きちんと口調は奈留のものだ。秋穂は正面から奈留を抱きしめ、わしわしとその頭を撫でた。

 初めは上機嫌に喉を鳴らしていた奈留だったが、徐々に不満そうに眉を歪める。しばらくして、秋穂の胸を押すように体を離した彼女は、頬を膨らませながらぼやいた。

「キスは? してくれないの?」

「まだ結果返ってきてないんでしょ? それまでお預け」

「むむぅ……」

 直接的な要求にも、返答は素っ気ない。ますます目を細める奈留を宥めるように、一度離れた距離は、秋穂の手で埋められた。半歩歩み寄り、もう半歩分抱き寄せる。さらさらと髪に指を潜らせて、耳元に唇を寄せた。

「どうせすぐでしょ。それに、テスト勉強だってあれだけ頑張ってたんだから。大丈夫、いい結果が返ってくるよ」

「っ……うん」

 吐息が耳を擽り、奈留は思わず体を竦ませる。ほだされていることを自覚しつつ、それ以上駄々をこねるのは諦めて頷いた。

 秋穂の肩を手でそっと押す。さっきのように引きはがすわけでもなく、離すように促す仕草だ。彼女の意図を正しく察し、秋穂が腕を緩める。

「アキもありがとね。勉強、あんなに手伝ってくれて」

「置いてもらってるんですから、それくらい当然ですよ」

 顔を見交わして奈留が礼を言う。呼びかけられ、秋穂本来の表情を取り戻した彼女は、どこかおかしそうに微笑みながら応じた。照れるわけでもなく、本心からの言葉なのが分かる。それが何となく物足りなかった。

 当然などと言うが、同学年の授業を受けているどころか、そもそも高校過程の勉強も独学の秋穂だ。奈留のテスト勉強に付き合ったのも、原稿作業の合間に奈留のノートや教科書から出題範囲を把握し、基礎から学習し直した上で、身につきやすい覚え方や考え方を考案し、効率のいいテスト対策を講じたという意味合いである。その負担たるやどれほどのものか、奈留には想像がつかない。

 感謝してもし切れない、と口で言ったところで、きっと今の秋穂は納得できないだろう。だからこそ、奈留は小さく頭を振って、もう一度語りかけた。

「そのうち、春用の服も買いに行こうね」

 今、感謝を伝えるには、きっとそれが一番有効だろう。

 そう考えた通り、秋穂は大きく目を見開いた後、破顔して頷いた。

「ありがとうございます、奈留」

 嬉しそうに言う秋穂に、奈留は言葉を返す代わりに、頭を撫で返した。嫌がりもせず、されるがまま撫で回されているあたり、意外とこうされるのが好きなのかもしれない。

 しばらく続けてから、奈留は手を止めた。秋穂の髪から手を離すと、彼女はさりげなく乱れた髪を手で整えつつ、改めて奈留に目を合わせてくる。

「ところで、テストが終わって一区切りついたところですし、記念に何か食べたいものはありますか? 作れるものなら頑張りますよ」

「えっ、いいの? じゃあ牛」

「牛を作るのは無理です」

 打てば響くような奈留の返答に、秋穂が冗談を返す。

 言ってから、そんな冗談を口にできる自分自身に、少し戸惑ってしまう。以前なら言わなかったような言葉が、自然と口を突いて出ることが不思議で、同時に嬉しくもあった。

 微笑みながら、奈留は玄関の方を目で示し、

「じゃあ店でお肉を見ながら、何にするか考えますね。一緒に行きますか?」

「行く。ちょっと待ってて。着替えてくるから」

 問いかけに頷いた奈留は、足早に自室へ向かっていった。衣擦れやタンスを開ける音が聞こえてくる。

 ふと、昔のことを思い出した。何も嫌がらない、何も欲しがらない。そんな自分に手を焼いていた、親代わりのあの人のことを。

 奈留は秋穂とは違った。あっさりと欲しいものを口にした。それが秋穂には――そう、難しい。同じように振る舞うことが、まだ、難しい。

 これからも、奈留として過ごす時間は多いだろう。だからこそ、奈留のように何かを欲しがれるようになりたい。奈留が欲しいものを、欲しがれるようになりたい。そして、一緒に買い物に出かけるというのは、それを知るまたとない機会だ。

 勉強。成長。今でもそれを自然と求める自分を自覚する。結局自分の芯は、今でもそこにあるんだな、と妙なタイミングで納得した。

「お待たせ。行こっか」

 そう呼びかける声が、秋穂の思考を遮った。益体のない考えを振り払うように、秋穂は首を振って微笑む。

「はい」

 帽子を被り、眼鏡をかける。そうして奈留とも違う別人に扮した秋穂は、玄関のドアを開けた。奈留と連れたって家を出る。鍵をかけながら、奈留の横顔を見る。

 今の秋穂は、奈留になり切ることができない。知らないことがあまりに多い。故に彼女のことを知りたい。もっと深く理解したい。より完璧な奈留を演じるために。

 彼女が求める『ナル』が、より彼女の理想に近づけるように。

 こんなにも『誰か』になりたいと願うのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。

「……アキ、考え事?」

 秋穂の視線が気になったか、奈留が尋ねてきた。咎めようというトーンではない。秋穂は曖昧に頷いて、

「ちょっとだけ。大したことじゃないですよ」

「ふぅん?」

 返ってきた相槌は、露骨に納得していなさそうだった。強い追及ではない。それでも、きっと秋穂が何か答えるのを待っているのだろう。

 少し悩んで、秋穂は再度口を開く。

「もっと成長しなきゃな、って思ってただけです」

「真面目だなぁ」

「原稿後回しにして遊んじゃうような奈留よりは」

「あっ、それ言うのは反則じゃない? 反則」

 抗議の言葉とともに、拳で叩かれた。勿論痛みはない。ぽこぽこと殴りつけてくる拳に構わず歩き始めた秋穂を奈留が追い、すぐに追いつく。

 肩を並べて歩き出した二人は、どちらからともなく顔を見交わした。互いの目を見つめ、また正面を向く。

「晩ごはん、期待してるね」

「はい」

 冬の冷たい風が、廊下を吹き抜けていく。

 寒さから守り合うように、二人はぴったりと身を寄せ合いながら歩いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の家に私がいます えどわーど @Edwordsparrow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ