第二十七話 担当の疑惑
何日かぶりに電話機が着信音を奏でたのは、ちょうど秋穂が風呂に入っているときだった。リビングで一人テレビを見ていた奈留は、ディスプレイされた番号を見て、受話器を上げる。
「もしもし」
『もしもし、お疲れ様です鳴海先生。担当の沢城です』
すぐさま挨拶が返ってきた。何やら興奮した口ぶりだ。沢城は奈留が要件を尋ねるまでもなく、立て続けに語りかけてきた。
『一体どうしたんですか先生!? こんなに早く、というか〆切前に原稿送ってきてくれるなんて! 誰かに脅迫でもされたんですか!?』
怒涛の勢いで捲し立てる沢城の声が、鼓膜を圧迫する。たまらず受話器を耳から離しながら、奈留は投げやりな口調で返した。
「ええ、間に合わなかったら腹切れって、沢城って人に」
『とんでもないこと言いますねその人。今度会ったらとっちめておきますね』
当然というか、投げつけた冗談は適当にいなされる。
『で、それはともかく。実際のとこ、何で急に覚醒したんですか? 流石に気になるので、白状して欲しいんですけど』
それでも詰問は終わらない。改めて問われた奈留は、どう答えたものかと思案した。
実のところ、担当とのやり取りで秋穂が話題に上がることはないだろうと踏んでいた。そのため当然、秋穂の存在をどう説明するかも相談していない。が、わざわざ電話をかけて尋ねてくるあたり、「何の理由もなく原稿が爆速で進みました」と答えても納得してくれないだろう。
しばしの黙考を経て、奈留は仕方なく口を開いた。
「つい最近、親戚の子がこっちに引っ越してきたんですよ」
まずは簡潔に答え、言葉を切る。「最近」がいつか、「こっち」とはどこか。そういった疑問の芽を突かれる前に、すぐさま奈留は続けた。
「で、その子が事あるごとに「進捗はどうだ」「原稿やれ」ってせっついてくるもので。言われるがままに進めてたら、あっという間に終わっちゃいました」
なるべく軽い口調で言い切って、沢城の反応を待つ。
すぐに返事はない。この沈黙は、奈留の説明を疑っているのだろうか。
(あまり突っ込んだことを聞かれても面倒だな)
眉をへの字に曲げて黙る奈留だが、そのタイミングで沢城の声が届く。
『まぁ駄目ってわけでもないですけど……原稿の手伝いもしてくれたりしました? その親戚の子』
びびっ、と背筋が震えた。半ば反射的に答えを返す。
「いやいや。他人の手が入った仕上がりじゃなかったでしょ?」
試すような問いかけだった。沢城の疑問が、単に完成までの時間が早すぎたから生まれたものなのか、それとも原稿に違和感を持ったからなのか、確かめられるなら確かめたかった。
問題がない、とわざわざ付け加えてはいたが、雇用契約もなしに部外者が作画に関わったとなれば、面倒が増える可能性もある。秋穂は関わっていない。その体を保てるのなら、それに越したことはないだろう。
果たして、電話口の向こうから溜息が聞こえてきた。
『そうですね。部外者が手伝って早く仕上げたにしては、全然いつもと違いませんでした』
「でしょー?」
『つまり元々ちゃんとやれば、これくらいの期間で仕上げられたってことですよねぇ?』
「……おぉぅ、ご立腹でいらっしゃる?」
唐突にドスの利いた声が聞こえてきた。さっきとは別種の恐怖が背筋を駆け抜けていく。電話越しだというのに、つい何度も頭を下げながら、奈留は可能な限りの猫撫で声で、
「まぁほら、済んだことは置いておいて。ともかくこれからも、ちゃんと遅れないように頑張りますから」
『その言葉、忘れないでくださいね?』
「も、もちろん」
固い口調で念押しされ、肯定を返す。安請け合いかとも思ったが、この状況でそれ以外の回答など考えられない。
今度は満足げな吐息が聞こえてきた。
『はい、じゃあそういうことで頼みますね。その親戚さんにもよろしく伝えておいてください』
「はいはーい、お休みなさい」
最初よりも明らかに上機嫌になった沢城の声に、負け惜しみの不貞腐れた態度で返事をしてから、奈留は受話器を置いた。
直後、秋穂がリビングに入ってくる。ひょっとしたら、通話していることに気づいて廊下で待っていたのかもしれない。そんな気遣いは必要なかったのだが。
「お電話、担当さんですか?」
「うん。〆切前に原稿が届いたのが意外だったんだって。失礼しちゃうよね」
奈留が喋った内容から察しがついたのだろう。尋ねてきた秋穂に頷いた奈留は、そう答えてから、思いついたようにじっと秋穂の目を見つめた。戸惑い、たじろいだ彼女に一言付け加える。
「「よろしく」だってさ」
「任されました」
てっきり意味が分からず首を傾げるものと思っていた奈留だったが、彼女の予想に反し、秋穂は力強く首肯する。笑顔で奈留を見つめ返し、こちらも言葉を続けた。
「これからも奈留のお仕事が捗るように、きちんとサポートしますから」
「……そうね。アテにしてる」
きっとその宣誓通りになるだろう。だが言った本人は、奈留ほどの確信を持っていないのかもしれない。そう考えると、何故か少しだけ楽しく思えた。
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