泰然

「…………」

茉莉は黙々と英語のテキストを進めている。


とんでもない秘密を知ってしまった玉緒は、どんな顔をして茉莉と向き合えばいいか分からなくなってしまったのだが、当然な事に当の茉莉は普段と全く変わる事なく英語の勉強を黙々と進めていた。


──これは大器量と呼ぶべきか

茉莉の顔を斜め後ろから眺めながら玉緒はそんな事を思った。


玉緒の住む部屋にはダイニングテーブルセットはなく、ソファとガラステーブルしかない。従って茉莉は勉強する時はカーペットに座布団を敷いて座る事になる。そして玉緒自身はソファに座っているので自然と後ろ姿を見る位置関係になるのだ。


もちろん玉緒は茉莉に出生の事など聞かない。のだが、この泰然自若とした美少女を見てると別に聞いても良さそうな気になってくる。いかんいかん。


「そう言えばこの前知世さんと喫茶店に行ったよ」

だが思ってるそばからそんな事を言ってしまう玉緒だった。


「うん聞いた」

茉莉は振り向きもせずにあっさりと答えた。あら知世さん言ったんだ。


「知世さんイェール大学なんだってね」

玉緒は少しだけ水を向けた。これくらいなら問題はないだろう。


「爺ちゃんから行かされたんだってさ」

茉莉はこともなげにそう言った。


「へえ?」

玉緒は少し驚いた。意外な回答だった。


「うちのお母さん、若い頃はめちゃはっちゃけてたらしくてさ」

茉莉はそこでページをめくり一拍置いた。


「それで経歴ロンダのために無理矢理アメリカに行かされてたんだって」

まるで他人事のように言う茉莉だった。


「へえ意外」

玉緒は知世の名誉のためにそう答えた。


「……お母さんから英語を習おうとは思わなかったの?」

玉緒はやや躊躇しながらそう訊いた。


「お母さんの英語って全然高校生向きじゃない」

茉莉の言葉に玉緒はある程度納得した。


知世の「はっちゃけ」がどういうものだかは分からないが、まあ要するに英語を学んだ結果アメリカに渡ったのではなく、行ってから体当たりで学んだ英語なのだろう。文法なんか知らん、身振り手振りで通じればOK、の生きた英語とも言えるが。


「わけのわからない単語と言い回しばっかりで全然わかんないよ」

茉莉はそう言った。そういえば知世は何学部に行ったのだろう。


「日本の英語じゃそういうのは評価されないしね」

玉緒は苦笑気味に同調した。


日本の学校で学ぶ英語というのは全くネイティブではない。そんな言い回しするわけないでしょ、というような表現ばかりなのだ。感覚的に言うなら役所言葉というよりは漢文そのままで会話をしているようなものだ。日本人だって分からんわ。




──それにしても

玉緒はある事に気がついた。茉莉は知世の事を「お母さん」と言った。これは非常に解釈が難しい。


もし知世を継母だと知っているならそう呼びそうでもあり、呼ばなさそうでもある。だが少なくとも茉莉は4歳より上の年齢である日突然出会った知世を母として紹介された筈だ。仮に本当の母親でもそういう人を「お母さん」と呼ぶものかな?


そもそも茉莉の両親とは一体どういう人なのだろう?一番納得しやすいのは両親だけが交通事故などで死亡しているケースだが、幼い子供を残して両親が揃って交通事故に遭うものだろうか?まさか両親が子供を置いてデート中に轢かれたとは思えない。


つまり、もし交通事故で両親が死亡したのなら、それは運転中での事故である筈で、茉莉自身だってそれに乗っていたと考えるのが自然である。両親の顔は覚えていなくてもそんな事故を体験しているなら絶対に忘れる筈がない、と思うのだが。


──不思議な子

茉莉の後ろ姿を眺めつつ玉緒はそう思った。



もう出会ってから一年以上も経つこの美少女は、少なくともそういう不幸な交通事故のトラウマを引きずっているようには思えなかった。

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