事情

一息

「いつもここで休憩しているんですよ」

随分と小さな喫茶店に入り奥の席に座ると知世は微笑みながらそう言った。


「そうなんですか」

玉緒は作り笑顔でそうとしか言えなかった。


「というよりランニングが方便で、ここで一息つくのが本当の目的なんです」

知世はいたずらっぽく微笑んでそう言った。


「そうなんですか」

玉緒は何と言っていいか分からずオウム返しにそう言った。


玉緒はかがり家の事は良く知らない。何となく茉莉の父公博がカガリヤで働いていて、母の知世は専業主婦だと思っていたが、知世の言い分では彼女もカガリヤで働いているように思えた。だがそれにしてはこんな時間に家に居るのもおかしい。


いやそれより驚いたのは知世の外見だった。知世とはこれまでに二度会っているが、これほど若いと思った事はない。これまでは高校生の娘が居ると言われても何の違和感もなかったのだが、今の知世は玉緒とさほど変わらないように見えるのだ。


「主婦がこんな事を言うと変に思われるかも知れませんね」

知世がちょっといたずらっぽい目でそう言った。


「あ、いえ……」

玉緒は慌てて笑顔を取り繕ってそう言ったが実際その通りだ。


「ご近所付き合いが多くて大変なの」

知世は少し言葉使いを崩してそんな事を言った。


「ああ、なんとなくわかります」

その言葉で玉緒もある程度は察した。


白金のタワマンに住む専業主婦ならご近所付き合いというか、つまり婦人会のような繋がりがある筈である。そしてそれは気の抜けない、しかも決しておろそかにはできない付き合いだ。しかも知世の立場を考えればさらに気が詰まる。


なにせ一家は去年こちらに引っ越してきたばかりの新参であり、さらにカガリヤHDの創業家の人間なのだ。表面上は持ち上げられるだろうが、裏に回れば何を言われるか判ったものではない。さらに見た目も若いとなれば気詰まりも一入ひとしおだろう。


「もう全然油断できないのよ、土日祝日なんてアラ今週は何があったかしらって」

知世は笑いながら小声でそう言った。


「それは油断できませんね」

玉緒も今度は作り笑いでもなく少し人の悪い笑顔でそう言った。


白金高輪という地域はつまり高級住宅街であり、そこで営まれるご近所付き合いには様々な要素が加味される。つまりどういうところに住んでいるとか、どういう生活をしているとか、夫の勤め先やら財産やら果ては家系や在住年数などなど。


そしてそれは単なる家格の背比べだけではく地域活動という大きな舞台もある。例えばどこそこで地域ボランティアなどが開催されたら新参の奥様など絶対にサボる訳には行かない。そんな事をすれば陰口どころか村八分になってもおかしくない。


一方で篝家は地域の在住年数は浅くても十代続いた老舗でありプライム企業の一角でもある。そんな「良血」をおろそかにできる訳はなく、そしてそれ自体が「地主」たる奥様方にとっては面白くなく、故に知世は気が休まる暇がないのだろう。


「だからこの姿で少しランニングして人目を避けてここで一休み」

知世は口角を釣り上げて笑いながらそう言った。


それなら一人で来れば良さそうなものだが、玉緒が誘われた理由はすぐに分かった。つまり知世は遠慮なく話せる相手に飢えていたのだ。


「もう婦人会の人との会話なんて鍔迫り合いよ、油断なんてできないからさ」

知世の口調はかなり砕けてきた。こうなるとほとんど同世代に思えてくる。


なるほどと玉緒は納得した。篝会長は知世をじゃじゃ馬と評したがそれは正確だったように思えてきた。今まではただのお金持ちの奥様という印象しかなかったが、この目の前の知世が本来の姿であるようだった。顔つきも何やら華やいでいる。


そして知世は愚痴やら皮肉やらをこぼしまくった。ただやはり良家の奥様なので陰湿な言い方にはならず、むしろ気風の良い笑い話になった。

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