第11話

子爵の「教鞭をとりましょう」という言葉の真意を測りかねていると、彼女はアニカに向き直った。


「ベルグリンド騎士爵。アシュワース家が今、何をしようとしているか、ご存じないようですね」


子爵はそう言うとすっと立ち上がり、部屋の隅にある書棚へと向かった。

彼女が手に取ったのは、一本の巻物だった。

席に戻った彼女は、テーブルの上にそれをゆっくりと広げた。

使い込まれた羊皮紙の地図が、私達の眼前に現れた。

子爵は地図の四隅を小さな文鎮で丁寧に固定した。


驚いた。


これほどの地図を私は見た事がない。

思わず身を乗り出して地図を覗き込んだ。

街道や川筋、そして諸侯領を示す境界線が精密に書き込まれている。


私がこれまで見てきた軍用の地図でさえ、主要な街道や都市が大まかに描かれているに過ぎない。

これほどの代物は、王宮の書庫にでもなければお目にかかれるものではないだろう。

子爵の指示棒が、王都から東へと伸びる一本の太い赤線を指し示した。


「貴女は先ほど『アシュワース家がこの公爵街道の延伸に投資しようとしている』と仰いましたね。ではお聞きしますが」


子爵は一呼吸おいて、鋭い視線をアニカに向ける。


「何故、アシュワース家がそのような事をする必要があるのでしょう?」


突然の問いに、アニカは言葉に詰まった。


「それは・・・トロン市との交易路を確保するため、では?」

「南方街道があるのに?」


アニカは言いにくそうに口ごもった。


「それは・・・貴領が、商人達を妨害していると・・・」


「私の妨害が原因、ですって? ふふ、お話が少し単純すぎますわね」と、子爵は穏やかな物腰で諭すように首を横に振った。


「まさか、あのアシュワース家が、このミズスレットルという地方領の、それも一介の商人達のためだけに、公爵街道に投資するとでもお思いかしら?あのような街道の延伸はあのアシュワース家をもってしても破綻しかねないほど莫大な資金がかかりますのよ。それに見合うだけの価値がその計画にはあったという事ですわ」


彼女はまるで出来の悪い生徒に教えるかのように、指示棒で地図を軽く叩きながら続けた。


「まず、商人貴族というものがどういう存在か、基本からお教しますわ。そもそも、このユサール王国における平民の商売というものは、実に単純な構造で成り立っておりますの。平民達が各々の村で作った物を街へ運び、そこで売る。ですが、その売り方には二つしかない。街を支配する者に買い叩かれるか、あるいは高い市場利用料を払って自ら売るか。そして、その街を支配する者を商人貴族と呼ぶのですわ。彼らは各町に商館を持ち、領主から専売特許を与えられて市場を経営する貴族。その商人貴族達の中で、各諸侯領において最も力を持つのが大商人貴族。アシュワース家はスタルボルグにおける大商人貴族。確かに、スタルボルグでの彼らの力は絶大でしょう。ですが、一歩外に出れば話は別。ヴィリヤ公爵領にも、ビャルナルヴィズル伯爵領にも、それぞれの大商人貴族がおります。彼らがすでに街に商館を構え、利権を握っている以上、アシュワース家が入る隙など本来はどこにもないのです」


子爵の言葉に、私は一つの可能性を口にした。


「では、平民の商人達がアシュワース家に懇願したのでは? 南方街道で貴女に妨害され、商売が成り立たなくなった者達が、スタルボルグの大商人貴族に泣きついた、とか」


私の問いに、子爵は楽しそうに目を細めた。


「スタルボルグの大商人貴族が、何故わざわざ他領の平民の訴えを聞く必要があるのかしら?」

「いくら他領の平民とはいえ、貴女の妨害で商品がスタルボルグに届かなければ、困るのはアシュワース家や他の商人貴族達も同じはずだ。理由としては十分ではないか?」

「ええ、理にはかなっておりますわね」


子爵はあっさりと認めた。


「ですが、それはあくまでこの南方街道の問題。アシュワース家があの公爵街道に莫大な投資をする理由にはなりませんわ」


子爵は、再び地図を指し示した。


「アシュワース家は議会でわたくしを責めるという、最も簡単な対抗策すら取ってはおりません。それどころか、私どもを完全に無視し、とんでもない計画を進めようとしています。公爵街道の延伸。本来であれば、国家予算を投じて行うべき大事業です。現に、ビャルナルヴィズル伯爵領が何年も議会に働きかけてきましたが、莫大な費用を理由に一度も承認されてはこなかった。それを、アシュワース家は王家も議会も通さず、己の財力だけで成し遂げようとしているのです」


子爵は一度言葉を切り、私達に問いかけた。


「さて、それを踏まえた上で、お考えになって。何故わたくしが、自らの首を絞めかねない、平民商人達への妨害などしているのかしら?」


私とアニカは顔を見合わせたが答えは出なかった。

子爵の問いに、私の頭は混乱を極めていた。

彼女が平民商人達を妨害する理由が、どうしても分からない。


何か手がかりはないかと、私は目の前の地図に意識を集中させた。

軍人である私には、そこに描かれた地形は手に取るように読める。


公爵街道をトロン市まで延伸するには、険しい山脈を越えなければならない。

そこに街道を通すなど、子爵が言う通り国家が傾きかねないほどの莫大な資金と時間が必要になるだろう。

いくら王都の大商人貴族といえど、アシュワース家がそれほどの資金を投じるメリットがどこにあるというのか。


そして何より不可解なのは、子爵自身の行動だ。

もし彼女が公爵街道の延伸を妨害したいのであれば、むしろ逆の事をするべきだ。

南方街道を通る商人達への税を軽くするなど優遇し、こちらの街道をより活性化させるのが筋ではないか。

そんな単純な理屈がこの怜悧な諸侯に分からないはずがない。


では、何故?


何故、彼女は自らの領地の価値を貶めるような真似をするのか。

全てが矛盾していた。


そこではっとした。


ひょっとして全ての前提が間違っているのではないか?

私は勝手に子爵の商人への妨害と、アシュワース家の公爵街道延伸計画を結びつけて考えていた。


だが、もしこの二つが全く関係のない事象だとしたら?


アシュワース家は、子爵の妨害とは何ら関係なく、独自の理由で公爵街道に投資しようとしている。

そして子爵もまた、公爵街道とは無関係に別の目的で商人達に何かをしている・・・。

私の表情の変化に気づいたのだろう。

子爵が、ふっと口元を緩めた。


「お気づきになられましたか?ええ、その通り。アシュワース家の公爵街道延伸計画と、わたくしが平民商人達にしている事。これらは繋がってはおりますが、原因と結果ではありません。それぞれが独立した事象なのです。わたくしが商人達に何をしようとしまいと、アシュワース家は公爵街道を延伸しようとするでしょう。そして、公爵街道があろうがなかろうが、わたくしは今のやり方を変えるつもりはない。いえ、『妨害』という言葉自体が、そもそもの間違いなのですわ。それはあくまで、平民商人達の主観に過ぎません」


「だが、商人達はそうは言っていなかったようだが? 街では貴女が不当な通行税を課していると、もっぱらの噂だ」


私の反論に、子爵は楽しそうに目を細めた。


「平民商人達を妨害したのではありません。一部の、そう、クヴィータヴァトン子爵領の商人だけを『優遇』し、特権を与えたのです。我が領ではあらゆる手続きはクヴィータヴァトン子爵領の者が優先されます。彼らであれば通行税も関税も安い。積み荷の検査すら行いません。ですが、他の領から来た者達にはこれまで通り、法に定められた厳格な検査を行い、適正な税を頂いているだけ。さて、これは傍から見れば妨害しているように見えるでしょう?」


なるほど、確かにそうだ。

理屈の上では何も間違ってはいない。

私が納得しかけたその時、すかさずアニカが口を挟んだ。


「本当にそうですか? クヴィータヴァトン子爵領を優遇しているというのは分かりました。ですが、本当に他の領の商人に対して、これまでと変わらない公正なやり方をなさっているのですか?」


その鋭い問いに子爵は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに優雅な笑みでそれを隠した。


「私はそのように命じたつもりでしたが。現場の者達が、行き過ぎた忠誠心から多少の手違いを犯す事もあるやもしれませんわね」


そのはぐらかすような物言いに、私は確信した。

やはり、彼女は意図的に他の商人達を妨害しているのだ。


「さて、どうやらわたくしがクヴィータヴァトン子爵領を優遇する理由は、お分かりにならないようですわね?」


子爵は私達に問いかけた。私にはさっぱり見当もつかなかった。


「もっとも、易々と分かられては困るのですが。よろしいでしょう、貴女方には特別にお話しいたしますわ。ですが、その答えを知る上で、まず貴女方が知ねばならない場所がございます」


彼女の指示棒が示した先は地図の北西。

我がハイザ家の領地、ソルトラン公爵領だった。


「ハイザ中隊長、貴女の家門であるソルトラン公爵家は一諸侯でありながら王宮を越えるほどの戦力を保持しています。その強大な軍事力を支える財源が、一体何だかお分かりになりますか?」


「えっと、塩です」


子爵は、私の答えに満足そうに微笑むと、「その通りですわ」と頷いた。


ユサール王国は内陸国であり、国民が消費する塩のほとんどは、北西の正統アストラル王国からの輸入に頼っている。

そして、その唯一の窓口を握っているのが、我がソルトラン公爵家なのだ。


「そして、そのソルトラン公爵領を脅かすものを、私は見つけましたの。ハイザ中隊長、それは何だと思いますか?」


塩の輸入の独占を脅かすもの?

それはいったいなんだろう。


大津国からの新たな輸入ルートでも見つかったというのだろうか。

あるいは、南方の東山国から塩を輸入できるようになったとか?

いや、東山国もユサール王国と同じ内陸国のはずだ。

塩が取れるとは思えない。

私が答えに窮していると、隣で息を呑む気配がした。

はっとしたように声を上げたのは、アニカだった。


「まさか・・・、岩塩ですか?!」


岩塩・・・、だって?

確か、塩気のある桃色の石だったか。

主に宮廷貴族が使う高級品だと聞いた事がある。

我が国でも輸入はされているが量は少なく、実物は見た事がない。


「その通りですわ」と子爵は頷くと、続けた。


「このクヴィータヴァトン子爵領で、巨大な岩塩の鉱床が見つかったのです」


へえ、それは凄いな。

私はただ、そう感心するだけだった。

だが、隣に立つアニカが、恐る恐る私の顔を窺うように口を開いた。


「中隊長殿・・・。これはソルトラン公爵領にとって、決して見過ごせない事態かと・・・」


どうしたというのだ、アニカ。

そんなに深刻な顔をして。

私のぽかーんとした間の抜けた表情を見たのだろう。

子爵は、まるで出来の悪い子を見るかのように、小さくため息をついた。


「ハイザ中隊長。貴女は、岩塩が何からできているかご存じないようですわね。あれも塩なのです。食卓に並ぶ、あの白い塩の代わりになるのですよ。もし国内で新たな塩の供給源が確保されたら、どうなると思われますか?」


岩塩が、塩の代わりに?

子爵の言葉に、私の頭の中でようやく点と点が線で繋がった。

国内で塩が取れるのなら、わざわざ高い金を出して正統アストラル王国から輸入する必要がなくなる。

国内で流通する方が、間違いなく安くなるはずだ。

いや、たとえ価格が同じだったとしても、我がソルトラン公爵領からの塩の出荷量は確実に減る。

それはつまり、ソルトラン公爵領の収入が激減するという事。

母上が、いや、ハイザ家がそれを許すはずがない。

これはクヴィータヴァトン子爵領は、一介の子爵でありながら公爵家である我が家と敵対しかねない事態を引き起こしているという事か。


「ええ、その通りですわ」


子爵は私の思考を見透かしたように、静かに頷いた。


「今のクヴィータヴァトン子爵は領地経営にまるで関心がなく、その家臣達がこの危険な宝の扱いに窮し、わたくしに助けを求めてきた。ですから、わたくしはクヴィータヴァトン子爵領を併合する事にしたのです。もっとも、あの領地も一枚岩ではありません。だからこそ、わたくしはクヴィータヴァトンの者達を優遇し、我がミズスレットル子爵領へ穏便に取り込もうとしていたのですわ」


子爵はそこで一度、深いため息をついた。


「ですが、その計画の最中に、予想外の事態が起きました。平民の商人をいくら妨害したところで、貴族は誰も気に留めません。ましてや、他領の平民がどうなろうと、より無関心ですわ。ですが、私達ミズスレットル子爵領は、こともあろうにアシュワース家の商人を妨害してしまったのです」


子爵は私達に問いかけた。


「貴女方は街で商人達に聞き込みをしていましたわね?その中に、アシュワース家の者がいた事に、お気づきになって?」


商人貴族は、交易を行う際に自分達で商隊を組む。

平民を信用していないからだ。

つまり、アシュワース家の名を名乗る商人であれば、それは必ず貴族のはず。


だが、アニーの報告では、商人貴族がいたなどという話はなかった。


それに、いくら諸侯といえども、商人貴族を直接妨害するとは考えにくい。

それは他領との戦争に発展しかねない危険な行為だ。


「そう、私達もそこを見落としておりましたの」


子爵は、まるで忌々しいものでも語るかのように続けた。


「今もこのアールヴィクに、アシュワース家の商人がいるのです。そしてそれは貴族ではなく、平民なのです。アシュワース家は、平民を『雇用』したのです」

「雇用・・・?」

「ええ、雇用ですわ」


子爵は一度、言葉を切ると、ゆっくりと席を立った。


窓辺へと歩み寄り、外の景色に目を向けながら、独り言のようにつぶやいた。


「平民に商品を任せれば盗むか持ち逃げする。それが我々貴族の常識でした。ですから、平民だけで商隊を組ませる事など、これまで考えられもしなかった事ですわ」


雇用・・・?

貴族が平民を永久にだと・・・?

そんな話はこれまできいた事がない。


「もちろん、商隊を組む際に一時的に平民を雇う事はあります。ですが、アシュワース家がしたのはそのような一時しのぎではありません。彼らを永久に雇用し、アシュワース家専門の商人としたのです。これまでの商人達は、自身の商品が売れなければ収入が一切なくなる。不作の年には立ち行かなくなる者もおりました。ですが、アシュワース家は彼ら平民商人を雇用し、固定給を払う事にした。安定した生活を得られるようになった彼らが、商品を盗んだり、持ち逃げしたりする必要がどこにありますか? さらにおそらく、アシュワース家はこれまで諸侯領を通過する際の手続きや通行税の支払いを、平民達に代わって一括で行う事で、円滑な物流体制を築こうとしているのでしょう」


彼女はそこで、ふう、と深いため息をついた。

聞けば聞くほど、常識からかけ離れた話だった。

平民を雇用し、固定給を払い、通行税まで代行する。

それはもはや商売のやり方ではない。

国家の兵站システムそのものではないか。


「私は、私達ミズスレットル子爵領は、それに気づかなかった。我が家とアシュワース家の対立は、令嬢同士の色恋沙汰だけではないのです。分かりますか? これまでも、貴族の名を騙って商品を運んだり、中には家紋を偽装して税関を抜けようとする平民は後を絶ちませんでした。貴族が一人も伴わない、平民だけの商隊など、これまでは税を逃れるための偽装か、あるいは盗賊の類と相場が決まっておりましたから。ですから、私達はアシュワース家に雇われたと自称する商人達の事も、いつも通りの、税関を早く通過したいがための方便だと勘違いしてしまったのです。まさか、本当に雇用されている商人がいるなどとは、考えもしませんでしたわ」


子爵は悔しそうに唇を噛んだ。


「最も、その勘違いをしたのは現場の兵士達ではありますが、その責任は諸侯である私にあります。私はすぐにアシュワース家に謝罪を申し込みましたが、ここで足を引っ張ったのが、あの馬鹿娘のシレイナです。あの娘がクラリッサ様と対立したばかりに、私は門前払いを食らったのです」


彼女の声に、抑えきれない怒りが滲んだ。


「考えてもみてください。娘の素行は悪い。貴女が阻止した夜会襲撃事件にも関わっている。そんな娘の母親が、地方の、田舎の諸侯が謝罪に訪れたところで、アシュワース家が門を開けると思いますか? 私は交渉のテーブルにすら、つけなかったのです」


彼女の指示棒が、今度は地図の東端、トロン市を指し示した。


「そんな折に発生したのが、今回のトロンの暴動でした。暴動が長引けば、ラウザサンドル伯爵領の混乱は避けられない。そうなれば、公爵街道の計画は止まります。その間に、何としてでもクヴィータヴァトンの者達を懐柔し、岩塩を手に入れる必要があった。だからこそ、先行部隊を妨害したのです」


全ての駒が、盤上に並べられた。

その壮大で緻密な計画に、私はただ圧倒されるばかりだった。


「ですが、それも話が変わりました。その先行部隊の隊長が、貴女だとは。ソルトラン公爵ハイザ家三女、シグリッド・ハイザ。そして、アシュワース家のご子息を婿に迎えるアニカ・ベルグリンド騎士爵。ええ、貴女方お二人が揃ったのですから」


彼女はそこで言葉を切り、私達二人を交互に見つめた。

その瞳には先ほどまでの冷徹さとは違う、新たな可能性を探るような光が宿っていた。

彼女の指示棒が再び地図の上を滑った。

今度はクヴィータヴァトンから産出される岩塩が、ミズスレットル子爵領を通り、南方街道を通って王都へと運ばれる、新たな黄金の道筋を描き出した。


「ソルトラン公爵家の三女である貴女と、アシュワース家のご子息を婿に迎えるベルグリンド騎士爵。貴女方お二人の協力を取り付けられるのであれば、もはや危険な賭けに出る必要はなくなります。トロンの暴動を長引かせる必要どころか、クヴィータヴァトン子爵領を併合する必要すらないのです。すでにあるこの南方街道をアシュワース家と共に強化し、岩塩もまた、貴女のハイザ家の名を借りて共同で開発していく。その方が、よほど確実で、より大きな利益を生むでしょう」


子爵はそこで一度、言葉を切った。

ふふ、と彼女は楽しそうに笑みを漏らすと、すっと立ち上がった。

そして、まるで音楽が聞こえているかのように、軽やかなステップで地図の周りを回り始めたのだ。


優雅なワルツの調べに合わせるかのように、くるり、と一度ターンする。

その動きは、老齢を感じさせないほど滑らかで、それでいて見る者を圧倒するような威厳に満ちていた。


私とアニカは、ただ呆然と、その奇妙で美しい光景を見つめるしかなかった。

戦場でもなく、舞踏会でもない。

緊迫した交渉の場で、彼女は一人、勝利の舞を踊っているのだ。

一通りのステップを終えると、彼女は再び私達に向き直った。


「アニカ・ベルグリンド騎士爵。貴女がここでご自身の素性を名乗られた時、私は思わずその手を取って、共にダンスを踊りたくなったほどですのよ。貴女方お二人は、アシュワース家とハイザ家、双方との交渉の窓口となり得る。わたくしは、このミズスレットルにアシュワース家の商館が立っても良いと考えております。ええ、公爵街道だけではなく、この南方街道もまた、アシュワース家の商業革命に乗るべきだと。そしてハイザ中隊長。貴女はソルトラン公爵家との交渉の窓口となる。貴女が考えているよりも、その爵位というのは重いものです。諸侯といえど、わたくしは所詮子爵。公爵家とは身分が違いすぎ、これまで交渉の糸口すらありませんでした。わたくしは貴女方に、そうですね、アシュワース家の商館を今すぐ建てろとか、岩塩の流通に目をつぶれとか、そのような荷の重い事を申し上げるつもりはありません。ですが、交渉の窓口となっていただきたい。つまり、わたくしをアシュワース家の次期当主であるクラリッサ様、そしてハイザ家の方々との交渉の席に着かせていただきたいのです。その引き換えに、貴女方の通行を許可いたしましょう」


子爵の話の半分も、私には理解できていなかった。

だが、通行許可と引き換えに、私達が交渉の窓口になるという提案だけはかろうじて飲み込めた。


しかし、その提案を受け入れる事は私にとってあまりに重い決断だった。

政治的な駆け引きなど、これまで一切関わってこなかった。

ソルトラン公爵の娘でありながら、ハイザ家の政治には何の興味も示さず、ただの一軍人として生きてきたのだ。


そんな私が、交渉の窓口など務まるはずがない。

そして何より、問題は岩塩だ。


我がハイザ家の、ソルトラン公爵領の独占を脅かす、危険な存在。

その岩塩を狙ってる子爵との窓口になる。

それは我が家を裏切る事に他ならないのではないか?

姉上達は、私を許してくれるだろうか?

私が葛藤していると、隣に立つアニカが一歩前に進み出て、子爵に深く一礼した。


「子爵閣下。そのお役目、謹んでお受けいたします。アシュワース家との交渉の場を、必ずや設けさせていただきます」


凛とした、迷いのない声だった。

その勢いに呑まれるように、私は気づけば頷いていた。

結果的に、私もまた、ミズスレットル子爵領とソルトラン公爵領との窓口となる事を、了承してしまったのだ。

重々しく頷くと、子爵は満足そうに微笑んだ。


「ええ、賢明なご判断です。ですが、ハイザ中隊長。これでは、ただわたくしの要求を呑んだだけになってしまう。わたくしは、貴女方と対等な関係を築きたいのです」


彼女は、今度は真っ直ぐに私の目を見て言った。


「ですから、これは取引ではなく、『契約』といたしましょう。貴女方がアシュワース家との橋渡しとなる見返りに、わたくしは通行を許可するだけでなく、今後、ミズスレットル子爵領はソルトラン公爵家、いえ、貴女個人の友好勢力となる事をここに誓います。我が領は小さいですが、この約束は必ずや、未来の貴女の助けとなるでしょう。腐敗した者達に囲まれて、貴女が孤立しないための、ささやかな布石ですわ」


交渉が終わり、私達が部屋を辞去しようとした、その時だった。


「ベルグリンド騎士爵」


子爵が、アニカを呼び止めた。


「本格的に、貴族になるおつもりはなくて?」


アニカは驚きに目を見開いた。


「と、申しますと?」

「これはもう一つ、我が家。いえ、ミズスレットル子爵領の問題ですが、この領地には後継者がおりませんの」

「シレイナ様がいらっしゃるのでは?」


「あの娘を後継者とするつもりはありません。あれは本当に愚かな娘です。貴族とは本来、血によって受け継がれるものですが、例外を認める法もございます。私の養子となれば、貴女はこのミズスレットル子爵領を継ぐ事もできますのよ。貴女は平民にしては聡明で、その騎士爵は実力で勝ち得たもの。それこそが、我ら貴功派が本来目指すべき姿です。あの娘のように、現実味のない夢を語り、他者を傷つける事とは違います」


子爵の突然の提案に、アニカは言葉を失っていた。

私もまた、驚きのあまりただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


「身に余るお言葉、恐縮に存じます。ですが、今の私には、ハイザ中隊長殿の元で、特務中隊の仲間達と共に任務を全うするという、果たすべき務めがございます。そのお話は、あまりに大きすぎますわ」


絞り出すような、しかし凛としたアニカの声に子爵は静かに目を細めた。


「そうですか。ですが、貴女の未来を案じて、一つだけお伝えしておきますわ。貴女はご自身の力で騎士爵を得た、稀有な存在。確かに、貴女の後ろにはハイザ家という巨大な盾があるでしょう。ですが、その盾がどれほど諸刃の剣か、貴女はまだご存じない。ハイザ家は、その強大さ故に、王国のあらゆる貴族から疎まれ、妬まれている。その盾は、敵の攻撃を防ぐと同時に、新たな敵を呼び寄せるのです。貴女のお立場はこれから始まる政争の嵐の中では、あまりに危うく、無防備ですわ。アシュワース家はその商業革命によって、これから多くの敵を作る事になるでしょう。他の大商人貴族達は、目の敵のように彼らを潰しにかかる。その後ろ盾である諸侯達も、決して黙ってはいないはず。その時、ハイザ家という敵の多い盾ではなく、このミズスレットル子爵という地位こそが、貴女と、そしてアシュワース家を守る真の盾となりましょう。私の老婆心、心の隅にでも留めておいてくださいな」


子爵の言葉は、もはや交渉ではなかった。

それは、未来を見据えた、一つの忠告。

あるいは、抗いがたい誘惑のようにも、私には聞こえた。

そして、彼女は最後に、私へと向き直った。


「ハイザ中隊長殿。貴女にも、一つだけ」


その声は先ほどまでの冷徹さが嘘のように、穏やかで、どこか慈しむような響きを持っていた。


「貴女は、絶大な権力と武力を持つソルトラン公爵家の三女でありながら、その渦中にある政治闘争に、あまりにも無関心で、無知でいらっしゃる。ですが、私はそれを決して責めているわけではありませんのよ。むしろ、その純粋さと優しさは今の貴族社会では失われつつある、得難い美徳です。貴女は貴族らしくもなく、かといって平民らしくもない。実にこのユサール王国において稀有な存在ですわ。その素直さを、どうか失わないでいただきたい。率直に言えば、私は貴女のような方にこそ、ソルトラン公爵になっていただきたいと、そう思っておりますの」


「私が、公爵に・・・?」


思いもよらない言葉に、私は戸惑うばかりだった。


「ですが、ソルトラン公爵家は、姉が継ぐものと。私は三女ですから」


「王妃であるアストリッド様は、ハイザ家の中では確かに貴女と同じく、非常に珍しいお方。ですが、王妃は諸侯領を継ぐ事はできません。公爵には、なれないのです」


「いえ、ですが、イングリッド姉上がいらっしゃいます」


子爵は、私がイングリッドの名を出すと、わざとらしく悲しそうに目を伏せた。


「貴女の二番目のお姉様は、貴女のお母様に、あまりにもそっくりですわね。貴女は、お母様に育てられてはいらっしゃらないのでしょう?」

「母上は、ほとんど戦場に出ていらっしゃいましたから。あまり、お会いする機会はありませんでした」


「それは、良かった」

子爵は、心底安堵したように、そう呟いた。


そして、次の瞬間。彼女の表情から一切の感情が消え失せた。


「娘である貴女に言うべき事ではないのかもしれませんが、貴女のお母様は王国の貴族で最も腐敗した人物ですわ」


その冷たく言い放たれた言葉に、私は息を呑んだ。


「そして、そのお母君にそっくりなのが貴女のお姉様、イングリッド・ハイザです」


私は、内心で少しむっとした。

母の事はよく知らない。

確かに良い評判など聞いた事もない。


だが、私が心から敬愛するイングリッド姉上を、悪く言われるのは我慢ならなかった。

確かに姉上の評判が芳しくない事は軍にいた頃から嫌というほど耳にしていた。

だから、仕方がないのかもしれないが・・・。


みんな、本当の姉上を知らないだけなのだ。

本当の姉上は、あんなにも優しい方だというのに。


結局、交渉は子爵が描いた筋書き通りに進み、私達は通行許可を得るという当初の目的こそ達成したものの、私の心には鉛のような重りが沈み込んだままだった。


アールヴィク城を出て野営地への帰路につく間も、アニカが隣で何かを気遣わしげに話しかけてくれていたが、その言葉はほとんど頭に入ってこなかった。

野営地に戻ると、私達の帰りを待っていたヨレンタが、私の表情から全てを察したようにほっと息をついた。

アニカが交渉の成功を伝えると、その報せは瞬く間に中隊全体へと広がり、それまで重く垂れ込めていた停滞の空気は歓声と共にかき消された。


「やったわ!」

「これでやっと先に進めるのね!」

「さすがです、中隊長殿!」

「アニカ小隊長もお見事よ!」


屈強な女兵士達は口々に喜びの声を上げ、鍛え上げられた腕で互いの肩を力強く叩き合っている。

昨日までの不満げな表情はどこにもない。

中には、私の名を呼んで称賛の声を上げる者もいた。

だが、その声援は、今の私にはむしろ針のように突き刺さるだけだった。


この成功は、私の力ではない。


いや、そもそも成功だったのか?

子爵に手の上で踊らされ、アニカの強い意志に流された結果に過ぎない。

その事実が兵士達の純粋な喜びに水を差すようで、私はただ曖昧に微笑んで見せる事しかできなかった。


明日の早朝には、私達はアールヴィクを発つ。

その決定に中隊の士気は最高潮に達していた。

だというのに、私の心は晴れぬままで、到底眠れそうになかった。

テントの中でじっとしている事に耐えきれなくなった私は、一人、野営地を抜け出した。


向かった先は、昼間渡ったアール川に架かる壮麗な石橋。

月明かりが、まるで銀粉を振りまいたかのように川面を照らし、その流れは静かな光を放ちながら夜の闇へと溶けていく。

欄干に肘をつき、冷たい石の感触を確かめながら、私はただ無心にその光景を眺めていた。

背後で、砂利を踏むかすかな音がした。振り返るまでもない。


「眠れないのですか、中隊長殿。明日は遅れを取り戻す為に、強行軍になります。今のうちに休んでおいた方がよろしいのでは?」


いつの間にか隣に立っていたヨレンタが、静かに問いかけた。

その声は、夜の静寂に溶け込むように穏やかだった。

私は彼女の方を振り向いた。


「貴殿は、間違っていなかったな」

「何の話です?」


不思議そうに小首を傾げる彼女に、私は自嘲気味に息を吐いた。


「私が中隊長に任命されてから、ずっと、軽い神輿だった」


その言葉に、ヨレンタは驚いたように目をわずかに見開いた。

そして、気まずそうに視線を逸らした。


「あれは、言い過ぎました。すみません」


「いや」私は首を振った。


「貴殿にしては珍しく、的を射ていた。責めているわけではない。むしろ、責めたいのは私自身だ」


私は再び川面に視線を戻し、堰を切ったように言葉を続けた。


「中隊長になってからというもの、私は何をした?厩舎や馬の手配は全て貴殿に頼りきり。大隊長達の会議では、ただそこに立っている事しかできなかった。そして今日だ。子爵を説得する事もできず、アニカに全てを委ねた挙句、逆に子爵から教鞭を振るわれ、貴族としての自覚を諭される始末だ」


やり場のない怒りと不甲斐なさが、胸の奥から込み上げてくる。


「この橋の名前を知っているか?」


唐突な私の問いに、ヨレンタは「いいえ」と静かに首を振った。


「そこの欄干に書いてあった。ヴィクトリア橋、というそうだ」


私は橋の欄干を指さした。


「約千年前、当時の第二王妃ヴィクトリアによって建設された橋だ。この橋のおかけで、この辺りの物流は飛躍的に発展したらしい。碑文には、王妃への感謝と賞賛の言葉が刻まれていた。ヴィクトリア・ハイザ。我がハイザ家の、伝説的なご先祖様だ」


偉大な先人達の顔が、次々と脳裏に浮かんだ。


「祖母上は、卓越した指揮で包囲された絶体絶命の窮地を覆し、逆に敵軍を包囲殲滅したという。母上は、たった一人でアブラカワ人民共和国軍一万人を壊滅させた。アストリッド姉上は、その政治手腕で国民から絶対的な支持を得る第三王妃。イングリッド姉上は、最年少で連隊長に就任し、一度も味方に損害を出さずに敵を退け続けた奇跡の指揮官だ」


そこまで一気に言うと、私は言葉を切った。


「では、私はなんだ?一個の兵士として剣を振るうなら、誰にも負けはしなかった。馬上で槍を構え、敵陣に突撃する。それだけが私の全てだった。だが、今はどうだ。中隊を率いるという立場になった途端、私はただの飾り物になってしまった。ただただ、顔がいいだけの女だ。神輿とは、よく言ったものだ。私はまるで飾られた絵画のように、ただ立ってほほ笑んでるだけじゃないか。私ほどの美人だ、絵にはなるだろうが。だが、貴殿達に担がれて、ただそこにいるだけだ。何もしていないし、何もできていない・・・」


「自画自賛をしたいのですか、それとも自己嫌悪に陥りたいのですか。どちらかにしてください。困ります」


ヨレンタが、いつもと変わらぬ冷静な、それでいて心底呆れたような声で言った。

そして、彼女はわざとらしく芝居がかった動作で私の前に立つと、私の口調を真似て、こう言ったのだ。


「『だから貴殿が必要なんだ。いつも通り頼むぞ、曹長』」


以前私が彼女に頭を下げた時の、あまりに大げさな再現に、私は思わず噴き出してしまった。

重く沈んでいた心が、少しだけ軽くなるのを感じた。


「ふっ・・・はははっ。なんだそれは?私は、そんなに演技がかった仕草はしないぞ」

「貴女は確かに顔がいいですが、顔がいいだけの女ではありません」


笑い続ける私に、ヨレンタは今度は真剣な眼差しを向けた。


「私は、貴女だからその神輿を担ぎたいのです。アニカ小隊長が、子爵に養子の話を持ちかけられたそうですね。彼女は断ったと聞きました」


ヨレンタは続けた。


「私達平民にとって、それはとんでもない出世です。一度は貴族の世界に憧れる。それでもアニカは断った。貴族の世界に入りたくなかったから?自由でいたいから? 違います。彼女はアシュワース家のミハイル様と婚約している。もう貴族の世界からは離れられないし、自由もない。何より、貴族の申し出を平民が断るには、大変な勇気がいるのです。それでも彼女が断ったのは・・・。貴女です、中隊長」


彼女の言葉が、私の胸に静かに染み込んでいく。


「私も、アニカも。そして、あの猪もです。私達は、貴女という神輿を担ぎたい。何もできなかった?いいではありませんか。貴族とはそういうものです。貴女が実務的な事ができなくとも、そのお人柄で、できる者を集め、お使いなさい。それこそが、貴女の務めです」


ヨレンタの言葉が、凍てついていた私の心に、じんわりと染み渡っていく。

お人柄、か。武勇でもなく、知略でもなく、ただ、私という人間そのものに価値があるのだと、この皮肉屋の親友は言ってくれている。


「私に、そんな価値が、あるのだろうか」


かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しく、震えていた。

ヨレンタは、そんな私の姿に深いため息を一つ落とした。


「どうしたのですか、らしくありません。ほら、行きますよ。子爵から、差し入れに上等な茶葉をいただいています。たまには私が淹れてあげますから、元気を出してください」


その声はいつもの皮肉めいた響きはなく、ただただ優しかった。

私は一度、アールヴィク城の方を振り返った。

貴族というもの。


人の上に立つという事。


私に、その資質があるのだろうか。

改めて思った。


私は神輿を担ぐ側の方が、よほど向いている。

何も考えず、ただ戦場を駆け抜ける方が、ずっと性に合っているのだ。

姉上の下で、何も考えずに剣を振るっていられたら、それで良かったのに。


ああ、姉上に会いたいな。


不意に込み上げてきた強い思慕を胸に、私はヨレンタの後を追って静かにテントへと戻った。

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