第7話

新暦1527年9月13日。


秋の気配が色濃くなり始めた王都スタルボルグ。

乾いた風が第一連隊兵舎の窓を心地よく揺らしていた。

数週間にわたって私を悩ませ続けていた軍馬と厩舎の手配がようやく片付いた。

ハイザ家の名を使い、各所に多少の無理を通した結果ではあるが・・・。

何はともあれ、目前に迫った大規模演習の体裁は整ったのだ。


私は安堵のため息をつき、執務室で優雅に紅茶を嗜んでいた。

机の上には、演習の最終確認に関する書類が山と積まれている。


だが、今は見ないふりを決め込む。

これくらいの息抜き、許されて然るべきだろう。


「それにしても、妙ですね」


向かいの席で、帳簿の山と相変わらず格闘していたヨレンタが、ふと顔を上げて呟いた。


「何がだ?私が少しばかり休憩しているのが、そんなに気に食わないか。書類なら後でやる。貴殿と違って、私は頭を使うと甘いものが欲しくなるんだ」


いつも嫌味ばかり言われているのだ。たまには、こちらだって言い返したくもなる。


「いいえ、貴族様が仕事を先延ばしにするのはいつもの事ですから、今さら妙だとは思いません。演習のために集積されている物資の話です」


ヨレンタは冷めた視線を私に向ける。

その瞳は、いつもながら私の思考の浅さを見透かしているようだった。


「今回の演習は、表向きは『将来の国外遠征を想定した長距離兵站能力の総合検証』という名目でしたね。来る9月15日、ここからほど近い丘陵地帯で、我が第一連隊と第二連隊が赤軍と青軍に分かれて模擬戦を行う。実質的には、一日で終わるはずの演習です」

「表向き、か。まるで裏があるような言い方だな。また貴殿の悪い癖が始まった」

「ええ、それは自覚しています。ですが、それにしてもこの物資の量は異常です」


彼女は手元の調達リストを、とん、と指先で軽く叩いた。

その乾いた音が、室内の静けさに妙に響いた。


「貴族の方々の考える事が、我々庶民には到底理解しがたいほど壮大で、物資の采配も大味なものだとは存じておりますが・・・。それにしても、です。この食料の量、分かりますか?さしずめ、どこかの女爵領の地方都市が一年は暮らせるほどですよ。それに、この槍の数。たった一日の演習で使い潰すには、あまりに数が合いません」


「まぁ、確かに。私も書類に目を通したとき、少し気にはなっていた。だが、これだけの規模の演習だ。予備のまたその予備まで考えているのだろうと、そう思うようにしていたが」

「その予備の量を遥かに超えています。私も計算は得意ではありませんが、それでもおかしいと分かるほどですよ」


「長距離兵站能力の総合検証なのだろう?ならば、何も演習だけで消費するとは限らんではないか。それに、私たちには知らされていない使い道もあるのかもしれない。だいたい、演習の全体計画を我々が知らないのに、あれこれ勘ぐっても仕方あるまい」

「それは、その通りですが・・・」


ヨレンタが何かを言いかけた、その時だった。


「失礼しますッ! シグリッド・ハイザ中隊長殿!」


慌ただしいノックとともに、若い男の当番兵が息を切らして部屋へ飛び込んできた。

その表情が、ただ事ではない事態の到来を如実に物語っていた。


「緊急事態です! 大隊長各位が至急、第一会議室へお集まりとの事ッ!中隊長殿も、ヨレンタ曹長も、すぐにお越しくださいと!」


私とヨレンタは、思わず顔を見合わせた。

緊急事態?

いったい何が・・・。

疑問を抱く暇もなく、私たちは当番兵の後に続き足早に会議室へと向かった。


重厚な扉を開けると、室内はすでに張り詰めた空気で満ちていた。

円卓を囲むように第一連隊・第二連隊の屈強な大隊長たちが、それぞれ副官を伴って顔を揃えている。


第一連隊からは

第一大隊長エリン・オロフソン

第二大隊長エリス・ベックストレーム

第三大隊長マグダレーナ・ノルディン


第二連隊からは

第一大隊長エレオノール・ニーストレム

第二大隊長アウスディース・フンフフン

第三大隊長モイラ・リンドホルム


誰もが歴戦の勇士としての貫禄をその身にまとい、静かでありながら圧倒的な威圧感を放っていた。

エレオノール中佐は優雅にティーカップに口をつけ、アウスディース中佐は眉間に深い皺を刻みながら、何事か思索に耽っている。

エリス中佐は椅子に深くもたれ、腕を組んだまま、面白くなさそうに唇の端を歪めていた。

マグダレーナは背筋を真っすぐに伸ばし、緊張した面持ちでテーブルの一点を見つめている。

そして、私の元上官であるモイラ中佐は部屋の隅で腕を組み、彫像のように微動だにせず、その鋭い眼光で、私たち一人ひとりを値踏みするように見据えていた。


だが、この場にいるはずの最重要人物。

第二連隊長、ミレナ・エンケル大佐の姿が見当たらない。

その不在が、室内に漂っていた張り詰めた空気を、さらに冷ややかに引き締めていた。


ざわめき一つない会議室。

円卓を囲む大隊長たちの視線が、互いを探るように交錯する中。

やがて、第一連隊第一大隊長のエリン・オロフソン中佐が、静かに、そして重々しく口を開いた。


「皆、集まってもらったのは他でもない。今朝方、王都に緊急の報せが届いた。

ラウザサンドル伯爵領の都市トロンにて、大規模な暴動が発生した」


『暴動』その一語が告げられた瞬間、室内の空気が微かに震えた。

誰一人として顔色を変える者はいない。


だが、沈黙が物語る。


言葉にはならぬほどの緊張が、その場に満ちていた。

私もまた、胸の奥底でじわりと広がる冷たいものが沈んでいくのを感じていた。

エリン中佐はそうした場のわずかなざわめきさえ封じ込めるように、さらに声を落として続けた。


「現在、王宮では緊急の王妃評議会が招集されており、ミレナ連隊長もそこに出席されている。評議会の決定はまだ下されていないが、状況から見て、我々に出動命令が下る可能性は極めて高い。よって、本日より合同演習の準備は一時中断。すべての部隊は、議会の正式な決定が下るまで、それぞれの駐屯地にて待機せよ。以上だ」


その命令はあまりにも簡潔で、そしてあまりにも静かだった。

だからこそ、それは鋭い刃のように私の胸を深く突き刺してきた。

空気が重く沈んだまま、誰も言葉を発しない。

ただ命令だけが淡々とその場に残され、会議は静かに解散となった。


「トロン、ですか。まさか、本当に反乱が起きるとは」


部屋に戻るなり、ヨレンタが苦々しげに呟いた。


「どういう事だ?貴殿は何か知っていたのか?」

「ご存じないのですか?」


ヨレンタは、心底呆れたような表情で私を見た。


「トロン市は我が国の南東、大津国との国境に位置する、大陸でも有数の交易都市です。特に、大陸随一の茶の産地であるカラカル共和国の最高級茶葉は、ほとんどがトロン市を経由して運ばれてきます。貴族様が特別な茶会でしか口にできないような、あの貴重な茶葉も、です」


私にとっても、トロン市の認識はその程度のものだった。

美味い茶葉が手に入る、遠い街。

それ以上でも、それ以下でもなかった。


「ですが」と、ヨレンタは続けた。


「トロン市が、かつて大津国の領土だった事は、ご存じでしょう?」

「ああ、それは歴史で習った。だが、平和的に割譲されたのではなかったか?」


「トロン市に住む、大津国の紋章。百合紋章を持つ人々は、そうは思っていません。彼らはユサール王国に支配されていると感じ、今もなお、大津国への帰属を強く望んでいます。無理もありません。彼らは翼紋章人ではなく、百合紋章人なのですから」


私は深いため息をついた。その話の先にあるものが、容易に想像できたからだ。


「つまり政治、というやつか。まったく、うんざりする」

「そうですね。本来であれば、貴方様のようなご身分の方が、誰よりも詳しくなければならない、その『政治』というやつです」


ヨレンタの言葉が、鋭く胸に突き刺さった。


「そういうのは苦手だ。それに、貴殿は私を貴族、貴族と呼ぶが、私はハイザ家の三女だぞ? 貴殿も知っての通り、私には政治力などというものはない。今はただの中隊長にすぎん」


「いいえ。『特務』中隊の中隊長、ですね。普通の中隊長ではありません」


「また貴殿は嫌味な言い方を・・・」

「事実です」


ヨレンタはきっぱりと言い切った。

でもその通りだった。

私が率いるのは、姉上がそして第二王妃ヘンリエッタ様が、何らかの意図をもって新設した、特別な部隊なのだ。


「それよりも問題は」と、ヨレンタは話題を変えた。


「トロン市のあるラウザサンドル伯爵領まで、この王都からおよそ七百四十キロメートルも離れているという事です。あまりに遠すぎます」

「そんなにか。我々が到着する頃には、とっくに大津国に編入されててもおかしくないな」


「状況が不明なので、何とも言えませんが・・・。ただ一つ、分かっている事が。いえ、懸念があります」


ヨレンタは、珍しく口ごもり、言いにくそうに視線を伏せた。


「貴殿らしくないな。はっきり言ったらどうだ?」

「明日にでも全軍が出撃可能なほどの物資は、すでにこの王都に集まっています」


その言葉に、私ははっとした。

演習のために集められた、あの異常な量の物資。


「先月の、第二王妃ヘンリエッタ様の仰々しい御幸といい、今回の演習といい。そしてこのタイミングでの暴動。やはり、これは・・・」


「ヨレンタ」


私は、彼女の言葉を遮った。

これ以上、その先を聞きたくなかった。


「確かに、貴殿の言う通りだろう。私も馬鹿ではない、それくらいの事は分かる。だがそれを勘ぐってどうする?私はハイザ家の三女だが、今はただの中隊長で、貴殿はその副官でしかない」


ヨレンタは唇を噛み、悔しそうな顔で黙り込んだ。


「・・・、すみません。出過ぎた事でした」


「いや」私は首を振った。


「貴殿のその思慮深さに、これまで何度も助けられてきた。叱責しているわけではない。ただ、私たちがどれだけ勘ぐろうとできる事は何もないと言っているんだ。私は貴族の娘ではあるが軍人だ。貴殿も同じだろう。どのような思惑が渦巻いていようと、我々は下された命令に、ただ従うしかない」


「それは、そうですが・・・。ですが、もしトロン市の鎮圧を命じられたら・・・」


ヨレンタの声には、隠しきれない抵抗感と嫌悪が滲んでいた。

市民に武器を向ける事への、彼女なりの葛藤。


「おそらく、そうなるだろう。それは、貴殿にも分かっているはずだ」


彼女の気持ちは、痛いほど分かった。

だが、私は彼女よりもそして自分自身よりも冷徹にならなければならなかった。


「いつだったか。姉上が出立された日だったか・・・。貴殿は私に、『ノブレス・オブリージュ』という言葉を教えてくれたな」

「えぇ・・・、確かに言いました」

「ソルトラン公爵家、ハイザ家は代々続く軍人の家系だ。軍人として国に尽くす事。それが私の、高貴なる者の義務だ。だから、私は躊躇わない。この先に、どれほどの惨劇が待ち受けていようとも。貴族として、軍人としての責務を、私は全うする」


私は、自分自身に言い聞かせるように強く言った。


ハイザ家の娘として、この血に課せられた義務からは逃れられない。

たとえその道が、市民に槍を向けるという騎士の誇りを踏みにじるものであっても。

それこそが、私が背負うべき『高貴なる者の義務』なのだ。


だが、その言葉とは裏腹に、私の内側では恐怖が渦巻いていた。


アブラカワ人民共和国との国境紛争が、私の初陣だった。

初めて人を殺めたときの、手の震えと吐き気。


今でも忘れられない。


山賊を討伐した事もある。

だが、彼らは侵略者であり、犯罪者だった。


しかし、今回はどうだ。

相手は、「暴徒」と化した市民だ。

たとえ他紋章の民であったとしても、彼らは紛れもなくユサール王国の統治下にある民なのだ。

その鎮圧を、私は間もなく命じられる。

市民相手に、この手で剣を・・・。


槍を振るう事になる。

それは、本当に。

誇りある貴族の、軍人の任務と言えるのだろうか。


その日の夕刻、私と大隊長たちは再び第一会議室に招集された。

今度は、その場に第二連隊長ミレナ・エンケル大佐の姿があった。

彼女の険しい表情が、事態の深刻さを物語っている。


「まったく、人生とは皮肉なものだな。つい昨日まで我々は、丘陵での遊戯に備えて槍を磨いていたというのに・・・。どうやら、本物の舞台が我々を待っているらしい。それも、お世辞にも喜劇とは言えん。血の匂いがする舞台が、な。さて、長々とした議論の末、王宮の御歴々の腹もようやく決まったようだ。我々は明日、トロン市へ向かう。表向きの目的は『暴徒の鎮圧』。実に、簡潔で、そして無味乾燥な言葉だよ」


ミレナ連隊長の言葉は、静かでありながら会議室の空気そのものを支配するような重みを持っていた。

誰もが、いずれは来ると予期していた出動命令。

だが、彼女の口から語られると、それは単なる命令以上に不吉な響きを帯びて聞こえた。


「そして、この“暴徒鎮圧”のために、王宮の方々はずいぶんと気前よく兵を割いてくださった。演習のために集めた第一・第二連隊の六個大隊は言うに及ばず、王国騎兵隊、王立弓兵隊、果ては王国工兵隊までな」


そこで、アウスディース中佐がすっと手を挙げ、発言を求めた。

ミレナ連隊長は、かすかに眉を動かし無言でそれを許す。


「失礼ながら、連隊長殿。その派兵規模は、あまりに過大ではありませぬか?トロン市は、大津国との国境に位置しております。これほどの大軍を動かせば、かえって大津国を不必要に刺激し、彼らに介入の口実を与えることにもなりましょう。下手をすれば全面戦争の引き金ともなりかねません」


アウスディース中佐の理路整然とした問いに、他の大隊長たちも重々しく頷いた。

私も、その指摘に全面的に同意していた。

ミレナ連隊長は小さく息を吐き、淡々と口を開いた。


「貴殿の言う通りだ、アウスディース大隊長。実に的を射た指摘だよ。議会の御歴々も、その点についてはずいぶんと議論を重ねておられた。だからこそ、だ。だからこそ、大津が介入する前に、圧倒的な戦力で、迅速に、そして徹底的に暴動の芽を摘み取る必要がある。それが、王宮の“賢明なる”ご判断だそうだ」


皮肉の滲むその言葉に、室内の空気はさらに重く沈んだ。


「そして、話はそれだけでは終わらん。今回の遠征には、王国軍だけではなく、諸侯領軍までもが参加する。諸侯の方々も、この機を逃すまいと勇んでおられるようだ。

ランガー子爵、ヨルズ侯爵、ヴァトンセンディ女爵・・・・。そして、ああ、そうだ。忘れるところだった」


彼女はそこで一呼吸置き、低く、しかしよく通る声で告げた。


「ソルトラン公爵」


その名がミレナの口から漏れた瞬間、会議室にいた全員の視線が私に突き刺さった。

私もまた、驚きを隠しきれなかった。


「王妃方はトロンを焦土と化すおつもりかッ!!!!!」


アウスディース中佐が、抑えきれぬ怒気をその声に滲ませ鋭く言い放った。

その一言は、私に注がれていた視線を、一瞬で彼女へと向けさせた。


ソルトラン公爵領軍。

一諸侯が擁する私兵、と呼ぶにはあまりにも強大すぎる戦力。

総兵力約二万は王国軍の常備兵力に匹敵する。

その軍勢は、代々北方の外敵からユサール王国を守ってきた。


最強の矛にして、最後の砦。

それが、私の家でもあるソルトラン公爵領軍だ。


その軍が動く時。

それは、いつだって国家の存亡が懸かっている時だった。

だというのに、今回動く先は王国の一都市のトロン市。

しかも、その目的は暴動の鎮圧。

いくら大津国との国境に接しているとはいえ、暴徒鎮圧にまでソルトラン公爵領軍が動くなど、常識では考えられない。

しかも、その軍を指揮しているのはあの人。


母上であるヴィグディス・ハイザが不在の今。

軍を率いるのは私の従妹、ハンネ・ハイザに他ならない。


ユサール王国の名だたる将には、二つ名が与えられる。

イングリッド姉上が「黒陽の連隊長」と呼ばれるように。

そして、ハンネの二つ名は・・・。


『皆殺しのハンネ』


降伏を認めず、抵抗する者は男子供も最後の一人まで容赦なく殲滅する。

その苛烈さと残虐さは、ハイザ家の名の中でもかなりの凶悪な響きを伴って語られる。

その彼女が、トロン市へ向かう。


それはつまり・・・。

この騒乱に対してユサール王国が平和的解決など一切考えていないという、何よりも雄弁な証だった。


その時、それまで黙っていた第一連隊第二大隊長エリス・ベックストレーム中佐が、私を嘲るように見て、鼻で笑った。


「やれやれ、ソルトラン公爵家のお家騒動に、アタシたちまで巻き込まれるのはごめんだね」


・・・、は?


一体、何の話だ?

お家騒動だって?

ハイザ家に、そんなものがあるはずがない。


「失礼ながら、ベックストレーム中佐。今のお言葉は、どういう意味でしょうか」


エリス中佐は、面白そうに口の端を吊り上げた。


「イングリッド連隊長閣下は、この国家の一大事に、よりにもよって王都を離れておられる。腹心の“四天王”までごっそり連れて、だ。無能と言われても仕方あるまい。そこへしゃしゃり出てくるのが、『皆殺しのハンネ』。人格に問題アリとして王国軍に入れなかった女が、ここで武功を立てて、姉君の留守中にリンゲン伯爵の地位でも狙おうって腹じゃないのかい?いいや、お前もそうなんじゃないのかい?ハイザの三女殿」


・・・ッ!

この人は姉上を、馬鹿にしているんだ。

それに、私自身も。いや、ハイザ家そのものを・・・。

根拠のない憶測で、その功績と名誉を汚しているんだ。

許せない・・・!


「あらあら」


エレオノール中佐が、くすりと優雅に笑った。

その声を聞いた瞬間、私はふと、冷静さを取り戻した。


いけない、ここで私まで熱くなっては・・・。


込み上げてきた怒りを、ぐっと奥歯を噛みしめて堪えた。


「人格に問題があるからと、ミーヴァトン侯爵家を追い出されて軍に入れられた貴女がそれを言うのかしら?ハイザ家のお家騒動より、よほど根深い問題を抱えていらっしゃるように見えるけれど」

「おやおや、これは手厳しい。だが、アタシの過去を語るその口で、自分はどれだけ清廉潔白だとお思いかね、エレオノール中佐?高いところから物見遊山と洒落込むのも、大概にしな」


「二人とも、そこまでだ」


アウスディース中佐の、低く。

それでいて鋭い声が響いた。


「ここは作戦会議の場だ。貴殿らの個人的な確執を披露する場ではない。慎まれよ」


その一言で張り詰めた沈黙が、会議室に静かに落ちた。


「さて、下らん舌戦は終わったかね?アストリッド王妃とリリヤ王妃は、無論。このような強硬策は望んでおられん。だが、肝心の軍事を司るヘンリエッタ王妃はご不在だ。まあ、あの御方なら、あるいはこれを望み、もっと過激な手を打ったのかもしれんがな。・・・・、ふん。今のは独り言だ。忘れろ。いずれにせよ、これは王宮貴族どもの立派な議会とやらで決定された事だ。そして、ユサール王国軍に諸侯領軍が加われば、間違いなくトロン市は廃墟となる。私としてはそれを避けたい気持ちは、あるがな」


ミレナがそう締めくくると、それまで黙って成り行きを見守っていたマグダレーナ・ノルディン中佐が、静かに恐る恐る尋ねた。


「連隊長殿。具体的な行軍計画をお聞かせいただけますか」


その一言で、会議室の空気は再び実務的な緊張感を取り戻し、ミレナ連隊長が。

第二連隊長、ミレナ・エンケル大佐が口を開く。


「トロン市までの距離は約七百四十キロ。全軍での一斉進軍は、兵站の負担と速度の観点から下策だ。よって軍を三つに分ける。機動力を活かした先行部隊、そして前衛・後衛に分かれた二つの後続部隊だ」


即座に、エリン・オロフソン中佐が続ける。


「先行部隊は速度を最優先すべきです。トロン市の現状がまったく掴めていない今、まず我々がなすべきは情報の掌握。そのためには、強行軍でも斥候部隊を送り込み、状況を把握する必要があります」


アウスディース中佐が鋭く切り込む。


「少数精鋭、か。理念は結構だが、それでは具体性に欠ける。速度を優先するあまり戦力を削げば、道中の不測の事態に対応できず、主力到着前に壊滅する。それでは本末転倒だ。先行部隊が任務を遂行するには、最低でも六個小隊が必要だろう。常時、前後に二個小隊ずつを警戒と索敵に当たらせ、残る二個小隊を中央の戦闘予備とする。これ以下では、部隊としての自己完結能力を維持できん」


その意見を、エリス・ベックストレーム中佐が冷ややかに遮った。


「多すぎるね。机上の空論は結構だが、アウスディース。あんたの言う六個小隊、総員三百名近い兵士と馬が、毎日食う飯と寝床をどこで手に入れるんだい?トロン市までの最短経路は、広大なクヴィータヴァトン子爵領を通過する。あの辺りの村々で、いきなり三百人分の食料を毎日用意できるとでも?下手をすりゃ、補給を断られて飢えるか、現地で新たな暴動の火種を作るだけさ。先行部隊は、多くても三個小隊が限界だ。それですら、クヴィータヴァトン子爵領にとっては大きな負担になるだろうがね」


マグダレーナ・ノルディン中佐が、代替案を口にする。


「では、ヴィリヤ公爵領からビャルナルヴィズル伯爵領へ抜け、クヴィータヴァトン子爵領の狭い北部をかすめ、フラヴンスダルル伯爵領を経由してラウザサンドル伯爵領に入るルートはいかがでしょう。クヴィータヴァトン子爵領での滞在を最短にできますし、フラヴンスダルル伯爵領ならば、比較的補給も・・・」


その言葉を、エレオノール・ニーストレム中佐がやんわりと遮った。


「マグダレーナ、あなたの勉強不足ね。クヴィータヴァトン子爵領の北部は、岩場や湿地帯が多く、とても騎馬隊が迅速に行軍できるような道ではないわ。地図の色を見るだけじゃ、土地のことは分からないものよ」


ミレナが再び地図に視線を落とし、静かに言った。


「やはり、先行部隊が通る道は、南方街道、エイキルンドル女爵領、ブレイザメルク侯爵領、ミズスレットル子爵領、そしてクヴィータヴァトン子爵領を抜けるルートしかない。エリスの言う通り、兵站を考えれば三個小隊が限界だろう。先行部隊は、シグリッド・ハイザ中尉の特務中隊、それに第二連隊第三大隊第四小隊を加えた三個小隊で編成する」


エリスが、面白そうに口を開いた。


「ほう、アタシの部隊ではなく、ハイザの三女殿に任せるのかい。そいつはどういう理由で?」


エレオノールが答える。


「第二連隊第三大隊第四小隊は、シグリッド中尉がこの第一連隊に異動してくる直前まで直接指揮していた部隊。つまり、彼女の古巣よ。気心知れた部下たちならば、指揮系統の混乱もなく、最も迅速に動けるでしょう」


「ふむ」


アウスディースが短く頷いた。


「特務中隊は二個小隊。そこに古巣の一個小隊を加えるわけか。三個小隊、兵力としては最低限だが、指揮系統の円滑さを考えれば、確かに適切な判断だ」


エリスが、私に視線を向ける。


「なるほどね、そういう事か。そういう事だそうだ、三女殿。古巣の部下たちなら、問題なく指揮できるだろう?」


「え?はっ!私が直接、指揮しておりました部隊です!問題ありません」


私は慌てて、けれども力強く答えた。

先ほどまでの醜い言い争いが嘘のように、各人の意見が矢継ぎ早に交わされていく。

理解が追いつかず、私はただ黙って言葉を飲み込んでいた。


これが、大隊長。

これが、百戦錬磨の指揮官。

彼女たちの言葉は、一つ一つが的確で無駄がない。

私には、到底この会話に割って入る事などできはしない。


ミレナが頷き、まとめに入る。


「うむ。先行部隊の指揮は、シグリッド・ハイザ中尉に一任する。

続いて、後続部隊の編成だが・・・」


会議が終わる頃には、窓の外はすっかり夕闇に染まっていた。

私は、自中隊の小隊長であるアニカとアラウネを招集し、決定事項を伝えた。

演習の中止、そしてトロン市への出撃。


二人の反応は対照的だった。

アニカは静かに固い決意をその目に宿して頷き、アラウネは「ようやく戦場に戻れるのか!」と、その獰猛な笑みを隠そうともしなかった。


その夜、私は自室の寝台の上で、眠れぬまま天井を見つめていた。

ヨレンタの言葉が、昼間よりもずっと重く、心にのしかかる。


貴族の義務、ノブレス・オブリージュ。

私は確かにそう言った。

ハイザ家の娘として、軍人として、国に尽くすことに躊躇いはないと。

だが、それは本当だろうか。


「暴徒鎮圧」という言葉の裏にある、市民に武器を向けるという現実。

そして、そこへ投入されるのが「皆殺しのハンネ」。


最悪の事態を想像するのは、あまりにも容易だった。

トロン市に住む百合紋章人たちが、抵抗する者も、しない者も、その区別なく皆殺しにされる光景。


その惨劇に、私もまた加担する事になる。


恐怖で、体が震えた。

昼間、あれだけ強がってみせたというのになんという様か。


姉上なら、イングリッド姉上なら、こんなことで恐怖したり、怖気づいたりする事は決してないだろう。

彼女は、もっとずっと強く、冷徹で、そして、揺るぎない。


それに比べて、私は。

私は、なんて弱いのだろう。


会議の場でも、私は結局、何も言えなかった。

ただ、聞いていただけ。

目まぐるしく交わされる意見に、ついていくのが精一杯だった。


だが姉上は違う。

あの大隊長たちの上に立つ人だ。

彼女たちを動かし、導き、そして勝利を手にする。

それが、姉上、イングリッド・ハイザ。


そんな人と、私は比べることすらおこがましい。

込み上げてくる自己嫌悪に、私はただ、唇を噛みしめることしかできなかった。

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