02-03
床に転がり落ちた紙と本とペン。
ヒカリの目から零れ落ちる涙が足元の紙を濡らし、じわりと染みを作ってゆく。
「こんな痛みじゃ全然足りないよね……。この程度の痛みじゃ少しの罪滅ぼしにもならないよね……。僕も父のように、君に殺されてもおかしくないんだから」
ルイの言葉を聞き、怒りから我に返るヒカリ。
自分が今したことは本質的に、兄が教祖を殺したことと何ら変わりがないという事実を暗に突き付けられたからである。
叩かれたルイの頰は赤く染まり、口の端からは血が流れていた。
ルイはポケットからハンカチを取り出して血を拭う。
「君や信者を馬鹿にしたかった訳じゃない。貶している訳でもない。ただ真実を伝えたかっただけなんだ。ごめんね」
ハンカチをポケットに戻すとルイは頭を下げる。
瞬間的に全身に力が入っていたヒカリは、脱力してベッドに座り込んだ。
「これ、飲んで。少しは落ち着くと思う」
ルイはベッドのヘッドボードに置いてあるペットボトルの水を取り、ヒカリに手渡す。
パッケージには〈世界樹の涙〉の文字。
イルミンスールが信者に購入させている水である。
ヒカリは、ただの水にすら嫌悪感を覚え、世界樹の涙を飲むことはしなかった。
ペットボトルの蓋すらも開けないヒカリを見て、ルイは説明を再開する。
「話を続けるね。あまり悠長にはしていられないから……。この満足部屋にはイルミンスールの悪行の記録と、それに関わる悪人どものやり取りが保管されているんだ。父の保身のために、保険としてね」
ヘッドボードの小さな引き出しを開けるルイ。
引き出しの底の板を、片手で器用に外して持ち上げる。
「君がどの程度イルミンスールを信仰してきたかは分からない。ただ、ひとつ確実に言えることは、イルミンスールは世間で噂されている以上に悪徳な宗教団体であり、その影響力は想像以上に大きいということなんだ」
ルイは引き出しの底に隠されたスペースから一枚の写真を取り出し、ヒカリに見せる。
そこに写っていたのは、教祖に対して深々と頭を下げて、両手で握手をする過去の総理大臣の姿であった。
ヒカリは改めて大きな衝撃を受ける。
母親ほどに狂信的ではないものの、今の今までイルミンスールの神を信じ、教義に則って生きてきたからである。
「宗教界隈はもちろん、政界、経済界、芸能界、国際的な秘密結社、ありとあらゆる方面に根回しをし、故に、ありとあらゆる方面から命を狙われる可能性がある。それがイルミンスールの教祖なのさ」
ヒカリの思考は停止した。
今の彼女の精神状態では、もはや理解可能な範疇を超えた話題である。
「僕はね、イルミンスールを解体したいと思っているんだ。次期教祖だなんて言われているけど、そんなものに僕はなりたくない。神や教義を掲げ、人を騙し、お金を巻き上げ、仮初めの救済と幸福を与える――。はっきり言ってただの詐欺師さ。そんなの、いつか誰かに恨まれて、制裁を受けるに決まっている。父のようにね」
ヒカリの顔が暗くなるのを余所に、ルイは淡々と自分の目的を語り始める。
「そして、そのために僕は密かに〈二世会〉という組織を結成していたんだ。構成員は主に、イルミンスールに恨みを持っている二世信者たちさ。よければ君たちにも二世会に所属してほしい。……いや、してくれなければ困る」
ルイは視線をずらしてチヒロを見つめる。
ヒカリに語りかけているようで、その実、意識はチヒロに向いていた。
「起きているんだろう、チヒロ君? 僕と一緒にこのクソ宗教をぶっ潰さないか?」
狸寝入りを決め込んでいたチヒロがぴくりと肩を動かす。
「実はね、君がさっき言っていたみたいな、信者を殺して回るという荒唐無稽な方法よりもよっぽど現実的なやり方があるんだよ。僕はそれをずっと計画していたんだ。誰にもバレないようにさ。自作した銃を組み立て、メンテナンスをし、弾を込める。そんな要領でね。そして君はその引き金を引いたんだ、チヒロ君。教祖を……、僕の父を殺すという形でね」
ルイは椅子から立ち上がってチヒロの方へと回り込むと、ベッドの横に跪く。
そして横たわるチヒロの左手を両手で握った。
「僕には君が必要だ。だから、その目を開けてはくれないだろうか?」
チヒロは目を開けると素早く上体を起こし、右手でルイの胸ぐらを掴んで引き寄せる。
二人の額はぶつかり、鈍い音が響いた。
「気安く俺の名前を呼ぶな、クズ野郎」
否が応にでも相手の呼吸が感じ取れる程に、二人の顔は接近していた。
チヒロはルイを刺すような視線で睨み、ルイは据わった瞳でチヒロの憎悪を受け止める。
「じゃあ何て呼べばいいかな? 桜田君?」
「五月蝿い。黙れ。そして死ね」
ルイの胸ぐらを離し、右手を振りかぶろうとするチヒロ。
しかしルイの左手に掴まれ、両手の自由が効かなくなる。
「離せや! クソが!」
チヒロは思い切り上体を仰け反らせ、勢いをつけてルイの額に頭突きをする。
やってやった――!
そうチヒロが思ったのも束の間であった。
眼前のルイは微動だにしていないのである。
再び、至近距離で目と目が合う。
チヒロはルイの冷たい視線にたじろぎ、もう一度上体を反らす。
そして、再度の頭突き。
それでもルイは動かない。
また頭突き。
動かぬルイ。
ナユタの背中をめった刺しにしたように、チヒロは頭突きを繰り返す。
何度も、何度も。
飛び散る汗。
飛び散る血。
額が痛み、回数を重ねる毎に頭突きの威力は落ちてゆく。
痛みに耐えかねたチヒロが頭突きを止めた頃、二人の顔は額から流れ出る血で生々しい赤色に染まっていた。
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