report720

透年

第1話 A面 泥泥退治

溺れるような空気を吸い込む。当然噎せた。

水気を孕んだ鼠色の空気が景色をじんわりと滲ませる。うなじがしっとりしていた。

八次は鼻に入った水を抜こうと力んで吹く。すると一緒に鼻水が吹き出てきた。慌てて拭おうとしたが、ティッシュを持ち合わせておらず手段がないことに気付いて目が据わった。誰も見ていないことを独り言い訳にして、腰のポーチにあった応急処置用のハギレ布で鼻水を処理した。

歩く足元に水滴が跳ねていく。

曇天の空から落ちる雨。廃屋の多い旧市街地のあちこちを跳ねては消えていく。崩れかけた排水溝が泡立っていた。

どこもかしこも雨の匂いが満ちていた。アスファルトを覆う水面を花弁が滑っていく。八次が立つこの旧市街は、百千餅町と隣接している。

「ここまで桜が届くんだな」

バラバラと水滴を弾く防水加工されたナイロンジャケット。深く被ったフードのなかで、八次は独りごちた。

『天使』が街を彷徨うようになってはや数十年。天使に一次的に対応する警備団に属する八次はパトロールの最中であった。任されたエリアに異常はない。警備団、一般名称として祓い屋の事務所に帰るために走ろうかと思った。足を止めた。

色彩に欠ける視界の中で、嫌に明るいパステルカラーが動いた。一瞬のことで、八次は見間違いかと思った。旧市街エリアは基本的に人は住んでおらず、人気はない。見間違いならそれでいいと、淡い色が消えた方向に足をに向けた。

赤錆に食われて崩れた鉄パイプの柵。柵にぶら下がる立ち入り禁止看板の奥。ビシャビシャと雨が吸い込まれていく階段があった。地下鉄駅の入り口である。

どうっと地面が揺れた。揺れるというより落ちた感覚。さきほどの違和感は間違いではないだろうという確信をもって、八次は足元を見下ろした。真っ黒でぽっかり口を開けている階段下へ。

大きく吸い込んでから、階段を駆け降りる。まだら模様のタイルがびっしり詰め込まれた壁が、視界を流れていく。湿気に滑りやすい床をテンポ良く踵で踏む。入り組んだ構造を降りて通路を駆ける。細い通路は長く続く。タイルは黄土に変わっていた。はっはっと浅く息を吸う。頭上を見て足を止めた。

「とりあえずホームに行くか」

蛍光灯が切れかかり、光源が弾けている。通路表示が煤けていた。比較的明るい道はホームに向かっている。走ったことによりフードが脱げたので、八次のふわふわとした髪が湿気に遊ぶ。ガシガシと後頭部をかき混ぜながら、考える。人の気配は無い。

息が整う前に声が聞こえた。悲鳴のような響きに八次は再び駆け出す。全力疾走だ。重心を前に乗せて走る。背負った刀がガチャガチャ金属音を鳴らす。

黙り込んで並ぶ改札機を飛び越えて、長いホームに入った。音が反響するので確証はないがホームの先から声がした。

乗り込み標識が掠れているコンクリートに手をついて、線路に降りる。ポーチから小型のライトを取り出して、尻側の電源を数回押す。点灯し、光量が増える。

歪んだレールの先に小さい光があった。

「誰かー、いますかー」

恐る恐る声を出しつつ進む。人が座り込んでいた。枕木の下の石が踏まれて、軋んだ音を立てる。

小さな悲鳴が上がった。

「あ、大丈夫です、祓い屋の者です」

怯えて蹲る人影は小さく肩を震わせた。

小さな光は携帯端末のライトだったようで、彼女は何かを抱き込んだまま八次を振り返った。

少年のような風体の女性だった。短髪にラウンド型の眼鏡。大きめのマウンテンパーカーからのびる首や腕が白く細い。

か細い喉から母音が漏れている。震えていた。

「大丈夫ですか」

震えながらも気が抜けたように女性は腕の力を緩めた。八次はというと、慣れない対応に緊張していた。相手を怯えさせないように思考を回すが、同じ言葉しか発していない。相手を安心させて、それで、どうしよう。

そんな八次の様子を察していない女性は、震える顎を懸命に動かして言った。

「何か来てるんです、奥に」

「なに、奥?」

二つの明かりの向こうは、レールが伸びるだけである。地下鉄の線路が消えていく闇から、にちゃにちゃ、と音が近づいてくる。あまりに暗いため、音の得体が知れない。

「何だかわかりますか」

「なんていうか人っぽい影なんですけど、ずるずるしてるっていうか」

警戒しながら目を凝らす二人。八次は女性の前に立った。ライトの光量を上げる。警戒対象を確認する前に女性を避難させた方がいいか、と思い至り振り返ろうとした。

べちゃり、と土砂が落ちたようだった。

ライトがどす黒い人型を捉えた。

「やっべ、泥々だ…!」

体を引きずって明るみに出てきたのは黒い人型の泥人形。流動しているような体表は黒インキ色で光を吸収するように反射もしない。

泥泥と呼ばれたそれがにちゃりと笑うように、人であれば口のあたりに穴を開けた。

粘ついた衝突音が轟いたのは八次が刀を構えると同時だった。

絡みつく粘液のように動く黒。八次は押さえ込もうとするが力が拮抗する。いなして振り払うと泥泥は吹き飛んだ。ビチビチと蠢き、体を起こそうとしている。

八次は混乱していた。天使の中で害悪指定級の存在に初めて遭遇したのだ。抜刀許可が無いため鞘に入ったままの、棍棒と化した刀を持つ手が震える。どうしようという言葉が頭の中をぐるぐる回る。

泥々が鎌首をもたげた。反射で腕に力を込める。

バンっと再び音が鳴る。金属製の鞘を地面に突き刺した瞬間に泥々が弾かれた。八次は浅く呼吸を繰り返す。鞘が地面に突き立てられ、八次と女性の周りに薄い膜が浮び上がる。脂汗が額を流れていった。泥泥はどうにか近づこうと膜の外で体をくねらせ、藻搔いている。

その様子から目を離さないようにしながら、少しずつ、それでも素早く八次は女性ににじり寄る。一撃を防いだ余勢で冷静さが戻ってきた。

「逃げたいんですけどちょっと無理そうなので、これ持ってもらってもいいですか」

女性は半泣きで鼻水を啜ってる。腕の中にはふわふわのピンク色の物体が抱き込まれていた。震える手で八次が出した紙切れを受け取る。

「ぎゅっと握ってくださいね、離さないで」

筆書きの赤と黒の文字が入り組んだ和紙がぐちゃぐちゃに握りしめられると、半透明な箱が女性を覆った。

「結構持つはずです、絶対離さないでください」

八次は泥泥に向き直る。女性は必死に頷いた。

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