xx02 幻覚と現実
「ボスぅ~、やりましたよぅ~」
暗い倉庫の中、どこかふざけた調子のしわがれ声が響いた。
「っっ! んっ! ~~~っっ!」
海岸沿いの倉庫の中央。
椅子に縛り付けられた一人の男がいた。
たくましい体つきに、野生を感じさせる精悍な顔立ち。体に刻まれている幾重もの傷跡はさながら、歴戦の兵士――あるいは、侍を思わせる。だがその侍は今や、全裸で椅子に縛り付けられ、猿ぐつわを噛まされ、懇願するような目つきで、側に立つ小男を見ていた。
椅子に座った侍程度の身長――その上、まるで芋虫のように背筋を曲げているものだから、どこか妖怪のような印象のある男だった。おまけに髪は総白髪、顔も児童じみた背丈に反し、たるんだ皺と薄茶色のシミに覆われている。
「……あら、意外と往生際が悪いんですね」
そんな二人を正面から見据えながら、雨咲は少し、意外そうに目を細めて言った。
「えっへっへ、一部リーグのトップ選手ってったって、ストリートならただの人ですよ、いや、人以下かな、一般人に手を出したら即クビですからね、こいつら、大変ですなまったく」
ぺしぺし。
嘲るように小男が、侍の額を叩く。叩かれるたびに体をビクつかせ、椅子ががたがたと鳴る。その瞳には涙さえにじみ、よくよく見れば椅子の足下が、男のズボンごと濡れていた。
「まァもっとも? アッシにかかれば、誰であろうが子猫チャンですが? けしししし……」
蛇が息を漏らすように、奇妙に笑う小男。
「さて……では、お尋ねします。O-Motors天下布武、総大将、
雨咲がそう言うのと同時、手の中でナイフが煌めき――そして、ぶちり、侍、鬼丸の猿ぐつわを切る。ぷはっ、と息をついたのもつかの間、鬼丸は一息にまくし立てる。
「協力はする。なんだってする。誰かを殺せと言われれば殺すし、切腹しろというならする。だから、だから……っっ!」
普段は野太く、重厚さを感じさせる声も今は、哀れに引きつり、威厳の欠片もなかった。鬼丸はただただ、怯えていた。
「だから?」
薄く微笑みながら、す、と雨咲は鬼丸の頬を撫でる。
「だからっ……だからっ……お願いします……っ……い、異能はっ……異能を、と……とらないで、くだっさいっ……! か、返して……おねがい、おねがいしますっ……!」
ぼろぼろ、瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、顎を伝い、床まで滴り落ちる。涙はやがて鬼丸の漏らした尿が光る床に落ち、そして、倉庫一面にばらまかれた、彼の専属ボディガードたちの血肉に混じった。
鬼丸は思い出す。
元軍人、警官、地下異能格闘技チャンピオン……華やかな経歴を持ち、軍隊並みと言われた護衛たちごと、この倉庫に転移させられ……そして
己が身に分かちがたく結びついている異能。いや、もはや己という言葉の中に含まれている異能。鬼丸と護衛たちはそれを使おうとして――何もできずに殺されていった。
異能によってここまで上り詰めた鬼丸にとってその光景は、さながら悪夢のようだった。
異能大戦以降、他者の異能の
もはや、誇りもなにも、なかった。
名実ともに日本トップのプロ異能選手である鬼丸一厘。
彼の、自分が自分である理由――異能を、奪われてしまったのだ。
体を、脳を――魂を、盗まれたのだ。
「質問の答を聞いていませんが?」
ぷにっ。
雨咲が面白そうに、鬼丸の頬を突いた。
だが、それだけで背筋に氷柱を突き刺されたように体が跳ね、唇が震える。
「そっ……それはっ……だからっ……わ……悪かったっっ! オレが間違ってた!
絶叫が倉庫に響き、そして徐々にかすれると、小男が吹き出した。
元々鬼丸一厘は、
それが今、心の底から怯えきり、屈服している。傲慢にも見える――いや、実際傲慢なのだが――鬼丸の態度はすべて、彼の異能あってこそのものだったのだ。
その屈服の、敗北の言葉を聞いて雨咲は、静かに笑った。
「いいえ、そんなことはしていただかなくとも大丈夫ですよ、鬼丸さん。あなたはあなたのまま、
「わ……わかった! わかったから……!」
「ふふっ、そう焦らないでください。ほら、私の目をしっかりと見て……? 答えてください……? イコライザーに、協力してくれますね……? 私を、雨咲紫を、その思想を、受け入れてくださいますね……?」
雨咲の瞳が、鬼丸を射貫く。
百戦錬磨のプロ異能選手が、その瞳に込められた得体の知れない感情に、ただ、怯えた。
「…………は…………」
いつもの彼なら、豪快に笑い飛ばしただろう。どんな苦境、どんな絶望も、自分一人ではねのけ、覆し、そして勝利する。そう、勝利してきた。
異能を使って。
鬼丸の心が揺れる。
……鬼丸一厘なら、リーグのトップ、天下無双の
最強の異能を持った鬼丸一厘は、そういう男だ。
「……バーグラー。鬼丸さん、異能はもういらないって。盗ったあなたが好きにしていいよ」
「やあやあそりゃ豪毅だねえ! じゃあどっかに売っ」
「わ、わかった! 協力する! イコライザーに協力する! 喜んで協力する!」
「私の……雨咲紫の思想を、受け入れてくださいますね?」
「受け入れる、雨咲紫の思想を受け入れる、だから」
鬼丸がそう答えた瞬間。
どろぉ……と彼の体が一気に力が抜け、頬は緩み、口元から涎が垂れ落ちた。
「……やあボス、うまいこといくもんだな! この一人風林火山を誘拐して洗脳するって聞いた時は、気が狂ったかと思ったんだが……けししし、オレの幻覚にばっちりはまってくれちまった、見事なもんだね」
しばらくして小男が感心したように言った。雨咲は笑って答える。
「ふふ、この時代、異能がなくても生きていける人なんていないでしょう? トップ異能選手であればあるほど、なおさら……とくに鬼丸さんはね、ホントは弱い人だから。異能主義だって、憎まれるためにやってたんでしょうね、この人」
「へえ……プロだったんだねえ」
「ね。でもその分、観客がいなければ弱い。異能が出ない、なんて、あなたの幻覚なのに信じ込んでしまって……」
「オレの幻覚はまったく同じ五感を与えるんだぜ。ダマされなかったらショックだよ」
「ふふ、それでも、違和感ぐらいは感じ取れたはずでしょう? 自分の力……異能、なのだから。ま……この人たちは、わかりきった異能を相手にするのが仕事で、異能が未知の相手はほとんどしたことがない、っていうのも、あるんでしょうけど」
「
小男が幾分か落ち着いた口調で問いかけると、しかし、雨咲はくすくす笑った。
「言ったでしょう、
そう言うと雨咲は、
「きしししし……コマに使うなら、アホの方が使いでがあるってもんですぜ、ボス」
つまり、こういうことだ。
鬼丸一厘は、異能を奪われた、と、思い込まされていた。
この小男の、五感に完全な幻覚を与える異能によって。
「……あなたの言うとおりかもしれないね……では、みんなに伝えておいて。プランBは予定通り決行します。各人準備を進めて」
「りょーかいっ、えひひひっ」
「あなたの異能も進化させた方がいいね、
「え~、本人にしかわからない悪夢を見せる、ってのがいいところじゃないスか、オレの。脳以外に影響を及ぼすのは、どーも、無粋ッスよ」
「あら、本当にバーグラーになれるかもよ? 異能強奪なんて戦争中でもいなかったって聞くけど……あなたたちの異能は百人前の特別製だから、縛りもかからないかもしれない」
「……ん~……気が乗らねえなぁ、まあ、とりあえずは行ってみますけどね」
「ふふっ、良いものよ、進化は。なんであれね」
そう言うと雨咲は、自分の手を見つめた。
「手を汚す価値はある」
そして堅く手を握り締めると、倉庫から去っていった。
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