第二夜「春風」

 その日はたまたま駅前の焼き鳥屋が空いている時間に帰れて、つくねとねぎまを買った。マスク越し、ソースの焦げる香ばしい香りに家まで我慢だと胃袋に言い聞かせながら足早に帰宅を急ぐ。

 信号を渡ってすぐを左折、長いゆるやかな下り坂を降りた先の我が家に、今日も庭猫はやって来るだろうか。


 坂道へ踏み出した瞬間、ゴオッと大きな空気の塊に押され、よろけてぶつかった電信柱。つくねとねぎまの入った紙袋の無事を確認した視線の先。


「探しています」


 A4サイズのコピー紙に迷い猫の写真、名前と特徴。飼い主の名前と連絡先。見覚えのある筆跡。


 震えた指先で触れる。

 「……名前、全然違うじゃん」

 猫の確保と連絡は、どちらが先なんだろうと考えながら。


 風が坂道を押し上げるように吹き抜ける中、鮮明に思い出して立ちすくむ。


 「みーちゃん先生」

 呼んだらすぐに振り返って、しゃがみこんで視線を合わせてくれる仕草も。

「どうしたの?」

 笑いを含んだくすぐったい声も。

 エプロンの肩紐、なで肩だからすぐに落ちちゃうところも。

 散歩中リードの外れたシベリアンハスキーがお見送りの列に突進したのを庇ってくれた、背中に回した指先が震えていたことも。


 どうにもならない年齢差。初恋なんてとっくに過去の思い出にできたはずなのに。ちょっと懐いた猫にまで似たような名前を付けて、こんな些細なニアミスですぐに思い出す。

 途中から何回目か数えるのをやめた上書きが、まるで意味をなしていないことに気付かされて、立ち尽くす。


 用事なんてなくて、でも構って欲しくて、まだ恋をしている自覚もないまま、何度も何度も呼んだ、自分の幼い声も。


 うるさかったかな?あの頃の俺は。


 猫が愛を叫んで風を呼び、風が春を連れて来た。

 今にも弾けそうにパチパチと期待で膨らんだ南風が、たいせつな手がかりを吹き飛ばす前に。随分と都合のいいこの夢から醒めないうちに。

 早く、早くあの庭猫の仲間に入れてもらうために。俺は下り坂を全速力で駆け出した。

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春、庭猫。 和叶眠隣 @wakana_minto

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