君の人生は誰のもの

痛み。

初めて感じた、生身の激痛。

咄嗟に突き出した腕を貫通して、その後に滑り込んだ身体にも、少しだけ痛みが走る。

その痛みの原因―――小さなナイフは、僕の腕に刺さって止まった。

ナイフを手放した彼は、驚愕したように目を見開いて硬直している。

数秒遅れて、彼女の声が聞こえてくる。


「まひろ!! 大丈夫……じゃ、ないよね!? 待って、今行く!」


……痛いな。

感じたことないや、これが痛いってことなのか。

心の痛みとは、また違った痛みだ。痛みなんて全部知った気でいたけどそんなことは全然なかったんだな。

僕がそんなことを能天気に考えてふと彼に目をやると、彼は地面にくずおれていた。

僕を見上げて、パクパク口を動かしているが、言葉はない。言葉が見つからないのだろうか。


「馬鹿なの、君」


思わず出た言葉は、自分でも驚くものだった。

こう、もっと優しい言葉をかけてやれないのかと自分で自分に呆れる。

いや……よく考えたら僕この人に刺されてんだった。何言っても平気か。


「あ……お、俺……あ……え……」


「何しようとしてんのか分かんないんだけど。てか痛いんだけど」


「え、あ……ご、ごめ、ん……?」


びくりとしたように僕を見て身体を縮こませる彼は、僕の登場に驚いたようだが……ナイフを取り戻そうという動きは見せなかった。それどころか、体育座りのように地面に座り込んだきり、立ち上がろうともしない。


「わあ! 大丈夫じゃなさそうな怪我してるね!? ちょっと待って、ここ落ち葉で滑りやすく……て……おわぁあああ!?」


千影の相変わらずの焦り声を聞いて振り返ると、落ち葉に滑って盛大にすっ転ぶところからゴロゴロとこちらに向かって転がり落ちてきている場面を目撃してしまった。

うわ……。僕の怪我よりそっちの方が痛そうなんだけど。千影、平気かな。

足元まで無防備で転がってきた千影を足でキャッチする。そこで漸く千影は起き上がった。


「ったぁ~……! あっ、まひろ、怪我……!」


「君に心配されたくないよ……」


呆れてそれしか言えない。駄目だ、どうして千影はいつもいつも僕を呆れさせてくれるのだろうか。ある意味すごい。ある意味。


「海も、大丈夫? 怪我してない?」


「え……えと……あ、はい」


あ。そうだ、海。

僕は腕に刺さったナイフを抜こうとそれに手をかけるも、その瞬間にさっきと似たような激痛が走り、抜かない方が良いと判断してそれを諦める。

何処かで、刺されたナイフを抜くと出血多量で死ぬって聞いたことがある。多分それになってしまいそうだし、このままにしておくのが一番だろう。

さてと。

今、僕は千影のコミュニケーション能力に驚いている。うん、これが今の感情を表す言葉ってなんか悲しいな。


「あのね、ボクたちは海の中に居て、出てきたとこ! 分かる? う~ん、分かんないよねぇ。ボクも分かんないもん」


「は、はあ……え、『俺の中に居て』って……もしかしてまひろ?」


「ううん、まひろはあっちの子。ボクは……」


そこから先、千影の言葉はスラッと続かなかった。まあそうなるだろうとは思ってたけど。自分の名前を教えることは即ち、自分を殺人鬼だと明かすようなもの。さてどうするんだい、千影。


「……?」


「ボクは、千影」


「えっ」


おっと、言うのか。なるほどね。君もちゃんと過去を認めて受け入れたんだとよく分かったよ。だったら、僕も助け舟を出してあげる。


「千影って……あの時の」


「海、君は自分でさっきまで何をしていたのか覚えているかい?」


「な……あんた、それ知ってどうすんだよ」


やっぱり上から目線の口調になってる気がする。やば、癖だからそう簡単に意識しようとして抜けるものじゃないね。これは直すのが大変そうだ。


「幻覚を見てた……いや、長い夢を見てたって言った方が近いかな。それを見てたっていう自覚はある?」


「それ、俺がそれを見てたって言ってるようなもんだろ。……まぁ、自覚してるよ。気付いたのは本当に今さっき、お前らが来る前だけど」


「じゃあ話は早いよ。本当に起こったことを教えてあげる」


訝しげに僕を見る彼を諭して適当に座らせて、僕もその正面に座る。千影はその間に座った。上から見れば丁度三角に見えるような位置。

それからは簡単だった。千影に言ったように……正確には、優しい口調を心がけて千影の時より簡潔に説明した。二回目の説明というのもあって、多分一回聞けば大体のことは察することが出来る内容だったと思う。

海は聞けば聞くほど見るからに青ざめていって、そのまま気絶してしまうのではないかと何回か危惧したが、何とか最後まで意識を保って聞き終えてくれた。


「……そう、か。じゃあ、やっぱりお前らが俺の中に居た奴らだったんだな」


「うん。正確には、入れ替わって君の中に入ってたわけで。だから幻覚を見ている間も入れ替わって現れてたんじゃないかとは思うけど」


「分からん。でもそうか、俺はもう二回も人を、殺してるんだ……」


「「…………」」


そんな気負いすぎない方が良い、という言葉が出なかった。生ぬるい励まし。そんなものが彼には必要じゃないと思ったからか。

僕がそうやって次の言葉をウジウジ悩んでいると、彼が徐に口を開いた。


「さっき、死のうとしてたじゃん、俺」


予想外の言葉が聞こえて、俺は驚きで頷くことしか出来なかった。

千影も驚いたように目を見開いて、こくりと頷いている。


「俺さ、多分心の奥底で『死にたくない』とか『誰かに止めてほしい』って思ってたと思うんだ。そうじゃなきゃ、お前らが止めることはなかったと思う。多分俺のその無意識の願いを感じ取って、以心伝心じゃないけどそれみたいな感じでさ……俺を止めに来たんじゃないの、お前ら」


そうかもしれない。言われてみれば、それも無意識のうちに起こっていたことなのかもしれない。けれども、それも言葉には出来なかった。代わりに千影が口を開いた。


「そうかもだけど……どうしたの、急に」


「いいや、別になんでも。『そうかも』って言うってことは、『それ』をはっきり感じたわけじゃないんだな、お前らは」


「うん。特に何も……ご、ごめん。もう海とボクたちは意識が別れて個人として独立してるから……」


千影が申し訳なさそうに言ったことを、海はどこか……嬉しそうな表情で、聞いていた。どうしてだろう、彼の瞳が嬉し気に揺れているのは。

一体、何が楽しいのか。それともただ、僕の見間違い―――?


それが見間違いであったのなら、どれだけ良かっただろう。

『その時』は、起こった。


「―――っ!」


彼が突然身を乗り出して、僕の腕へ手を向けた。その腕の方は……見るまでもない。彼が何をしようとしているのか理解し、咄嗟に僕は彼の向かう方と逆の手でその手を振り払った。

それでもなおもう片方の手でそれを取ろうとしてきたので、僕は大きく後ずさり、次に来るかもしれない彼の追撃に備えて立ち上がる。が、彼の次の動きはなかった。ただただ視線を落として力なく座っていた。


「……なんで」


「……こっちの台詞だよ。なんでナイフ抜こうとするんだ。僕を殺すためか。それとも君が死ぬためにもう一回使いたいからか」


「……なんで、止めんだよ。だって感じてないんだろ、俺の気持ちを! だったら止める必要だってないだろ。勝手に死ぬだけだ! 俺は死にたいんだよ! なのに、なんで……!」


「理由なんて単純だよ。『君が必要だ』とか『君が居ないと寂しいから』とかそんな言葉、響かないのは知ってる。だから本音を言うよ。『僕が死にたくないから』だ」


僕がそう言うと、彼だけでなく、彼の横の千影も驚いたように目を見開く。


「良いか。意識だけの存在が実体を持って楽しく暮らします、なんて奇跡は起こらないんだ。僕は所詮、君が望んで生まれてきて、君が死ねば死ぬんだよ。僕は死にたくない。だから、君には生きててほしい」


「え、ボクたち自由じゃないの? 海死んだらボクたちも死ぬの? ……まぁ、普通そうか」


「普通って何だよ……僕らがこうやって実体を持ってること自体おかしいんだからね?」


千影の変な突っ込みを躱して、僕は彼に向き直る。

彼はこのどしゃ降りの中でも分かるほどに、千影の時よりも……きっと誰よりも明らかに分かるほどの涙を流していた。


「なんで! なんで、お前らが止めんだよ! お前らが俺から生まれたんなら、俺の意思を尊重しろよ! 俺を放っといてくれ! 自分の生死くらい選ばせてくれよ! これ以上もしかしたらなんて期待を持って生きたくないし、お前らに何かを期待されて生きたくない! なんでお前らのために俺が苦しまなきゃいけないんだよ!?」


「海……」


「まひろ、一旦ボクに言わせて。ボクにも言いたいことあるんだ」


僕が何かを言う前に、千影がこちらの方へ歩いてきて、激情のあまり立ち上がった海と向き合う位置に立った。僕の斜め前で、千影は言った。


「海が生きようと思ってるからだよ。さっきの……まひろに刺さったナイフ抜こうとした時にさ、まひろの痛そうな顔見て一瞬躊躇してたの、見てたよ」


「……そんなこと」


「そんなこと、あるよ。明らかに躊躇ってたでしょ。本当に死のうと思ってたらそんなところ見ないよ。海は自分が死んでもいいって確かに思ってるのかもしれない。けど、ボクらには傷ついてほしくないって思ってるんだ。ねぇ、生きろって言葉は時に凶器になるけど、ボクは海に死なないでほしい。生きてほしいとは言わない、死なないでほしいんだ」


「…………」


「…………」


「…………」


何も言わない。言えない。

時間感覚なんてとっくに無いけど、それでもこの沈黙はとても長いように感じる。

その沈黙を破ったのは、彼の声だった。


「……普通には、生きられないよ。死刑になるかもしれない」


「……良いよ。それでも」


「……うん」


言えないよ。

ありがとう、なんて。

きっと僕は海の人生をめちゃくちゃにしたんだ。

海に一生恨まれても済まないほどの罪だ。

多分、救えたわけじゃない。

救えてたら、彼はそんな泣きそうな顔をしないはず。


「……なんだ、泣いてんじゃん俺……ははっ……雨でも分かるのな、泣いてるの」


……やっぱり僕らは彼から生まれてるよ。

全く同じこと言ってるもん。

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