八章 永い夢から醒める時

否定してきたこと

「無理やり閉じ込めた思い出に浸って、どうだった?」


目の前の千影……が、気味が悪いほどの無表情をこちらに向ける。


「ごめん……ボクは……海を……あれだけ豪語しておいて……」


「今更ごめんで済むものかな。海はもう死ぬよ。君のせいで」


君が刺したんだ、と奴はボクの腹の傷を指差す。


「僕は刺せない。自分で刺した。君が刺したんだ」


「違っ……違、う……」


なんでこんな大事なことを忘れていたのか。

ボクが呆然としていると、奴は呆れたように首を振った。


「やっぱり君を信用したのが間違いかな。あのまま君を信じていなければ、今こんなことにはならなかった」


そうやって言われるのも当然のこと。ボクはそれだけのことをした。

守ると言っておきながら、守るどころか傷付けた。

ボクのやっていることは、かつてのこいつの立ち位置と同じ―――


「海に宿ると、そういう存在になる」


ボクの考えていることを見透かすかのように奴が切り捨てる。


「知らないかもしれないけど、海自体が相当狂ってるから。別人格の僕らは、その狂気を引き受ける役だった。ただそれだけ」


当然のことを言うかのように。

まるで、最初から分かっていただろうと言わんばかりに。

奴は、ボクが知らなかった全ての答えを、言ってくれた。

理解した? と、奴は首を傾げる。

ボクは素直に頷く。自分が何も知らなかったということを身を以て、今、知った。


「どう、すれば……いい?」


意図せずして言葉が溢れる。

その言葉に奴は一瞬驚いたような顔をして、すぐに無表情に戻った。


「どうしようもないさ。海は、死ぬんだ」


「……お前は、いつも、どんな場所に居ても、冷たい奴なんだな……」


「大切なのに、嫌だって決めつけて記憶を消そうとしている君に言われたくはないね」


「……!」


もっともだ。ボクは声を出せなかった。

ボクは忘れちゃいけない記憶を、忘れようとした。

海に、自分は「千影」という殺人鬼として見られるのが嫌だったから、自分はあくまで「まひろ」なんだと思い込もうとした。

海に棄てられるんじゃないかと……怖かったから。

……違う!

ボクはまひろなんだ。千影は目の前の奴で、奴は言葉巧みにボクを惑わそうとしているだけなんだ。

まひろはボクだ。昔からそうだ。昔から、海を支えていたのは、ボクなんだ!


「海の目には『千影』は映らない。あくまで『亜樹』として映る。殺人鬼として立つ時だけ、血と一緒に見る時だけ、『千影』として認識される」


「……ボクは……」


「『まひろ』は、今でも海の中に居て、海を支えている。『千影』を殺すために。だけど『千影』は十年近く経った今でも見つからない」


「……もう、殺人は……起きない、から……」


「そう。殺人は起きていないから、海に僕の姿は映らない。君は海に全ての真相を教えてあげたいと思う?」


「出来るなら……だけど、無理、なんだろ……」


「無理ってことはない。海が知りたいと言うのなら、教えてあげるよ」


奴は何処か楽しそうに、首を傾げる。

ボクは海に全てを教えてあげたい。全部、全部、……。

だけど、そうしてしまうと、自分が全ての殺人を犯したということに、気付いてしまうのではないか。海が壊れてしまうんじゃないか。

そう考えると、決断できない。

海は真相を知りたがっている。だけど、教えたら壊れてしまう。


「迷ってる暇は無いんじゃない。そろそろ出血多量で死ぬよ」


痛みで身体をくの字に曲げた頭の上から奴の声が降ってくる。

そうなのだ。そうなのだが……。


「お前は、どうして……刺されて、そんな、普通で、居られるんだ……」


「だってイマジナリーフレンドだから。実体なんて、無い」


「じゃあなんで、お前は……! ボクを刺せたんだよ」


「幻覚」


「は……?」


幻覚。

その二文字の単語の意味が、理解出来なかった。

幻覚。幻。

在るはずのないものを、在るかのように見てしまう現象のこと。

いや、そんなこと知っている。しかし、何故今その単語が奴の口から出てくる?

脈絡も無く、突然の言葉に、ボクは言葉を失っていた。


数秒間か、数分間経っただろうか―――長く思えた沈黙を破ったのは、ボクが膝を折って地面にくずおれた音。


「いつから」


何処からが、何が、幻覚だった?


「そもそもイマジナリーフレンドも幻覚っぽいところあるし。海は解離性同一性障害を宿すと同時に、幻覚とかも見えるようになったんだよ」


何が幻覚?

今ここでこいつと話しているのも幻覚? だとしたら幻覚を見ているというのも嘘……。


「嘘じゃないさ。君は、学校に行ってる幻覚を見てた」


「学校は本当に行ってる! だって、ボクは……!」


亜樹さんと話したし、クラスメイトと言葉を交わした。

そう言おうとして、止まった。

もし奴の言うことが本当なら……学校に行っていたのが幻覚ならば、彼女と話したということも幻覚を見ていただけだ。幻覚でない証拠は何も無い。


「……でも、幻覚じゃないって証拠も無いだろ」


「じゃあ訊くけどさ。両親を殺して、里親を殺して、そんな奴がいつまでも捕まらずに、しかも学校まで行くなんてこと出来ると思う?」


「施設に、一度、入った。それで、出てきたんだよ」


「四人も殺しといてそんな簡単に出てこれるか? ひとつだけ訊く。お前は本当に学校へ行っているのか。普通、親が居ない状態で殺人を犯せば、児童相談所とかに行く。その後、児童自立支援施設に入る。最悪裁判で前科が付くことだってある。そんな奴が受験して合格する? 本当にそんなことあると思うか?」


「ボクは……」


「千影、海。僕は君を苦しめようとしてるんじゃない。ただ、真実を見せたいだけなんだ」


「……ぁ、っ……」


「事実、亜樹だって幻覚を見てた。イマジナリーフレンドが幻覚を見るってどんなものかと思うけど、亜樹も、解離性健忘という設定をちゃんと理解して、お医者さんの所へ行く幻覚を見てた。イマジナリーフレンドが医者にかかるなんて出来るはず無いのに」


胸が苦しい。息がうまく出来ない。頭が痛い。ガンガンと警報のようなものが頭の中に鳴り響いている。

手が震え、床に座っているとは言えど、足も上手く動かない。

全身が小刻みに震えている。

冷や汗が流れて、涙が浮かんできた。

違う。

分からない。

でも違う。

違う……違うはずなんだ。

違っててくれ。

違わないと……困るんだよ!


―――ああ。

本当に否定したかったのは、このことだったのか。

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