第4話 エルサレム旅行
エルサレム旅行の段取りは海外渡航経験のある健斗が進めた。適当なツアーが見当たらず、成田発のテルアビブ便を予約してガイドをネットで手配した。日本語と英語が堪能で現地在住のベテランガイドとのことだった。健斗と翔の親はあっさりと旅行を承諾して旅費も出すと言ってくれた。巧は親に言いだせず友達と東京に旅行に行くと嘘をついた。成田からドバイを経由したベン・グリオン空港へのフライトは順調だった。入国審査も何とかこなし、予定どおりガイドと合流できた。Mr. KANEKAMIと書いた紙を持って出迎えてくれたのは中年の男でいかにも現地人という感じだった。
「ようこそイスラエルに。若い学生さんのグループは珍しいね。勉強しに来ましたか」
日本語が堪能とのことであったが、そうでもないようだった。
「今日は遅いです。すぐホテルに行きます。ゆっくり休んでください」
ガイドの手配した車に乗りエルサレムのホテルに向かう。3人とも初めて来たイスラエルに興奮している。空港からホテルに向かう道路はそれほど美しい景色がある訳ではないが、日本車が結構多いとか道路標識の意味とか些細なことで話が弾む。
「食事はホテルの中でします。危ないですから夜は外に出ないでください」
出歩いて現地の人が集まるレストランにでも行きたいところだったが初日でもあるのでガイドの言葉に従った。
「では明日8時30分にロビーに来て下さい。朝食はバイキングです。済ませておいてください。先ず嘆きの壁に行きます。遅れないで下さい。遅くなると混んでしまいます」
翌日、旧市街南側の糞門を通り神殿跡に向かった。セキュリティ・ゲートを通り、神殿の丘を観光した。木造の通路から西側の壁を見下ろすことができた。多くの人々が熱心に祈りをささげている。 神殿の丘の隣というよりも、神殿の礎になっているような感じだった。
「すごい所だね」興奮気味に巧が言う。
「何でも実際に見てみないとね。エルサレム神殿にはモーゼの契約の櫃が置かれていたんだ。十戒の石板とアロンの杖、マナを入れた壺が入っていた箱だ。金で覆われていたらしい。バビロニア王の侵攻で失われて、その後ローマ軍に神殿は破壊されて残ったのがこの西壁だ。エルサレムの由来は平和の町という説があるけど戦争の町だね。今も続いている」
健斗は大分下調べをしてきたらしい。或いは常識として知っているのか。
「十戒の石板には何が書いてあったの」
「モーセの十戒はこの間習ったばかりだろう」
「へえ、ちゃんと授業も聞いてるんだ」
「基本的には唯一神を崇めることと、親を敬うこと、殺人、盗み、姦淫などを禁じた戒律が書いてあったんだ。当時の宗教は神と契約するスタイルなんだ。戒律を守れば神も守護をあたえる」
「だって、今は戦争では殺し合い、略奪、レイプが当たり前じゃないの。契約違反だね」
「まあ神の加護もなくなっているのかもね」
「杖と壺もすごいものなの」
「まあ、どちらも奇跡を起こした言い伝えがあるすごい神器だ。それに櫃自体にも奇跡を起こす力があったと伝承されているんだ。それに櫃は日本の神輿の原型だという説もある。海を渡って日本に持ち込まれたという説まである」
「まさか」
「そうだね。日本語とヘブライ語に類似している単語が多いとか小さな偶然を寄せ集めて作った説だと思う」
嘆きの壁へは男性と女性で進路が分かれていて左側が男性用だった。 壁は古い石で出来ていて上に行くほど新しい時代のものらしかった。石の大きさが大分違っている。下の方はすごい巨石だ。壁に向かった。人々が熱心に祈っており、キッパと呼ばれる帽子のようなものを被って最低限の礼儀は守っているつもりだが、壁に近づくのは躊躇われる感じだった。ガイドから小さな紙を渡され、願い事を書いて岩の継ぎ目の部分に差し込んだ。ユダヤ教徒でもない3人にご利益があるとは思えなかったが。翔は思いの外感動していないようだった。今回の旅行の言い出しっぺであるし、ここはエルサレムへの旅での一番の目玉なはずだ。
「何か感じた?」
「いや、今のところは。でもすごい所だね。祈りの力に圧倒された」
次に向かったのは聖墳墓教会だった。旧市街を1km程歩く。キリストの受難の道と言われている道だ。キリストが、ローマ総督ピラトに裁かれ、十字架に掛けられ、亡くなり埋葬されるまでの道のりである。 熱心なキリスト教信者が十字を切りながら歩いているが、周囲には観光客が入れる店もたくさんあって賑わっていた。教会の入口から入って右の階段を登ると、イエスが磔刑にされて亡くなった場所があった。煌びやかな空間だった。低い天井に描かれた天井画に圧倒される。イエスが十字架から降ろされた岩盤のある場所に向かった。イエスは香料と一緒に亜麻布で包まれたと言われている。信者たちは塗油の石板に跪いて祈りを捧げていた。こちらは天井がドームになっていてかなり高い。イエスの墓は横穴式の岩盤墓だったとのことだが現在は祠で覆われている。階段を降りると、十字架発見の聖堂があった。 これは、コンスタンティヌス皇帝の母のヘレナが十字架を発見した場所とされている。コロナ禍と戦争で観光客が少なくなってゆっくり見ることができるようになったのだとガイドが言っていた。日本人らしい観光客はほとんどいなかった。教会内にはさらに様々な宗派の教会がある。教会は東方正教会、アルメニア使徒教会、カトリック教会、コプト正教会、シリア正教会の複数教派により共同管理されているとのことだった。
「何か感じる?」巧が翔に尋ねる。
「今のところ何も。でもキリストは結局何をしたんだろう。人々の代わりに磔にされて殺されたことが人々の罪を贖うことに何でつながるんだろう」
「そもそも論みたいな話だね。そんなことキリスト教信者に言ったら怒られるな。でもキリスト教と現代的な思考の矛盾はキリスト教哲学の分野でいろいろ議論はされているんだ」健斗が解説する。
「キリスト教哲学?」
「例えば、神が全能ならなぜ苦しみが消えないのかとか、神が全ての未来を決めているのであれば人間の自由意志や行動はどうなるのかとかね。どれも答えがでない問題なんだけど。だけどキリストの磔が人類の罪の贖罪っていうのは言われてみると辻褄が合わない気もするな。神の子を拷問して殺したんだからそれこそ人類が全滅させられてもおかしくない気もする。何しろ磔の刑っていうのは当時の拷問の粋を集めたみたいな殺し方なんだ。すぐに死なない程度の傷を与えてできるだけ長く苦痛を与える。人間は苦痛があると本能的に身を折って体を庇おうとするんだけど、無理やり広げられて気絶も許されない」
「残酷だね」
「まあ当時は普通の処刑だった訳だけど。キリスト教の解釈だと神の子は磔にされても人々を救いたい気持ちが変らなかったことで人々を救う使命が認められたってことかな。でも生き返って奇跡を現したけどその後は目立だった活躍はしてないな。まあ弟子たちはキリストの覚悟に感動してより信心を深めたのかも知れない。まあ、この贖罪のお陰で人類は滅びずに今を生きていられるのかも知れないね」
「救世主も楽じゃないね」
教会の中で話し込んでいると若い女性から声をかけられた。
「日本から来たのですか」
ヒジャブで頭を覆い色つきの丸い眼鏡をかけているが、どうも現地の人ではないようだった。
「日本人は最近少なくなった。若い男の子のグループなんてホントに珍しい。観光旅行ですか」
「まあ、そんなとこ」と健斗が言葉少なに返事する。
「そんなに警戒しないで。私の名前はアンジェラといいます。観光ガイドをしています。エルサレムは道が複雑でしょ。良かったら私が案内しますよ」
「ガイドは雇っていますから。今、自由時間なんです」
「残念です。せっかく日本語を勉強したのに日本人が来なくて使う機会がないのです。少しお話に付き合ってもらえますか」
皆顔を見合わせた。思えばガイド以外でこちらの人と会話するのは初めてではある。あまり悪い人には見えないし、一生懸命日本語で話しかけてくれているのに無碍にもできない。少しだけならと話しがまとまる。
「少しならいいですよ」
「ありがとう。みんなはどういうグループなのですか」
「高校の同級性生」
「どうしてエルサレムに来たのですか。世界の歴史に興味があるとか」
「それは健斗だけかも。翔が急にエルサレムに来たいって言いだして。あとはノリみたいな感じ」巧が答える。
「のり?」アンジェラには通じなかったらしい。
「翔さんでしたっけ。どうしてエルサレムに来たいと思ったのですか」
「何か呼ばれたっていうか。どうしても来なくてはならない気がしたんです」
「神の導きですね。ここに来る人には珍しくない。熱心なキリスト教信者なのですね」
「いや、そうでもないんだ。仏教でも神道でもないと思う」
「神道って日本の宗教ですね。でも無宗教の人が神に導かれるっていうのは珍しいです。新しい預言者でしょうか。付き添いの2人は従者ってとこですね」
「そんなことはないよ。上も下もない、ただの友達だよ」
「ここは3大宗教が生まれた土地です。いろんな力が充満していますね。で、お目当てのものは見れましたか」
「いや、今のところは」
「嘆きの壁には行きましたか」
「午前中」
「じゃあユダヤ教の神様からもお告げはもらえなかった訳ですね。後はイスラム教ですね。でも岩のドームは入れません」
「特に目当てにしてた訳じゃないんだ」
「で、エルサレム観光は楽しめました?お友達にもオススメできますか」
「悪くはないんだけど、人気なのは韓国や台湾かな。日本から近いし食べ物もおいしいらしい。それからビーチがきれいなタイとかグアムとか」
「エルサレムだっていいお店はありますよ」
「まだホテルでしか食事してないから。ランチも軽いものだし」
「それは残念です。でも学生だからからあまり豪華ディナーって訳にもいかないですね」
「いや。お金のことは心配しなくていいんだけど」と巧が答える。
「あら、お金持ちのお子さんたちなのですね」
「いや、株で稼いだんだ」
「へー。若いのにすごいです。ビットコインで大当たりしましたか」
「いや、普通の株」
「日本の株は詳しくないですけど株で儲けたとしたらすごいです。私、実は本業は金融コンサルタントなんです。こっちにはその仕事で来たのですけど何だかつまらなくなっちゃって。で今は観光ガイドをしてます。ちょっとの積りだったけど、話しすぎましたね。付き合ってくれてありがとうございます。今度お会いする機会があったら巧さんの日本株の話を聞きたいですね。みんなの安全な旅を祈っています」
翌日はオリーブ山に登った。山というよりは丘に近かった。ゲッセマネの園、万国民の教会、マグダラのマリア教会、アブサロムの墓、ユダヤ人墓地などが点在し、周辺はオリーブ畑が広がっている。ゲッセマネの園は旧約聖書や新約聖書においても重要な場所であり、宗教的な意義だけでなく、景観も非常に美しい所だった。 展望台から旧市街が眺められた。昼食を取っていると翔が死海の方に行きたいと言い出した。普段は気紛れなことなど言わない翔には珍しいことだった。ガイドに言うと、今からの手配は無理とのことだった。まだ行っていない教会や博物館など市内にいい所がいくらでもあると言い張った。それに死海に行く道路は危険で観光客が通れる道ではないと言う。この国は戦争中なんだ。彼が何度も口にした言葉だった。
「カスタマーの希望に応えられないなんてガイド失格じゃないですか」
横から女性が割って入ってきた。アンジェラだった。気付かなかったが隣のテーブルで食事していたらしい。ガイドとアンジェラは早口の英語で言い合いになった。
「ガイドを私に乗り換える気はないですか。私ならどこだって案内できますよ」
「そんなことしたら違約金かかりますよ。それに今の便で帰るのは不可能だ」
3人は顔を見合わせる。
「翔が行きたいならいいんじゃないかな。お金は心配しなくていいよ」と巧。
「また来るのも大変だから、翔が行きたいところは全部行ってみよう。帰りが遅れたって構わないよ」健斗も賛成する。
「じゃあ決まりですね。あなた方の旅行会社の連絡先を教えて下さい」
アンジェラは早速連絡する。またあちこちに電話をしている。健斗の携帯が鳴った。旅行会社の担当からだった。今のガイドからアンジェラに替えることに間違いないかの確認だった。追加料金の支払いも承諾した。今度はガイドの電話が鳴る。英語だが険悪なやりとりなのは判る。電話を切るとガイドは
「違約金はもらいますよ。死海なんていまから行ってどうなっても知りませんよ」
憮然とした表情で席を立つとガイドは行ってしまった。
「ここまで来て死海で泳ぐのは欠かせないですね」
「そうじゃなくもう少し北の方」
「ちょっと待って。地図を出します」
翔は死海の北を指さす。
「ヨルダン川ですね。この辺にあまり観光スポットはないですよ。もしかしてアル・マグダスに行きたいのですか。キリスト教信者だったら別ですが辺鄙なところですよ。後は小さな教会とか。でも近くにロシア風のいいホテルがありますね」
「とにかくその辺り」
「予約してみます」
アンジェラは早速電話をする。
「良かった。空きがありました。せっかく死海まで行くんですからビーチにも行きましょう」
夕食はアンジェラの案内で地元のレストランに入った。ようやくエルサレムの街を観光できた気がした。翌日、8時30分にアンジェラが迎えに来た。ワゴンタイプの車で男性の運転手が乗っていた。ごつい体躯でラグビーでもやっていそうだ。
車は順調に進み国境を越えてヨルダンに入る。通関手続きは思ったよりは簡単だった。予約したホテルに到着する。外はかなりの暑さだがホテル中は快適だった。チェックインして1時間ほど部屋で休んだ。
「じゃあアル・マグダスに向います。キリストが洗礼を受けた場所です。洗礼はしますか?キリスト教徒でなくてもお金を出せば体験できますよ」
「いやいい」翔が言った。
「洗礼ってどうするの」
「ヨルダン川に漬かるのですよ。修道士が沈めてくれます」
「遠慮しとく」
車はヨルダン川に沿ってアル・マグダスに向かう。途中で翔が「ここで止めて。川の方に行きたい」と言った。
「ここは日本じゃないから怪しい行動をしたら大変なことになりますよ。安全なのは観光エリアの中だけです」とアンジェラが答える。それでも運転手と何か話をしてくれている。
「ちょっと降りるくらいはいいでしょう。彼が見張ってますから、携帯電話で連絡があったらすぐ戻りますよ」
車は川に向かう小道に少し入った。そこで車を降りて川に歩いた。川の近くにだけ木が生えている。すこし開けた場所に出た。雲一つない青空の下ヨルダン川が流れている。強烈な日差しだ。
「濁ってるね」
「少し風があるのが救いだな。長くいると熱射病になる」
翔は食い入るように川を眺めている。
「何か見えるの?」
その時、微かな地鳴りが聞こえ、大地が揺れた。アンジェラと巧は顔を見合わせた。
「地震です」
翔と健斗の様子がおかしかった。いつのまにか翔は跪いて祈っている。健斗は焦点の合わない目で「繋がった」とつぶやいた。巧とアンジェラはあっけにとられて、しばらく翔と健斗の様子を見ていた。地震はすぐに収まった。健斗は我に返ったようであたりを見回した。
「僕何かしてた」
「『繋がった』って言ってた。覚えてないの」
「さっぱり。でも気を失ってたみたいな自覚はある。翔は大丈夫なの」
「さっきからあの状態なんだ」
皆でしばらく翔を見守った。嘆きの壁へ一心に祈りを捧げている信者のように、何だか犯してはいけない畏れを感じる。全く動かないが気絶している訳ではないらしい。真剣に何かを祈っている様子だった。数分経ったろうか。翔は目を開けて立ち上がった。何も話したくない様子だった。
「顔色が悪いです。ホテルに戻りましょうか」
翔がうなずく。
「ホテルに戻ってゆっくり休みましょう。長旅の疲れがでたのでしょう」
車はホテルに戻った。その日は各自の部屋でゆっくり休むことになった。巧が退屈になってロビーに行ってみるとアンジェラがいた。
「退屈ですか。ここはプールもありますよ」
「ここでは地震は多いの」
「多くはないですが珍しいことではありません。さっき調べましたがとても小さな地震でした。でも震源は私たちがいた真下あたりだったみたいです」
「なんだか神の啓示だったみたいだったけど」
「タイミング的にはそんな感じですね。翔さんが来るのを待っていたみたいな」
「健斗までおかしくなってた」
「健斗さんも神様とつながりがあったのですか」
「なかったと思う。繋がったってどういう意味だろう。日本とここが繋がったってことかな」
「旅の目的が果たせたのだといいですね」
「明日皆さんが元気を取り戻したなら、死海に行ってみましょう。ここからだとヨルダンのクイーンマリア空港が少し近いですが、イスラエルに入国したベン・グリオン空港から帰る方が面倒が少ないでしょう。明日の夕方の便を調べてみますか」
「いろいろありがとう」
翌日、翔も健斗も元気を取り戻し死海に向かった。ビーチで高濃度塩分の浮力を楽しんだが、あまり時間はなかった。イスラエルに戻り慌ただしく帰国の途についた。
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