短編小説集『そらのおと』
えす
#1 青空くらげ
青い空を見上げることが彼の日課だった。
春先の穏やかな昼下がり、駅前の公園にあるベンチに腰掛け、ぼんやりと頭上の広がりに目を向ける。淡い水色の空が風に揺れるような気がした。その空の中、ひらひらと漂うクラゲが目に入る。透き通った体が光を反射し、まるで空気の中で泳いでいるように見えた。
人通りの多い通りを行き交う誰もが、見向きもしない。空にクラゲが漂っていることに気付いているのは、どうやら彼だけらしい。
彼が最初に空のクラゲを見たのは、一年前のことだった。ある休日、たまたま深夜のドキュメンタリー番組で海洋生物の特集を見ていた。そこでは、深海で暮らす透明なクラゲが映し出されていた。流線型の体が青白い光を放ち、幽玄な美しさを湛えていた。その姿に心を奪われた彼は、それ以来、空を眺めるたびにクラゲの幻影を見てしまうようになった。
「クラゲはどこにでも漂っているんだ。ただ、みんな気づかないだけで」
そんな考えに取り憑かれた彼は、空のクラゲを観察する時間を増やしていった。晴れた日でも曇りの日でも、目を凝らせば必ずクラゲはいた。それは風に流されるわけでもなく、独自のリズムで漂っていた。
ふと、このことを誰かに共有したくなった。しかし「空にクラゲが見える」と言ったところで、まともな返答を期待できるわけがなかった。友人も家族も、彼の話を軽く流し、「疲れてるんじゃない?」と笑うだけだった。いつしか彼は、人と空のクラゲについて話すことをやめていた。
しかしその日、彼は再び公園のベンチに座りながら、隣に腰掛けた見知らぬ老人に話しかけた。なぜ、話そうと思ったのかわからない。ただ、言葉は自然と口から放たれた。
「空を見ていると、クラゲが漂っているのがわかるんです」
老人は驚いた顔をすることもなく、ただ微笑んで彼を見つめた。
「空にクラゲか。面白いね。それはどんなクラゲなんだ?」
思わぬ反応に彼は戸惑いながらも説明を始めた。クラゲの透明な体、流れるような動き、そしてその存在がなぜか哀愁を帯びていること。それを語り終えた時、老人は静かに目を閉じた。
「ふむ──それはな、きっと『想い』だよ」
「想い?」
「ああ、誰かが見えないところで手放した感情や記憶。未練や喜び、悲しみが、クラゲの形を取って漂っているんじゃないかと思うんだ」
彼はその言葉に息を呑んだ。確かにクラゲを見ていると、胸の奥に締め付けられるような感情が湧き上がる。それは自分自身の記憶ではなく、どこか遠くから流れてきたもののように思えた。
「それじゃあ、クラゲは誰かの感情なんですか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。だけどね、君がそのクラゲを見つけたってことは、きっと君の中にも手放せない何かがあるってことだろうね」
その後、彼はさらに頻繁にクラゲを見るようになった。
街角のカフェ、電車の中、夜の自室。どんな場所でも、彼の視界にクラゲがふわりと現れる。それらは決して言葉を発するわけではない。ただ、ひたすらに漂い続ける。その姿を見るたびに、彼の胸には奇妙な感覚が広がった。
「手放せない何か……か」
彼は思った。老人の言葉の意味を考えるほど、自分の中の「何か」が少しずつ浮かび上がってくる気がした。過去の失敗、愛した人への後悔、叶わなかった夢。それらがすべて、クラゲの形をして空を漂っているように感じられた。
ある日の夕方、彼はベンチから立ち上がり、空を仰いだ。
太陽が地平線に沈む瞬間、空のクラゲたちが一斉に輝き始めた。それはまるで、彼に向かって微笑んでいるかのようだった。
彼は一つ深呼吸をし、静かに言った。
「ありがとう」
その瞬間、クラゲたちはふわりと溶けるように消えていった。それは、彼の心の中で長らく漂っていた感情が浄化された証のように思えた。青い空には、もうクラゲの影も形もない。ただ、澄み渡る青が広がっているだけだった。
彼は歩き出した。
──空を見上げる必要は、もう、ない。
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