飛行機人間

楽天アイヒマン

飛行機人間

 なんでこんな所で働くことになったんだろうか。ぼんやりした頭で考えても答えは出ない。汗はとめどなく流れ、意識は朦朧としてくる。何も考えず、ただ手元の作業に集中する。モーター音が正気をガリガリと削る。その時工場長の声がスピーカーから響いた。「各自休憩!!」僕は作業を止めて、外の空気を浴びに行く。室内の熱気から一点、冬の空気は切り付けるように冷たく、寒暖差で頭が痛くなる。頭を軽く振り、自販機で水を買った。ふと一口のみ、空を見上げる。頬にポツリと冷たい感覚があった。雪だ。雪は綺麗でいい。汚いものを覆い隠してくれる。

 見上げた空にはトラックが走り、猥雑な飲み屋が浮かんで連なっている。酔っ払いの下卑た声が聞こえてきそうだ。ネオンと排気ガスが立ち込めている。ため息をつき、子供の頃に見た空を思い返した。


「おーい、さっさと走れ。遅れるぞ」空からクラスメート達が、僕に向かって叫んだ。彼らの声は、反重力シューズのジェット音にかき消されない程大きく、授業中に騒いでよく怒られていた。高校受験が近いんだから、少しは静かにして欲しいもんだ。

 腕時計を見ると確かにこのまま歩いてたら遅刻しそうだ。カバンの紐を締め直し、小走りで学校に向かう。空を見上げると、クラスメート達は蜃気楼の立つ丘の向こうへ消えていた。汗が吹き出してきたが、拭うこともせず、僕は息を切らしながら走り続けた。

 途中で打ち水をしているおばあちゃんがいた。水は撒かれる端からすぐ乾いていく。ムッと湧き上がったコンクリートの匂いがする。おばあちゃんは汗だくで走る僕の顔を不思議そうに見ている。なぜ反重力シューズを使わないのかと思っているんだろう。懇切丁寧に説明してあげたいが、あとちょっとで遅刻だ。急がないと。

チャイムと一緒にクラスに滑り込む。汗だくで時間ギリギリに登校することはいつものことなので誰も気にしない。クラスメートは僕と対照的に汗ひとつかいていない。みんな反重力シューズで登校するから当たり前だ。天井から声がした。

「汗すごいね、ティッシュいる?」目の前にはティッシュを持つ手がプラプラと揺れている。

「いや大丈夫、ありがとう」そう答えると、手はついっと天井に戻っていった。

 教室の中は、天井と床に机が並べられている。往来のために壁の端に平らな板が打ち付けられている。その板に挟まれるようにして大きなモニターが設置されており、天井の生徒のために教壇を上下反転した映像がリアルタイムで中継されている。

 いつからこうなったんだっけ。いまだに慣れることができない。忌々しげに教室の端に設置された機械を見つめる。今ここでこれを壊したら天井にいるクラスメートは全員真っ逆様に落ちてくる。暗い感情が胸の中に広がっていくが、機械は淡々と青いランプを点滅させている。

 その時、教室のドアを開けて担任の先生が入ってきた。

「よーし、授業始めるぞ。一時間目は近代史だな。」そう言って先生は教科書を読み始めた。

「2050年、重力の謎が解明された。全人類が国境を超えて研究を進め、まず運送業に革命が起きた。トラックは空を走り、飛行機産業は縮小され、個人配達を始める人口が爆発的に増えた。通行の邪魔だと、雲をコントロールする技術が発展し、2010年代によく見られた、スコールや竜巻などの不安定な天気がこの世から消えた。その変化にあわせて法整備が行われ、反重力の技術の簡素化が進むと、大衆向けの反重力商品が次々と現れ始めた。大量生産を可能にした技術者は、職を失った飛行機産業の人たちがほとんどだったと言われている。黎明期には衝突事故などもあったが、政府が義務化したVRゴーグルをつけると、目の前に縦横無尽に道路が現れる。その通りに進むことで事故は避けられた。今や家庭の隅々に反重力技術を応用したものが置かれている…先生が子供の頃、天空の城ラピュタって映画があったんだけど、まさかあれが現実になるなんて思いもしなかったわ」

 先生は笑うが、みんなラピュタがなんだかわからなかったのか、微妙な反応をしている。だけど、僕は小さい頃にラピュタを見たことがあった。

 

 確か週末の夜だったはずだ。お父さんが嬉しそうな様子でリビングに入ってきた。手には古いDVDを持っている。なんでも会社の骨董品マニアの同僚から譲ってもらったらしい。テレビにDVDを差し込み、再生されるまで待つ。数回の点滅の後、映画が再生される。お父さんが子供の頃は毎週末の夜、映画を放送する番組があったらしい。その番組ではよくラピュタを放送していたそうだ。お父さんは懐かしそうに映画を見ている。

 僕は食い入るように映画を見ていた。映画が終わったら小さい双眼鏡を片手に外へ飛び出し、ラピュタを探した。その頃は今ほど反重力技術が発達しすぎておらず、郊外にある我が家からは、運が良ければたまに星が見えた。

 冬の空らしく、空気が透明に澄んでいた。僕は寒さを忘れて駆け回っていた。お母さんがサンダルを突っ掛けて僕を追いかけてくる。寒くて風邪を引かないか心配だったのだろう。お母さんは僕に乱暴にダウンを着せた。乱れた髪を冷たい風が掻き上げた。

 その時僕はラピュタを見つけた。夜空をゆっくりと横切る星があった。今になって思えばあれは人工衛星とか宇宙ステーションの類だったのだろうが、僕は大はしゃぎでお母さんに何度も言った。「ラピュタだ、ラピュタが本当にあったんだ」

お母さんは微笑ましげに僕を見ていた。多分純粋な子供に本当のことを言うのは無粋なことだと思ったんだろう。

 あの時本当のことを言ってくれれば、空に憧れることはなかった。そして反重力技術を恨めしく思うことはなかった。


 ぼんやりと昔のことを思い出していたら、いつの間にか授業が終わった。休み時間になって皆一斉に着替え始める。次の時間は体育だ。どうせ反重力技術の使い方とその実践なんだろう。僕は反重力なんてつまらないと思った。昔は確かに美しかった未開の空への冒涜だと思った。綺麗な飛行機雲を黒く塗りつぶすことだと思った。

ぐるぐる考えていると、なんだかどうでも良くなったから、屋上でサボることにした。着替えず教室を出ていく僕を見てクラスメートが呼びかけた。

「お前またサボり?成績大丈夫なの?」

 大丈夫なわけない。ずっと大丈夫じゃない。

 屋上でぼんやりと空を見ていた。空に浮かぶビルに縦横無尽に走り去るトラック。サラリーマンが小走りで走り抜けていく。夜になったら居酒屋やラブホテルが浮かび上がり、星なんて見えそうにない。

 確か昔の学者が言っていた。現代人は虹を見た時、昔の人々のような敬虔な気持ちを持つことができない。なぜなら虹が出るメカニズムを知っているからだ。現代人は知識を得る代わりに代わりの何かを失ってしまった。

 今の僕たちは何を失ってしまったんだろうか。それを考えるにはあまりにいい天気すぎて、僕はゆっくり目を閉じた。


 目を覚ますと太陽が真上に来ていた。しまった、今何時だ。慌ててスマホを見ると三時間目の終わり頃だった。起こしてくれないクラスメイトに軽い苛立ちを覚えるがしょうがない。そもそも僕がここにいることは誰も知らないし、頑なに反重力技術を使おうとしない僕は、クラスのみんなから一線を引かれていた。

 僕はゆっくりと体を起こし、教室に向かった。踏み締める床は硬いが、確かに暖かかった。


 惰性で中学校生活を過ごし、僕は県立の高校へと入学した。高校生活は信じられないほどつまらなかった。性欲以外に生きがいの無いクラスメート、大人になりたがって背伸びした体験談を語る奴ら。全員下らなかった。僕はずっと空を見ていたのに、自分の信念を持たない彼らと同じ枠組みに入れられることが耐えられなかった。

 しかし心の中ではこう言っていた。彼らのようになりたい。よくわからないこだわりなんて捨てて普通に生きてみたい。

 ぼんやりと毎日を浪費していたある日、事件が起きた。庭で放し飼いにしていた猫が木の上に登ってしまったのだ。家に脚立はないし、両親は外出中だった。しばらく様子を見ていたが、怯えて降りてこられないようだった。このままだと飛び降りて大怪我してしまう。僕は玄関にあった父親の反重力シューズをつっかけて無我夢中で駆け出した。頭の中からは、大事にしていた反重力への反感は消えていた。

 靴のスイッチを押すと体がゆっくりと浮き上がる。強い風が吹いてきて体勢が崩れそうになるが慌てて立て直す。枝が揺れて猫が振り落とされそうになる。頼む、もう少し耐えてくれ。あと2mほどだ。慣れないせいか、浮上があまりにゆっくりすぎる。反重力技術の授業をサボっていたことを強く後悔した。

 猫まであと1mくらいになったところで、猫が安心したのか枝から飛び降りて、僕に向かって飛びついてきた。目の前がスローモーションになる。僕は大きく手を開いて猫を抱きしめた。

 こだわりが消えた悲しみと世間に相入れることが出来た喜びが、胸の中で渦巻いていた。僕はよくわからない気持ちを押し付けるように、猫に頬擦りをした。

 それからの日々は穏やかに過ぎていった。もう汗だくで時間ギリギリに登校することも無くなった。多少の違和感を抱えながらも、クラスメートたちと遊び、笑い合うことができた。意外に反重力も悪くないじゃないか。空を飛ぶことが楽しいと素直に思えた。ずっと空中にいると、下を見下ろすだけで、大空を眺めることもなくなった。

 なんだ、僕もやればできるじゃないか。今では信じていたこだわりも薄れて、楽しくやれている。

 高校生活は何事もなく過ぎ去り、3年生も終わり頃に差し掛かった。クラスメートの大体は進路が決まっていて、僕は就職することにした。もう高校生活も消化試合で、やることと言えば友人達との無駄話くらいだった。

 その日も放課後、教室に残ってダラダラ話をしていた。すると友人の一人がつぶやいた。「雪だ」窓の外を見るとチラチラと雪が降っている。確かに今日は寒いと思ったが、まさか雪が降るなんて。久しぶりに見た光景に胸が踊る。言い合わせることもなく、反重力シューズに履き替え、窓から飛び出した。

 雪は激しさを増すが、僕らには関係なかった。体は芯から暑かったし、縦横無尽に飛び回りながら見る雪は、例えようもないくらい美しかった。それと同じくらい、「今」の美しさを感じていたが、誰も言葉にできなかった。僕たちはびしょ濡れになるまで空を飛び、しっかりと母親から怒られた。それからまもなく、僕たちは高校を卒業した。

 僕は地元の反重力トラックの製造工場に就職した。求人の中では割と待遇が良かったし、ギリギリ僕の学力でいけそうだったから、特に考えず就職した。ところがそれが大間違いだった。求人票は見せかけで、劣悪な労働環境に月100時間は超える残業。転職や労働環境の改善、それらを考える余裕もなかった。毎日家に帰ると泥のように眠った。


 長い回想を終えると、僕はペットボトルをゴミ箱に投げ捨て、詰所へ戻った。もうこの生活も10年になる。数少ない友人達は結婚して子供もいる。みんな立派に生活している。しかし僕は一人だ。それも子供の頃みたいに、こだわりや信念ゆえの一人じゃない。いつの間にか時間が経っていて、気づいたら一人になっていた。

 ふと考える。僕にも違う人生があったのかと。あのままこだわりを貫いていれば、どこかに同じ考えを持つ人と会えたかもしれない。そしたら僕は一人じゃなかったかもしれない。そんな取り留めのない空想ばかり浮かんできて、涙が出そうになった。残りの業務に支障が出そうなので、何も考えないようにしよう。そしたらいつの間にか仕事が終わって、帰宅しているはずだ。

 気がつくと雪の降る道をトボトボと歩いていた。仕事中の記憶はないが、ひどく体がだるい。子供の頃、あんなに軽蔑していたトラックを作っている。そんな現状にもはや何の感情も抱かなくなっていた。というより軽蔑していたことそのものを忘れてしまっていた。またなんの変哲もない、感情のない毎日が続く。

 7時になる目覚まし時計。冷えた朝飯。相変わらずの満員電車。喧騒。孤独。自分の名を呼ぶ上司。残業。終電。風呂に入り就寝。

 7時になる目覚まし時計。冷えた朝飯。相変わらずの満員電車。喧騒。孤独。自分の名を呼ぶ上司。残業。終電。風呂に入り就寝。

 7時になる目覚まし時計。冷えた朝飯。相変わらずの満員電車。喧騒。孤独。自分の名を呼ぶ上司。残業。終電。風呂に入り就寝。

 7時になる目覚まし時計。冷えた朝飯。相変わらずの満員電車。喧騒。孤独。自分の名を呼ぶ上司。残業。終電。風呂に入り就寝。

 7時になる目覚まし時計。冷えた朝飯。相変わらずの満員電車。喧騒。孤独。自分の名を呼ぶ上司。残業。終電。駅のホームで泣いている少年。

 少年!?突然現れたイレギュラーに激しく面食らった。歳のころは10歳くらいだろうか。刺すように寒い冬の夜に、少年は薄汚れたロンT一枚に擦り切れたジーンズを履いている。辺りを見回しても親らしき大人はいない。このままだと凍死してしまうかもしれない。自販機で温かいココアを買い、それを差し出しながら少年へと問いかけた。

「大丈夫か少年。どうしたんだ?パパとママは?」

「僕が変なこと言うから怒って追い出されちゃったんだ。そんなの今だと凄いお金持ちにしかできないって」

「そっか、少年。みんなそうやって大人になるんだ…ところで、変なことって何を言ったんだ。」

 少年はしゃくりあげながら答えた。

「星が見たい」

 頭を殴られたような衝撃がした。少年の顔は僕に似ていないが、確かに涙で濡れそぼった瞳に、かつての僕の姿を見た。忘れていた僕。忘れようとした僕。何重にも巻かれたバームクーヘンの芯の部分。

「今は見えないけど、昔は星っていうのが見えたんだって。僕、誕生日にそれが見たいって言ったんだ。そしたらパパが不機嫌になっちゃって、僕を置いて帰っちゃったんだ。もうどうしていいかわかんない」そういうと少年は泣きじゃくってしまった。

僕は少年が泣き止むまで待つと、ゆっくりと語りかけた。

「なあ、お兄ちゃんも昔、空が好きで星が見たかったんだ。今の君みたいにね」

「…うん」

「けど今は何を見たって好きになれないし、空なんて今年に入ってから見上げたこともない。今更君にかけられる言葉はないのかもしれない」

「…うん」

「なあ少年、その気持ちは大切か。忘れずに大人になれるか」

「うん!!」

「そしたら、僕が星を見せてやる」

 僕は鞄にしまっていた反重力シューズを引っ掴み、駆け出した。駅の改札口を抜けて、駅ビルを駆け上がった。ボロボロの革靴を脱ぎ捨て、反重力シューズの靴紐を締めた。そのまま屋上から飛び出した。


 どんどんと空へ登っていく。時折近くを通るトラックから、凄まじい音のクラクションが鳴らされたが、どうでもよかった。20分ほどで雲と同じ高さまで飛び上がった。そこからさらに上に登る。

 今まで見たことがないほどの美しい星空が目の前に広がっていた。際限なく上へ、上へと登った。反重力シューズがけたたましい警告音を放っている。これ以上登るとオーバーヒートするという警告だ。それでも、星をその手に掴もうと、上へ登った。やがて、反重力シューズが火を吹いて、僕は真っ逆さまに落ちていく。僕は今輝いているだろうか。僕は今星になれているだろうか。あの少年に見えているだろうか。薄れゆく意識の中、そんなことを考えた。

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