【短編】鏡に映ったわたし

お茶の間ぽんこ

鏡に映ったわたし

 朝起きてどんよりとした気分になる。小学校で過ごす時間は楽しいし、私と仲良くしてくれる友達もいっぱいいる。でも、一日の始まりをこの家から迎えるのが嫌だ。


「りこちゃん、おはよう」


 お母さんは台所で洗い物をしていた。机にはハムとレタスが挟まれたサンドイッチが置かれていた。私は静かに「おはよう」と言ってサンドイッチを口に入れる。しっかりと温かくて美味しかった。


 あの人はまだ起きてこないみたいだ。私は早々に食べ終えて身支度を始めた。鏡に映る私は元気がなくて別人みたいに見えた。


「今日も遅くなるからパパと一緒に食べてね」


 お母さんは別に支障がないよね、というつもりで言ったのだろう。私は黙って頷きながら靴を履いて家から出た。





「りっちゃん~」


 誰かが私に急にハグしてきた。私は思わずビクッと震えたけど、それはヨシコちゃんだと分かってほっと胸をなでおろした。その様子を見たヨシコちゃんはキョトンとしたが、大きく笑い声をあげる。


「も~なに~! 男子と勘違いしちゃったの?」


「ちがうよ、いきなりだったからさ」


 ヨシコちゃんはギュッとハグしてくる。なんだかテンションが高いみたいだ。


「ヨシコちゃん、今日なんか元気だね」


「ふふっ。実はね、今日は…」


 ヨシコちゃんは私から離れて少し間を空けて焦らしてきた。そしてパッと私の目の前に顔を近づけた。


「私の弟が生まれるんだ!」


 ヨシコちゃんは「秘密だからね」と添えて自慢げな顔をした。私はとてつもなく羨ましく感じた。


「え~おめでとうだね。今度会いに行かせてよ」


 私が手をパチパチすると周りの子たちが「えっえっ何の話!?」と言って私たちに近づいてきた。ヨシコちゃんは「も~秘密の話なんだけどな」と言いつつも話したかったらしく、また「秘密だからね」と添えて弟のことを皆に言った。皆は目をキラキラさせて羨ましそうにしていた。





 家に帰ると玄関にはあの人の靴が置いていた。心の中が一気に暗くなるような感じがした。義父が家にいるらしい。私は静かに自分の部屋に行こうとした。自分の部屋に行くためにはダイニングを通らなければいけなくて仕方なくそのドアを開けると、テーブルに義父がいた。


「おう、りこ」


 義父はお酒を飲んで酔っているみたいだ。相変わらず少し不機嫌そうに見える。私に近づいてきて、私の頭に手を置いてクシャクシャとしてきた。彼の息がアルコールの匂いがして臭い。


「子供って本当色気のない面してんだなぁ」


 義父は片手に持っているお酒の瓶を喉に通す。私はさっさと離れたかったけど、そうしてしまうと義父が打つから我慢した。


「お前も飲む?」義父は瓶を揺らしてみせる。


 こういうときは「お酒の匂いが苦手」だとか彼に関するものを否定してはいけない。


「今日は疲れてて。ごめんなさい」


 私は自分のことを理由に断った。


「なんだ。つれねぇな」と義父は机に戻ってテレビを見始める。


 私は義父に解放されて自分の部屋に行った。


 ランドセルを置いてベッドに座る。さっきの一瞬でかなり疲れた。ベッドに身体を倒して何もない宙を見上げる。私は義父が大っ嫌いだ。お母さんは働いているのに、義父は日中お酒を飲んだりパチンコを打ってのうのうと過ごしている。何よりも嫌なのは私にベタベタと触れてくることだ。簡単に断れたらいいけれど、そうすれば彼はすぐに叩いてくるのだ。青あざになることだってあった。夏のプールでは恥ずかしくって休もうかと思った。確か、お母さんとお父さんが離婚したのは二年前ぐらいだっただろうか。あのときに戻りたい。もう一度お父さんと一緒に暮らしたい。でも、離婚するときにお母さんがひどく泣いて喚いて、お母さんを一人にしたらきっと潰れてしまうと思ったからお母さん方についた。結局、お母さんはすぐに再婚してあの人と一緒に暮らすことになったけど、あの人の何に惹かれたのだろうか。義父はお母さんがいないときにさっきみたいに必ずいやらしいことをしてくる。誰かに相談したかったけれど、お母さんに言ったらきっとおかしくなっちゃうだろうし、学校の友達に言っても事情が伝わらないだろうし、もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。誰にも相談できないこの日々を過ごしていくのがとても辛い。ヨシコちゃんの弟の話を聞いたとき、私も何でも相談ごとを話せる兄弟がいたらどれほど良かったのかと考えた。でも兄や姉がいたとしても、それはそれで兄姉に心配をかけないように振舞うだろうし、弟や妹がいたとしても、その子の分まで負担を背負いかねないな、と思った。だからこんなとき、双子がいたら一番良いのになと思った。


 私は自分の部屋に置いてある鏡に向かって鏡に映る私を見つめる。双子だったら私と瓜二つなんだろうか。そうしたらじゃんけんでもしようものなら、ずっと同じ手を出すのだろうか。そんなことを考えて、何気なく鏡に向かってじゃんけんをしてみた。


私はグー。鏡の私はパー。


私はグー。鏡の私はパー!?


「!?」


 思わず目を疑った。鏡の私はパーを出したのだ。さらに驚いた顔をした私が映るはずがクスッと笑った私がそこに映っていた。


「なに豆鉄砲くらったみたいな顔してんの」


 鏡の私の口が動いた。私は信じられない事態に目をパチパチさせた。


「あなたのために来てあげたって言うのに信じられないって顔、やめてよ」


 彼女はクスッと笑った。


「これって、夢なの?」


「夢かもしれないね。じゃあ頬っぺたつねってみたら?」


 私は頬をつねってみた。しっかりと痛みを感じた。


「えっ、じゃあ本当ってこと」


「それは私が決めることじゃない?」


 私はまだ信じることができなかったけど、夢でも現実でも、どっちでも良いんじゃないかと思ってその事態を受け入れることにした。


 まず聞いてみたいことがあった。


「あの人って、きもくない?」


「居なくなればいいのに、って思うよね」


 私たちは声を抑えて大きく笑った。


「私、双子がいればいいのに、って思ってたの。でもあなたがいてくれて嬉しい」


「双子というか、もう一人の自分だけどね」


「頭が追い付かないよ」


「本当のあなたが好きなように受け取ればいいんだよ」


「じゃあ、あなたはわたし。だから気持ちも全て受け入れてくれるってことだよね」


「そう捉えるんだったら、本当のあなたが今日ヨシコちゃんにハグされて義父のトラウマがよぎったってのは分かるっても納得がいくね」


「そこまで分かるんだ」


 私たちはまた笑った。私は心が躍っていた。


「今日さ、あの人から頭触られたんだよね」


「きったない手で触れんなよな」


 私たちは笑う。鏡に映るわたしは心の中で思っていることを私に代わって全て言ってくれた。


 私は鏡に映るわたしを完全に受け入れていた。





 私は鏡のわたしが生きがいになっていた。彼女は私が抱えているモヤモヤを言葉にしてくれて、それを聞いて私は納得していた。私が求めていることをちゃんと返してくれるのだ。


 それまで曇天だった毎日が晴々とした色で染めてくれているみたいだ。


 あるとき鏡のわたしに聞いてみた。


「私って、結局どうなるのかな」


 別にこのまま進んでいくんだろうなと思ってたし「どうなるか分からないね」って返ってくるんだろうと思っていた。


「どうしたいか、もう分かってるでしょ」


 鏡のわたしはそう答えた。なんだか素っ気ないようで当たり前なことを淡々と言っているように聞こえた。私はモヤモヤしたけれど、そのときはただ少し笑って誤魔化して「そうだね」と言って流した。





 いつものように、学校から家に帰ってくる。義父がいたけど、私はそれよりも鏡のわたしがいることの方が大事で、もはや今の環境に慣れてきたように思えた。


「おう、りこ」


 リビングに行くといつも通り、瓶に入ったお酒を飲んでいる義父から同じ言葉が返ってくる。私は「ただいま」と静かに言う。


「最近つれねぇな」


「そんなことないと思うけど」


 私はつい、素っ気なく返してしまった。それが義父の癪に触ったみたいだ。


「てめぇ、調子乗ってるな」


「ごめんなさい」


 私は軽くすませて自分の部屋に行った。しかし義父はズカズカと私の部屋に入ってきた。


「なんだよ。お前を可愛がってやろうと思ってんのにさ」


 私をベッドに押し倒してくる。


「やめてください」


「いいだろう。血は繋がってねぇし」


「気持ち悪いです」私はつい口に出してしまった。


 義父の顔は無表情で、だけど怒っている様子が分かる。


「いい顔してりゃつけあがりやがって」


 義父は私の顔を打った。


 そして立ち上がり暴れ出した。


 私の机の教材やノートを薙ぎ払い、壁にかかった制服をかき払った。


 そして鏡に映る私と自分を見て「うっとおしいんだよ!」と言って片手に持った瓶を鏡に向かって投げつけた。ガシャーンと大きな音を立てて粉々に床へと散らばる。


「やめて!」


 私は鏡が割られて叫んだ。しかし既に割れてしまった鏡は破片となって床に転がっている。


 その光景をみて私は絶望した。もう、私のことを受け入れてくれる誰かはいなくなるのだ。


「黙って言う通りにしてりゃいいんだよ」


 義父が再び私の上にのしかかってきた。


 私の目から頬にわたって涙が伝う感触がする。


 眼前にある義父の顔よりも床に転がる鏡の破片を横目で見る。


―――どうしたいか、もう分かってるでしょ


 鏡に映ったわたしの言葉を思い出した。


 私はされるがままで現状に安住しているのだ。彼女の言っている真意がわかったような気がした。


 私は義父の股間を目一杯蹴り上げた。


 義父は悶絶する。私はその隙に彼の押さえつけていた手から逃れてその場を離れる。


 私の家から出て、なりふり構わず走った。走り続けた。


 走っている間、鏡のわたしを思った。


 もう鏡のわたしは消えてしまったのだ。


 私の涙は走り抜けていく道の地に染み込んでいった。





 あれから十年ほど経っただろうか。あの日、私はお父さんの家に逃げ込んだ。そしてお父さんは私を歓迎してくれて、泣き喚く私の話を聞いてくれた。私はお母さんの元から離れたことを引け目に感じたが、お父さんはそのことは気にしないで良いと言ってくれた。その言葉で私の心は安心して、ただお父さんの旨の中でワンワンと泣いた。


 私は今、お父さんと二人で暮らしている。お母さんのことは心配だけれど、私が思っているよりお母さんはちゃんと生きているのだろう。それより私は鏡のわたしのことを思っていた。


 鏡のわたしはあれっきり私の前に出てこなかったし、もう消えてしまったのだろうか。会えるのなら、私は鏡のわたしにまた会いたいと思っている。


 今日は社会人としての最初の日だ。自分の部屋に備えている鏡に向かって身なりを確認する。鏡に映る私は緊張感があるけれど、目は希望に満ち溢れるようなものだった。


 身なりがしっかりと整っていることを確認して、鏡に映る私をもう一度見てみる。

 鏡に映るわたしは元気があって、私の目からは涙が零れ落ちた。

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