本論ではAI関連技術の保有はいずれ国際的に規制される可能性があること。
そのため、わが国は、規制の前にAI関連技術を確立するべきであることを述べています。
それに加えて。
AI関連技術への国際的な規制が制定されたとしても、AI関連技術への実際の規制は形骸化する。
そう作者である村乃枯草さんは、予測しています。
なぜなら、該当する技術は企業単位で無数に開発可能であるから、国家レベルの規制では対応しきれないと述べているのです。
現在、スーパーコンピューターの開発は数カ国でしか行われていません。
開発コストや保守運用のための費用が膨大であるからです。
例えば。日本のスーパーコンピューター、富嶽の開発費は、おおよそ1300億円。年間運営費は約150億円にのぼるとも言われています。
これは、横須賀市や奈良市等の年間予算に並ぶ金額です。
消費電力は、おおよそ7万世帯分。
北海道の小樽市の全世帯ほどの電力を消費します。
それでも日本はスーパーコンピュータを開発し豊富な計算資源を得ました。
それにより生成AIの演算部分部分である大規模言語モデルも開発したのです。
しかし、それによりAI関連技術の商業化に成功したとはいえません。
AIに関わる技術の商業化はずっと難局にあります。
しかし水の低きに就くが如く、やがて世界にはそうと意識されせずに、遍くAIが浸透することでしょう。
村乃枯草さんは、AI関連技術の保有を核兵器の保有に。
AI開発を酒造りに。
それぞれ喩えています。
巧みな比喩を用いてAI技術は世界の均衡を変えうる力であるが、AIの開発に要する技術は核開発ほどの特異性はなく、寡占はできないと示します。
歴史的に必然的な流れを説明して、未来の端緒を示してくれています。
これから、私たちは否応なく技術革新に立ち会うことになるでしょう。
本作は世の中の行く末を示してくれます。
とはいえ。
本作をどう理解するか。
未来の景色をどう眺めるか。
それは読む人それぞれの見方で異なるのです。
未来をどう受け取るかは、そこに生きる人の自由なのですから。
文字通り爆発的な発展を遂げているAI市場。
総務省調査(※)によると、2030年までの間、毎年30〜40%の成長が見込まれるとされ、
既に学校・会社業務においても幅広く利用が開始されている。
(※)令和6年・情報通信白書 https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r06/html/nd219100.html
このエッセイでは、核兵器、アルコール、そして規制をテーマにしながら、AIの行く末を語っている。
全世界へと散らばった黄金の種は、はたしてどのような花を咲かすのか。
・
非常に意義あるエッセイに感じられた。
切り口を変えることで、一見違うと思われるものに共通項を見出す。
人を狂わせるアルコールや、世界を一変させる可能性を持つAIは、なぜ核兵器の道を辿らなかったのか。
それとも今は、致命的な「何か」が起こるまでの猶予期間なのか。
ここに「利益(国益)」の要素が加わって、とても濃い問題提起がされている。
産業革命の際、多くの人が奴隷のようにこき使われた。
働かせれば働かせるだけ、実績が上がり、金が手に入るからだ。他者との競争もある。休ませるわけにはいかない。
健康を害する人も出ただろう。だが突き進み続けて一通りの発展を遂げた。
十分に稼いだ彼らは次に何をしたか。
平和と倫理を用いだした。
人間こそが本当の宝。誰もが尊ばれるべきだと。
何人たりとも権利を侵すべきではないと。
彼らは堂々と解放を謳った。
発展とは意図的な枠組みの破壊であり、必ず歪みを生む。上記労働問題や公害でお分かりの通りだ。
そこに反応するのが倫理である。「人として大切なもの」を説いて、良からぬ方向へ進まないようにする。
より良い世界を。なるほど正論だ。
だがその「良さ」「正しさ」の根拠はどこにあるのか?
私が思うに、文明の成長には、常にこの問いが付きまとっている。
ある時は無理を言って振りほどき、ある時は滔々と理屈を並べて納得させた。
・
科学の進化は、本来稀な自然現象を意図的に再現させることに成功した。
生物が本来持つ対応速度はとっくに超えている。
一見社会に順応できているように見えていても、実際のところは先人が用意したコードに、だましだまししがみついているに過ぎないのだ。
これから先何が起こってもおかしくはない。
なぜなら、我々の日常は、既に世界の非日常に満ちているのだから。
とても興味深いエッセイである。
目に見えていないものに対しての我々の
関心の低さには或る意味、瞠目する。
それは放射性物質であったり化学物質で
あったりウイルスであったりと、負の
要素があればまだしも…。
発明は人類の歴史上、常に為されて来た
ものであり、今般、益々複雑化した恩恵を
齎すのだろう。
本エッセイは、AI技術を核兵器と比較し
二つの発明が其々に辿りついた 現在 を
興味深く記している。
取り分けAIは現代社会に於いて汎用性を
獲得している。半世紀にも満たないうちに
これ程までに裾野を拡げた背景を、寧ろ
技術的な壁のせいで三十年程足踏み状態が
あったと分析したのも興味深い。
かつて、推論エンジンと特殊言語を用いる
事により三歳児程度の知能(学習能力)を
持ったシステムを構築するも、実際ハードウエアに搭載するのにはニューロボードの
補助無くしては意味を成さなかった頃から
すると、今日の状況はまさに天と地。
まるで空気の様に生活に溶け込んでいる。
我々は、この一見すると穏やかに見える
AI技術の 本質 を見極める事が出来るの
だろうか。
人間は 考える葦 である。
目に見えないモノがΦとは限らないのだ。
我々は、考える事すらも放棄しては
いないだろうか。