第5話 コーヒー

 これは大人の飲み物、でもちょっとだけ特別よ。そう言って私のホットミルクにインスタントのコーヒー粉末を少し入れてくれた祖母は、今ではコーヒーを一切飲まなくなっていた。理由は、「ただでさえ寝つきが悪いのに、眠れなくなる」だそう。あんなに好んで飲んでいたのに、長い人生の中で人の好みというものは移り変わるのだなあとしみじみした。

 私はコーヒーが飲めない。カフェオレにしようが気分が悪くなる。某有名コーヒーファームで漂うコーヒーの香りに嘔気を覚える程である。味がどうではなくあの独特な香りに胸焼けがするのだ。もっぱら毎日飲むのは麦茶、紅茶、水である。あとお酒。

 小さい頃、それこそ祖母とホットミルクにコーヒー粉末を入れ、大人気分でコーヒー牛乳を飲んでいた頃はコーヒーの香りを大人の香りだなんて思い良い香りだと思っていた。しかしそれがいつからだろうか、20歳をすぎたあたりから全く受け付けなくなったのである。悪阻を疑う勢いで急に飲めなくなったのだ。それまでは、ブラックコーヒーは苦いからと飲めなくてもカフェオレだのカフェラテだのを毎日のように飲んでいたのに。

 このように、好きだった物を毎日のように摂取した結果、急に食べられなくなってしまう現象を味覚嫌悪学習というらしい。正確には味覚嫌悪学習というのは、食後に体調不良などを起こしその食べ物を嫌いになることであるが、おそらく私は毎日コーヒーを摂取しすぎてある日突然胸焼けを起こしそれが記憶にインプットされ、以降もコーヒーの香りで胸焼けを起こすようになったのではないかと思う。要は思い込み、脳の刷り込みなのだと思う。

 しかしながら、世の中にはプラシーボ効果というのが医療現場で実際に活用されているように、思い込みとはすごい力を持っている。冒頭にある祖母の、コーヒーのせいで寝つきが悪くなるというのもその一種だと思う。そもそも祖母は元々朝にコーヒーを飲む習慣があった。夜ではないのにたったコーヒーカップ一杯分のカフェインが睡眠に影響するだろうか。実際は歳を重ねるごとに多くの人が体験する軽度の不眠なのだと思う。しかし私の祖母は資産家産まれのお嬢様育ちで、70歳をすぎても純粋な少女のような人だった。一度そう思い込むと、コーヒーをやめたという事実だけで夜もしっかり眠れるのだ。人間の思い込みには感服する。

 蛇足であるが、味覚嫌悪学習の対策としては同じ物を食べ続けないというものがあるらしい。この話を最後まで読んでくださった方々、ぜひ私の二の舞にならないためにも毎日違う物を口にして欲しい。好きだった物を嫌いになるということは、実際かなり辛いのである。

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